おわりに(後編)

 皇親勢力の巨頭 長屋王が亡くなった後、疫病が流行し、彼を無実の罪で死に追いやった藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が1年の内に亡くなった(737年)。これにより 政権は 天武の功臣である栗隈王くりくまおうの血をひく橘氏へと移り、飛ぶ鳥を落とす勢いであった藤原氏の権勢は 一時的に衰退した。

 余談だが、昨今の疫病の流行で 牛頭天王(八坂神社)や蘇民将来などの信仰が 一部で取り沙汰されたが、これは この長屋王の祟りと関係しているのではないかと私は心当てをしている。前者は ともされる神であり、後者は その起源がよく分かっていないが、私は我氏のことを表しているのではないかと疑っていた。長屋王は 天武の直系であり、蘇我氏の血を色濃く受け継いでいたことが推定されるが、その者の祟りによって疫病が起こったと結び付けられたことが 上記の信仰へとつながったのではないだろうか?


 藤原氏はその後、不比等の長子 武智麻呂の次男 仲麻呂が叔母である光明皇后の後ろ盾をもって台頭。一説には 仲麻呂は皇帝になろうとしたとも言われている。彼は 時の天皇(淳仁天皇:第47代)を意のままに操り、鋳銭・出挙の権利も与えられ、さらに"恵美押勝"という美名も賜与されていた。

 また これとは関係ない話かもしれないが、759年には、彼の差配で宿敵 新羅への遠征も計画されている。

 そういえば、恵美押勝は 藤原氏の初期の歴史が記された伝記『藤氏家伝』の編纂を行っている。歴史書がいつ編纂されるかを考えたとき、押勝が 実際に至尊の座を狙っていた可能性がないではなかった。

 しかし、かの書物には 鎌足より前の歴史が記されていなかった。押勝にとって、鎌足は曾祖父にあたる人物であったから、その辺が限界だったと考えられなくもないが、ここで私は はたと閃くものがあった。ひょっとすると、本当は これより前の記録があったのではなかろうか? 押勝が 野望の道半ばで横死していることから、そこまでしか編纂できなかった線も十分考えられるが、その考えは私をとらえて離さなかった。

 では その考えが正しかった場合、鎌足以前の記録は一体どうなったのか? そこで私が疑っているのが、物部系の史書『先代旧事本紀』だ。私は 藤原氏の前身(先代)を物部氏だと判じており、対抗勢力が先に編纂した『古事記』の向こうを張ったため、かの史書に、 そのような名称がついたのではないかと妄想していた。『先代旧事本紀』には 物部鎌足姫という実に微妙の名前の人物が登場しているし、物部氏そのものが歴史書を書く所以が私にはいまいち分からなかった。まぁ書きたかったから書いたと言われれば それまでだが…

 この辺りは 文体とかを検証すれば 簡単に分かることだと思うが、私はずぶの素人なので このような突飛な発想をしている。『先代旧事本紀』においては、特に物部氏と尾張氏の系譜について 詳しくとりあげられているが、尾張氏は 後皇子尊(高市皇子?)薨去前後に、多分 蘇我氏側から藤原氏側に乗り換えており、恵美押勝の時代も重きをなしていたのではないかと私は憶測していた。

 尾張にある熱田神宮には 草薙剣が祀られているが、このことから 尾張氏は武力に長けた氏族であり、また 天武崩御の直前に草薙剣が祟ったとされている『日本書紀』の記録から、後に尾張氏が天武の流れに反逆したことが暗示されていることが想像された。

 究竟、私は 物部系の史書『先代旧事本紀』の編纂命令者は 恵美押勝その人ではなかったとしても、押勝の流れ,もしくは尾張氏と繋がっていただと夢想している。

 物部氏の祖神は太陽神 ニギハヤヒであり、『先代旧事本紀』においても 大和のもともとの支配者と記されているが、これは藤原氏が自らの出自・祖先ルーツを虚飾したものではないかと私は胸算している。ニギハヤヒと似た境遇 ・立場にある大国主には 藤原一千年の祖 鎌足の姿が垣間見えており、二神は 連関して創造・改変されたものと私は愚案していた。

 編纂者の感情・思惑などを斟酌したとき、藤原氏が 自らの前身を高く顕彰しなかったとは 私には思われなかった。実際、藤原不比等は 自らを最高神 高皇産霊尊たかみむすび(天孫 ニニギの外祖父)に投影させていた。

 なお、従来の大国主の中身は "タタリ神"大主と入れ替えられたと私は思料しているが、このことは この国の"和の精神"の継承にも大きく関っていると私は恐察している。

従来、和の精神を唱えていたのは 藤原氏と敵対する蘇我氏の大物であったと私は推度しているが、タタリを"天照大神=持統女帝"の御代から遠く離すという無茶を通すために、大国主の中身を交換。藤原氏が 天皇家の敵役になるという状況が生じてしまったことから、 もともとの大国主に投影されていた人物の思想を利用してヒントにして平和裡に軟着陸。かくて、敵対勢力に"和の精神"が受け継がれ、現在に至ったものと私は探究している。而して、その思想は この国のアイデンティティとなった。


 藤原氏は 家を分けるという形で多数派工作を行っているが、これは古代の有力豪族 蘇我氏ですら破らなかった参議以上の公卿は1氏族から1名のみという不文律を破壊するものであった。

 かの氏族が かような方策をとった理由を、私は 蘇我氏が行っていた一族の者を他氏族に入れ 多数派を形成するという分氏政策の失敗ゆえだと浅慮しているが、大化の改新の端緒 乙巳の変において、蘇我入鹿 暗殺を画策した中臣鎌足の正体を 私は入鹿の弟 物部大臣だと目算していた。

 乙巳の変の対立構造は 後の応仁の乱と同じように、事後も続いたことが推定されるが、それは 例えば、"持統女帝・藤原不比等 vs 高市皇子"という形で発現。『日本書紀』のの乙巳の変の記述には、その対立が 先代に 仮託され 一方が溜飲を下げたものと私を検討している。もちろん、その一方とは 正史編纂に最終的に与した勝者の側だ。

 この乙巳の変前後に表面化した対立軸は、高市皇子薨去後,ひいては 正史撰上後も しばらくの間 継続したものと私は勘案している。

 第43代 元明女帝は 即位の翌年(708年)、大嘗会の儀式の際に、


  ますらをの ともの音すなり

  物部もののふの大臣おほまへつきみ 楯立つらしも


という和歌を詠まれている。これに 天皇の姉 御名部皇女が、


  吾が大君ものな思ほし皇神の

  継ぎて賜へる我なけなくに


こたえているが、後者の歌から天皇が不安を抱えている様子がうかがえた。

 天皇の和歌に出てくる物部大臣というのは一説には 持統女帝(第41代)の即位の際にも大盾を立てた石上麻呂のことだと唱えられているが、当時の状況を鑑みるに、この和歌にも藤原氏と蘇我氏の対立が反映されていることが想像された。

 高市皇子の長子 長屋王は、実に その翌年に公卿に列席。私は、彼は蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ者であると臆度しているが、長屋王の祖父 天武(第40代)が想定していたであろう初代大王 応神天皇の名は誉田天皇(=ほむた?)といった。

 そして、鎌足の次男 藤原不比等は 物部麻呂こと石上麻呂と歩調を合わせ、彼に追随して昇進するなど、彼と近しい間柄であったことが伺えた。おそらくは 物部氏が彼らの前身氏族であったから憚ったのだろう。このとき708年、石上麻呂は 69歳と高齢であり、2年後710年には旧都の留守居役という形で失脚していた。私は、元明の和歌に出てくる物部大臣を 藤原不比等のことだと愚慮していた。

 鎌足の息子 不比等は 藤原一千年の基礎を築いているが、彼の名の意味するところは、

  人(=比等)にあらざる者、もしくは、

  等しく比べる者がいないほど優秀な男。

 彼は 見事 正史編纂事業を乗っ取り、自らの父 鎌足の正体を隠して"反蘇我"の歴史書を編纂。蘇我氏の正統性を打ち消し、天祚一種の系統を創り上げることによって、長く続く体制を構築することに成功したのだった—

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中臣鎌足は"蘇我入鹿の弟"である。 営為つむぐ @eiitsumugu

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