追積者

第一話 逃走煩悩

 ある頃からいつでも逃げる事を選択してきた。

 その頃からというもの、選択肢の中では絶対といっていい程、逃避というのは他のカードよりも魅力的だった。

 ーーまぁ、その事は時が経つにつれ、確信になったんだけどね。間違ってるなんて思わなくなったなぁ。

 でも今回ばかりは違う、その事実が覆りそうなんだ。おかしいよね、不変だって言ったのに。確信になったって言ったのに。

 事の目の前になって手札は見えないぐらいの薄さになった。掴めない。だけど、本能で、あのカードだけは掴める。そう感じ取る事ができたんだ。

 あのカードはまだ残っている、だから求めた。いつの間にか追う側になっていたんだ。そう昔みたいに...。



「・・・ん。くん? 金井くん起きて! 」 

 と左隣りから徐々に聞こえてきた声と同時に、パッと目蓋が開いた。状況がイマイチ掴めないが、黒板の方から視線を感じる。

 視線の正体は数学担当の先生だった。先生は疑問を投げかけるような顔でこちらを見ていた。いや、仏頂面に近い。

 その反動なのか本能が作用したのかわからないが、あっ...と無意識に、皆が望んでもないような声が出てしまった。

 余り響かなかったせいかは分からないが、教室がいつもよりひと回り大きく感じた。

 直後、空気が変わりいつもの静けさとは違う雰囲気になり、ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターにいるような感覚に襲われた。


「あと、7分で終わるんだから集中しろ」


 と愛想を尽かされたか分からないが、この状況で聞く喚起の言葉に見放された気がしてならなかった。今は4時43分。

 その後で恥ずかしい気持ちに駆られる事に無理はなかった。一目散に、机に広げてある数IIBの教科書のページに、逃げるように顔を近づけた。周りが見えなくなった。

 目線が安定せず、そのせいか汗が出てきた。

 何とか気を紛らわらそうと本文を読もうとするがいつもなら読めるものが、何かの文字が羅列してる、形の成さないものに見えた。

 ーーそこまで気が何かに追われてたんだ。異常者だって? 行き止まりに見えたんだ。

 一定のリズムより早くなっている壊れかけの半自動砂時計に、周りのクスクス笑いが連鎖して、不良品だとクレームをつけるようにせめつける。そんなイメージが、より一層リアリティを帯びて、抑えていた羞恥心を乱した。

 俗に言う集団心理ってやつかは分からない。が、他人に合わせるだけで逃げてきた薄っぺらな奴らの塊なんだろう、きっと。

ーーこう思ってるけど、俺は俺で、勝手なイメージに合わせて逃げてるだけの薄っぺらボーイなんだけどね。

 そんな安物の安定剤を飲ませて、顔を見上げると時計の針は4時37分。4分が経過していた。もう少しで帰れる。

 残りの時間を時計を見て潰した。長針が短針を何回か追ったり、逆に短針が長針を追うように、トラックで持久走をしている。そんな彼が羨ましかった。

 丁度チャイムが鳴り、あくびをしながらの号令がかかる。号令というより誘惑だろう、礼の途中あくびが出る。チャイムは未だに、狭い教室に鳴り響く。

 体に纏わり付く、憂鬱なメロディー。席に着きながら、溜息で吹き返した。

 帰りのSHRは無い事を黒板で確認し、急いで逃げる支度の準備にかかった。

 辺りは部活に行く人、特定の話題で、盛り上がりながら教室を出る、人数が不規則なグループ。様々だった。

 椅子の下に入れてある鞄を、机の上に置いて準備に取り掛かろうした、その時

 

「金井〜! ここの問題教えてくんない?

いやぁー悪りぃ、俺、ここ分かんなくて。

ほら、金井って頭いいじゃん? 。」


 窓側の方に座っているクラスメイトの高井が、先程と似たメロディーで体に纏わり付いてきた。でも、違うような気もする。

 高井はクラスの中でも人気者で、サッカーも上手なスポーツマンだ。

 彼はどっちなんだろう、どっちでも無い気がする。羨ましくは思わない。

 頭がいいという、嫌味が混じったような言葉に逃げたくなったのは、そんな思考の後だった。少し間が空く。

 間を埋めようとして、適当な返事をしようとしたが、高井が

 

 「あ、そうだった! 確か金井、寝てたよな? すまん、突然。」

 

 ここでも何か言葉を返そうとしたが、彼は手に持った教科書を閉じ、机に当たりながら窓側の席へ戻って行った。

 あそこで何か言っていればどうだっただろうか、結果は変わってたろうか、この先変われてたのではないか。そんなイメージを、帰りの支度をしながら浮かべていた。

 支度を終え、席を立ち上がろうとした瞬間。非現実的なイメージを、窓側から差してきた太陽の光が、より現実的なモノに近づけた。いつしか目線は窓側に移っていた。

 窓の手前には、分からない問題を仲の良いクラスメイトと一緒に解いている二人の姿。

 不自然な程、透明なフィルターの外には、雲に覆われた空とそこから覗いている太陽。

 この二つのシーンは同じように見えて同じではなかった。

 この情景が目より体に焼き付いて、体温が自然と少しずつ上がっていった。体の温かさによって気が紛れる。帰らないと、という使命感も心の何処かにあったのかもしれない。

 だけど、それ以上に逃げる場所を求めた。

心の奥底で薄くて深い、そんな白昼夢に時間の概念を忘れて浸かっていた。


 

 

 



 

 


 

 


 

 




 


 


 

 



 

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