煙の向こうに見えたのは

青川志帆

煙の向こうに見えたのは

 じめじめとした梅雨が終わり、ようやく夏がやって来た。抜けるような青い空を見上げ、駿しゅんは額に滲んだ汗を手のひらで拭う。まだ七月なのに、我慢できないほど暑い。

 高校から家までの帰り道は、徒歩で二十分もかからない。しかし強烈な暑さで頭がくらくらしていた。今日は特別、暑い日らしい。強い日差しから逃れるように、駿は家に転がり込む。


「ただいまー」


 駿は玄関に、見覚えのある靴が並べられていることに気付いた。


(叔父さん、来たんだ)


 わくわくする気持ちを抑えながら、靴を脱いで揃えてから、家に上がる。

 小走りで居間の前に行くと、廊下にまで元気な笑い声が聞こえて来た。

 扉を開けて、「叔父さん」と声をかけると、母と向き合っていた男が振り返った。


「おー、駿! おかえり!」


 相変わらず、父の弟であり自分の叔父であるいつきは熊のような風貌をしているが、なんとも人好きのする笑顔を持っているのも、彼の特徴だ。今日も、叔父のにかーっとした笑顔を見ると、不思議と心が安らぐのだった。


「お前にも、土産がたんまりあるぞー。ま、とりあえず着替えて来いよ」

「うん」


 駿は一旦自分の部屋に行くことにしたが、ふと母の姿が目に入ったので「ただいま」と一応言っておいた。


「おかえり」


 律儀に挨拶を返して、母は目元を和ませた。




 叔父の樹は、自称「旅人」だ。その名の通り、世界を放浪する生活を送っている。

 ふらりと日本に帰って来て、しばらく日雇いなどの仕事をして、また外国に出かけて行く――という、安定とは程遠い暮らしだ。

 彼はこの生活が気に入っているらしく、後悔などしたこともないという。

 彼の兄である誠一せいいちは、弟の暮らしぶりに呆れながらも、「あいつは俺や親父やお袋が何を言っても聞かなかったから、仕方ない」と諦めているようだ。

 なお、誠一は市役所勤めだ。兄弟でここまで対照的なのも珍しい、と駿はいつも思う。

 駿は父とはおよそ似つかない、この叔父が好きだった。土産話もいつも、面白い。

 だけど、父はともかく母は彼の来訪を歓迎していないのではないかと――駿は少し疑っていた。




 着替え終えて居間に顔を出すと、叔父がいなくなっていた。


「あれ。母さん、叔父さんは?」


 皿を洗っている母に声をかけると、母は少し硬い声で「仏壇の間に行ったわよ」と答えた。

 ああ、と納得して駿も仏壇の間に向かうことにした。

 襖を開けると、静かに叔父が仏壇と向き合っていた。

 線香の煙がくゆり、独特のにおいが駿の鼻先にまとわりつく。

 仏壇には、三人の写真が並べられていた。駿の祖父と祖母と、“駿を産んだ母親”の、三人だ。

 叔父にとっては、父と母と“かつての義理の姉”となる。


「おう、駿。お前もちゃんと手を合わせてるか?」

「……ま、それなりに」


 駿は信心深い方ではなかったので、仏壇に向かって話しかけることはしていなかった。

 駿の実母は、駿を産んで一年後に交通事故で亡くなった。それから二年後に、父は今の母親と再婚した。

 もちろん、駿は実母のことを覚えていない。叔父の方が、実母のことをよく知っているだろう。


「ねえ、叔父さん」

「うん?」

「俺の本当の母さんて、どんなひとだった?」


 駿の質問に、叔父は顔をこちらに向けて眉を上げた。


「なんだ、いきなりだな。何かあったか?」

「別に、なんとなく」

「……ふうん。ま、伊織いおりさんはそうだなあ……結構豪快な人だったな。俺が旅人やってることに対して、兄貴は前はよく怒ったんだけど、伊織さんは応援してくれたんだ。好きなことすればいい、ってさ」

「へえ……」


 改めて、仏壇に飾られた写真立てを見やる。ショートカットと大きな目が特徴的で、さぞや活発だったのだろう、と思わせる元気な笑顔が魅力的だ。いわゆる“美人”ではないが、愛嬌のある顔立ちだった。

 今の母親、絵里えりは線が細くて神経質に見える。実際、細やかな性格だ。


(父さんって、正反対な人と再婚したんだな)


「叔父さん、最近はどこ旅してたの?」

「この前は、アメリカ」

「アメリカ? 前も行ってたよね」

「今回は、中西部をバイクで走って来た。最高だったぞー」


 叔父はにっかり笑って、土産話を披露する。

 駿も畳に座って、彼の話に耳を傾けることにした。


 どこまでも広い空に、果てしない道。少し寂れたドライブスルーで食べた、巨大なハンバーガー。夕陽に照らされた、武骨な岩々。


 話を聞いているだけで、目を閉じるとその光景が浮かびそうになる。


「ネイティブ・アメリカンの居留地にもお邪魔してな。長老とも話したぞ。初めは警戒されたんだが、いつの間にか大歓迎よ」

「叔父さん、すごいな」


 叔父のすごいところは、こういう面だ。見知らぬ土地に行って、友達をたくさん作って来てしまう。

 世界中を旅していられるのは、世界中に作った友達がいるからだと叔父は自慢する。

 ちょっとヨーロッパに行きたいな、と思ったらドイツ人の友人に連絡を取って。ちょっと南米に行きたいな、と思ったらブラジルの友人に連絡を取って。現地で仕事を紹介してもらって、旅費を稼いだりもするという。


 友人作りが得意とは言えない駿にとって、叔父は眩しい存在だった。叔父の生活はとことんふらふらしているけれど、世界中に友人がいるなら何があっても困らないのではないだろうか――と、駿は考えていた。



 その夜は、ご馳走だった。

 両親と叔父と駿で、食卓を囲む。叔父の土産だという、怪しげなベーコンも食卓に載った。


「それで、俺が店に入った途端じいさんが白目向いてさあ……」


 叔父は機嫌よくビールを流し込みながら、旅先の話を語る。

 いつもしかつめらしい父も、ひっきりなしに笑っている。

 食事がひと段落ついて、酒を飲まない駿が手持無沙汰になった時。父がふと真面目な顔になった。


「相変わらず楽しそうだが、このままでいいのか?」


 昔ほどうるさくなくなったとはいえ、父はたまにこうして弟を諭そうとする。父が切り出すこの話題が、駿は苦手だった。非日常から日常に戻されるような、嫌な感じがするから。


「何度言わせるんだよ、兄さん。俺はこのまま生きて、旅先で適当に死ぬのが理想なんだ。兄さんには迷惑かけないから、堪忍してくれ」

「と、言ってもな」

「人には向き不向きがあるんだって。兄さんが俺みたいな風来坊になれないように、俺も兄さんみたいに真面目になれないのさ」

「…………」


 言い返す言葉を失ったのか、父は黙り込んでぬるくなったビールをあおっていた。

 駿はテレビを見るふりをしながらも、母を横目で見やった。

 母は無表情で、つまみをつまんでいる。母も一応ビールも飲んでいるが、彼女はあまり強くないのでまだ一杯目だ。相当気が抜けてしまっているんじゃなかろうか。


(きっと、母さんも父さんと同じこと思ってるんだろな)


 生真面目を絵に描いたような夫婦だ。考えていることも似ているのだろう。

 今の母――絵里が駿の母になったのは、駿が三つの頃。当然、ものごころ付く前の記憶なんてほとんどなく。三つから育ててくれた母が、本当の母だとずっと思っていた。

 小学校高学年に入って、父から打ち明けられた時に、驚いたものだ。

 だけど同時に、「ああそうか」と納得した面もあった。どことなく、絵里は駿に少し遠慮がちだったから。叱り方も控えているような、常に駿を伺っているような、そんな様子だったからだ。

 駿は、絵里が本当の母親でないと知ってから、たまに意地悪な気持ちを抱く時があった。

 たとえば、叱られた時。


(本当の母親じゃないくせに)


 と、どす黒い怒りと共に、言葉が湧いた。もし言えば、絵里はどんな顔をするのだろう。想像すると、少し痛快になって、それから自分に嫌気が差すのだった。


「そろそろ、片付けていいかしら」


 絵里の少し冷たい声を受けて、父と叔父は最後にビールを飲み干す。絵里が皿を重ね合わせ始めたところで、駿も手伝おうと皿に手を伸ばした。




 風呂に入った後、自室で涼んでいると、扉を叩く音が響いた。


「はーい。誰?」

「俺だよ」


 叔父の声だったので、はしゃぐ気持ちを抑えて扉に飛びつき、開く。彼は、にっかりと笑って部屋に入って来た。

「お前に、土産渡そうと思ってな」

「お土産なら、さっきくれたじゃん」


 机に飾った木彫りのフクロウを顎で示すと、叔父は苦笑した。


「もうひとつ、あったんだ」


 彼は懐から、とんでもないものを取り出した。……パイプだ。


「これって」

「そう。俺、ネイティブ・アメリカンの集落に行ったって言ったろ。そこの土産屋で買ったんだ。そこの部族には、パイプの煙越しに死者と会える儀式があるんだそうだ」


 死者、と駿は繰り返した。


「生きてる人でも、生霊として会えるとかなんとか。とにかく、もう一度会いたい人がいるってやつが、大量に押し寄せるんだとさ。それで、その儀式に使われるパイプの……レプリカ」

「レプリカかよ」

「儀式用のが、土産物屋に売ってるわけないだろ! あれは、親から子に代々伝えられるものらしいし。でも、いい感じだろ? なんか、らしいだろ?」


 にやにや笑って、叔父はどこからか箱も取り出す。


「この草をパイプに入れて、火をつけて吸うんだとさ。セットで売ってた」


 セット売りとは、有難みも何もない。


「でも、パイプって煙草たばこだろ?」

「そう。二十になってから吸えよ。本当は、渡すのもどうかなーっと思ったんだが。未来のお前へのプレゼントっていうのも、面白いかなと思ってさ。兄さんや義姉さんには、内緒だぞ」


 叔父は太いひとさし指を、唇に当てた。およそ日本人が似合わないキザな動作なのに、叔父には不思議と似合う。外国暮らしが長いせいだろうか。


「うん、わかった。叔父さん、ありがとう」

「おうよ。じゃあな、駿。おやすみ」


 叔父は鼻歌を歌いながら、駿の部屋を出て行った。

 駿は渡されたパイプと箱を、勉強机の引き出しに入れておいた。




 その夜は、夢を見た。どこまでも続く、赤茶けた道をバイクで走る夢だった。隣を馬に乗ったネイティブ・アメリカンが駆けて行く。

 ああ、これ夢じゃんと笑いながら、駿はバイクのスピードをあげた。




 叔父は一週間ほど駿の家に滞在して、パソコンばかりいじっていた。

 そして「次はグリーンランド行って来る」と、そのへんを歩いて来るとでも言うような気楽な調子で言い残して、出発してしまった。

 グリーンランドがどこかわからなくて、駿はインターネットで調べ、随分寒そうなところに行ったんだなという感想を持った。今は夏だから、温かいのかもしれないけれど。

 翌日の授業中、窓の外を見る。今、空を駆けている飛行機にもちろん叔父は乗っていないだろうが、なんとなく機体を視線で追ってしまう。


「なあ、駿」


 友人の小野おのに声をかけられて、既に授業が終わったのだとようやく気付く。


「この前、進路調査の紙、渡されたじゃん? お前、もう書いた?」

「……ああ、いや。まだだ。お前は?」

「一応、行けそうな大学名書いておいた。高卒で就職ってのも大変そうだしなー。でも俺、大学行くほど勉強好きじゃないんだよな。でも、親は行っておけって言うしな。でもそんな頭よくないしな」


 小野は、悩みを全部ぶちまけるかのように、滔々とうとうと語った。

 何回“でも”って言うんだよ、と駿は苦笑した。


「駿は、どうなんだ?」

「俺、かあ」


 無難に大学には行くよ、と言おうと思ったのに。どうしてか、口から出たのは全く違う言葉だった。


「俺、このまま日本で暮らすのはなあ……って思ってるんだ」

「はい?」

「大学行って、就職して、結婚して――ってのが思い描けないんだ」

「外国行きたいのか? それなら、大学行って留学すりゃいいじゃん。英文科とか行くのか?」

「……ええと、まあ」


 そこで駿は自分の思考が、一向にまとまっていないことに気付く。留学するのは何か違うんだよな、という思いがある。でも、具体的に言語化できない。どうして、こんなに歯痒い。

 違うんだよな、と小さく呟いて、駿はまた空を見やるのだった。





 家に帰ると、誰もいなかった。母の絵里は、まだパートの仕事から帰って来ていないようだ。

 自室で着替えてから仏壇の前に行って、実母の写真をまじまじと見ながら正座する。

 本当の母さんなら、という気持ちがおこる。

 絵里が駿に遠慮しているように、駿も絵里に対してよそよそしい気持ちを抱くことがあった。

 それに、絵里は父と同じで真面目な気質だ。服はいつもきっちり着込んで、家でくつろぐ時もだらしない恰好はしない。駿の服にも身だしなみにも、幼い頃はいつも気を遣っていた。時々、幼児の駿は煩わしくて抵抗したものだ。

 これまで、進路に悩んで親に相談したことはなかった。しかし、公立中学校を出て、無難な高校を受けたまではいいが、さすがにこの後は相談しないといけないだろう。

 ましてや、駿はあまりこのまま日本の大学に進みたいとは思っていない。


(どうせ、ちゃんとしろとか、きちんとした道を歩めって言われるんだろうな)


 考えると、うんざりして来た。

 叔父のように、世間の意見も吹っ切って生きるような、自由さがあればよかったのに。叔父のように生きるには、周りを気にしすぎる。だからといって、割り切って両親の希望するような生き方がしたいとも、思えない。

 どうすればいいんだ、と呟くと益々胸に不安が満ちた。


(――そうだ。あの母さんなら、どう言うだろう)


 ふと思いついて、駿は立ち上がった。





 部屋から、叔父にもらったパイプと葉の入った箱を取って来て、仏壇の間に座り込む。

 台所を探して出て来た、ライターも傍に置く。

 妙に、どきどきしていた。

 駿の父母は生真面目な性質だから、少しだけと言って駿に酒を飲ませることもなかった。駿も彼らの性質を受け継いだのか、割と真面目で不良行為なんてしたこともなかった。校則すら、破ったことはない。


 だからこれは初めての、不良行為だ。


 細かい葉を火皿と呼ばれる部分に詰めて、恐る恐る吸い口をくわえる。ライターで起こした火が妙に大きく見えて慌てながら、葉に火を灯す。


 ――煙の向こうに、会いたいひとが現れるというのなら。本当の母さんに会わせてくれ。


 そっと煙を吸うと、煙たさに耐え切れずに咳き込んでしまった。


(苦い。何だこれ)


 ごほごほごほ、と咳き込む駿の傍ら、パイプから出た煙が満ちていく。

 そして駿は、涙ぐむ目を凝らした。煙の向こうに、見えるものを見ようと。


(かあさん)


 いきなり、正面の襖が開いてぎゅっと心臓が痛くなる。だが、顔を出したのは写真立てでいつも見ていた顔ではなく――毎日顔を合わせている、絵里だった。

 いつ帰って来たのか、と愕然としながら煙のたなびく部屋を呆然と見る絵里を観察する。

 彼女は青ざめ、悲鳴をあげた。


「駿! どうして煙草なんて!」


 絵里は深呼吸してから、駿の手からパイプを取り上げて、走って行ってしまった。


 ――まずい。


 後悔を胸に、駿は立ち上がって絵里を追いかけた。





 台所で、水を流す音が聞こえる。火のついた葉を捨てているのだろう。駿には、それが正しい消し方なのかどうか、わからなかった。


「……母さん」


 絵里の後ろに立つと、彼女は固い声と共に振り返った。


「こんな立派なパイプ……どこで買ったの」

「……買ったんじゃない」

「もらったの?」


 頷くと、絵里の目がつり上がった。久々に怒った顔を見たな、なんて呑気な感想が胸に去来する。


「…………樹さんから?」

「そう。叔父さんから。アメリカ土産。あ、でも叔父さんは二十歳になってからだぞ、ってちゃんと言ってくれた。今日吸ったのは、どうしても我慢できなくて……。俺が悪いんだから、叔父さんには内緒にして」


 しばらく、絵里は黙ったまま駿を見上げていた。ふと、いつから自分は彼女を見下ろすようになったんだっけ、と考える。ずっと見上げていた存在より背が高くなったという事実に、改めて不思議な気持ちが興る。

 怒りが収まらないのか、絵里は何度も何度も深呼吸していた。


「お父さんとも、相談します。樹さんにも、今度来た時には言うと思う」


 絵里はそれだけ言って、「行きなさい」と促した。駿は居心地の悪さを覚えながらも、自室に戻ることにした。





 その夜、駿は父にたっぷり叱られた。もちろんパイプは没収だ。

 絵里は怒る父の横で、静かに駿を見るだけだった。

 すっかり参った駿は自室には戻らず、仏壇の間で寝転ぶ。電気もつけていないのに、庭に面したガラス戸から差し込む月の光のおかげで、室内は明るかった。

 ぼうっとして天井を見上げていると、襖が開いた。


「駿」


 絵里が入って来たことに気付き、駿は起き上がる。


「どうして、あんなことしたの。何か理由があったの?」


 母は心配そうに、眉をひそめて駿の傍らに正座した。

 駿は父に怒られた時、「会いたい人に会えるパイプ」なのだとは言わなかった。

 今も、誤魔化せばいい話だった。だけど、心配そうな絵里の目に見入っている内に、駿は口を開いていた。


「あれを吸えば、煙の向こうに会いたい人に、会わせてくれるっていうから……」

「――誰に、会いたかったの?」


 駿は答えなかったが、絵里は仏壇を見やって察したようだった。

 駿がパイプを吸ったのもこの部屋で、怒られて拗ねて寝転びに来たのも、この部屋。絵里が察するのは、当然だった。


「何か悩みがあるなら、言ってほしい。私、何でも相談に乗るから」


 絵里の、まだ若さを失わない、ほの白い顔が月明りに浮かぶ。

 小学校の入学式に来た絵里は、駿の目にも美しく映った。絵里は父よりも大分若くて、二十二歳の頃に当時二十八歳だった父と結婚した。まだ二十代の母親を見て、クラスメイトになったばかりの男児が「お前の母さん、美人じゃん」と、からかって来たことを思い出す。

 そうだろ、と誇らしく言ったのを覚えている。あの頃の駿は絵里が本当の母親だと思っていて、無邪気にじゃれついたものだ。

 そんなことを思いながら、駿は沈黙を続ける。


「駿」


 名前を呼ばれて、駿は端的に「進路で迷ってる」と答えた。


「俺、普通に大学行って就職するのって想像つかない。それが一番、父さん母さんが安心する道だってわかってるけど。でも、なんか嫌だ。だからって、叔父さんみたいに旅人になるってのも怖くて。でも、憧れはある。どうすればいいかわからなくて、不安で、こわい……」


 まくしたてて、後半はまるで幼子のように舌足らずになってしまった。そっ、と絵里は駿に手を伸ばす。

 握られた手の温かさに、ハッとしながら駿は彼女を見つめる。


「大丈夫よ。私もお父さんも、駿の意見をはなから否定したりしない。ちゃんと聞く。わからなくて、混乱してるなら言って。私も、駿と一緒に考えるわ。不安よね。わかるわ」


 共感されて、すとんと胸から重荷が降りたような心地がする。


「母さんは、叔父さんのこと嫌いなんだと思ってた」

「樹さんのことが? まさか。あんなに楽しいひと、他にいないわよ。自慢の義弟よ。……私の方が年下だけどね」


 絵里は、少女めいた笑顔を浮かべた。


「私、真剣に話を聞くと無表情になっちゃうの。笑うタイミング逃しちゃったりすることもあるし。駿が樹さんに憧れる気持ち、わかるわ。私も憧れるもの。でも、駿は樹さんそのものになりたいわけじゃないんでしょ?」

「うん……」

「なら、一緒に考えましょう。まだ意見が固まってないなら、私もお父さんも意見を出したり助言をするから。でももちろん、駿のことを否定したりしないわ。何でも、希望を言って。話し合えば、新しいものが見つかるかもしれないでしょう」

「ん、うん」


 あれ、と駿は頬を滑る冷たい感触に気付いた。涙がほろりと、零れていた。


「不安よね。でも、大丈夫よ」


 ぽんぽん、と絵里は駿の背中を優しく叩いてくれる。幼い頃、むずかった駿をあやしてくれた時のように。

 茫漠ぼうばくとした未来に戸惑う駿を、絵里は穏やかに癒してくれた。

 あれ、と駿は気付く。煙の向こうに見たいと思ったのは、誰だったか。


 ほんとうの、おかあさん。


 背中をさする、優しい手。駿が三つの時から、育ててくれた手だった。

 絵里は、駿の産みの母ではない。だけど、母として育ててくれた。実母ではないと知ってから、距離感が開いた気がしていた。だけどこうやって、寄り添ってくれる。彼女が本当の母でなくて、何なのだろう。

 仏壇前の写真の中で笑う、女性を見る。彼女がたしかに、産みの母親なのだけれど。

 もしあのパイプに、本当に会いたい人に会わせてくれる効果があったのなら、実母からのメッセージだったのかもしれないと、駿は都合よく考えた。


 ――絵里さんも、本当のお母さんでしょ。


 そんな声が、聞こえる気がした。

 駿は目を閉じて、ふたりの母に呼びかけた。


 かあさん、と。





 絵里から父に話してもらって、三人で駿の進路について話し合うことになった。

 結局、何も決まっていない。だけど、駿が懸念したように絵里や父が意見を押し付け、駿の意志を否定するという事態は一切起こらなかった。

 二人は静かに話を聞いて、可能性を示してくれた。


「一度、海外旅行に行ってみるのもいいかもしれんな。樹と一緒なら、安心だろうし」


 父の意見には驚いたが、駿は嬉しかった。今度、叔父から連絡があったら相談してみようと父に言われて、駿は力強く頷いた。

 とにかく、外国に行きたいという漠然とした気持ちが未来につながるといい、と思った。




 その夜、不思議な夢を見た。駿はいつかのように、バイクで果てしない道を疾走している。途中でハンドルが言うことを聞かなくなり、慌てて手を動かす。ぐらぐらぐら、揺れる視界。揺れる世界。

 横転する、と思った時に支えてくれる手があった。その白い手は四本あった。産みの母と、育ての母がとんでもない怪力で駿ごとバイクを起こしてくれた。

 いってらっしゃい、と凛とした声と、透き通った声が重なり、バイクはまた走り出す。

 一瞬だけ振り返ると、二人は大きく手を振ってくれた。




 翌朝、母が朝食の支度をしている間、コーヒーを飲みながらテレビをぼんやり見ている父に声をかけた。


「父さん、おはよう」

「ん、おはよう。なんか、すっきりした顔してるな」

「うん。実はさ……」


 駿は昨夜見た、不思議な夢のことを語った。すると父は目を細め、なんとも言えない優しげな表情になり、「何で俺は出て来ないんだ?」と笑ったのだった。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙の向こうに見えたのは 青川志帆 @ao-samidare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ