おわりに(中編)
古代の有力豪族 蘇我氏は 正史において 逆賊の汚名を被っているが、これは 当時の政権にとって 蘇我氏が政治的に目障りだったからだと私は胸算している。
一般に、正史『日本書紀』は その編纂を命じた天武天皇(第40代)にとって都合の良い書物だったと見受けられているが、かの史書は 天武の崩御から30年以上経過してから完成しており、いつしか その後の政権のものと相成っていた。皇祖神 天照大神には 女傑 持統天皇(第41代)の事跡が投影され、天照大神の妹背 スサノオは 天界から追放されていた。
また、もともと天武天皇が想定していたであろう初代大王(
スサノオの子 大国主は「天孫降臨」の障壁となっているが、このことから、かの神には 天武の長子 高市皇子が投影されていることがうかがえる。大国主は 島根県にある出雲大社に祀られているが、出雲と蘇我氏との間にはつながりがあると一部では唱えられていた。私は 天武は蘇我氏の人物だったと考えており"高市皇子=大国主"に整合性を感じていた。
ところが、初代天皇の周辺の系譜を見ていくと、大国主には藤原氏の人物が投影されていることが見てとれる。このことから、私は藤原氏は 蘇我氏の支流であり その地位を奪ったものと穿っていた。
そして、天孫 ニニギに国を譲った大国主と似た立場にあったニギハヤヒが 古代の軍事氏族 物部氏の祖神であることから、私は藤原一千年の氏祖 鎌足の正体を、蘇我氏の血をひき 物部氏に入った人物だと壁越推量していた。天皇家以前の大和の支配者 ニギハヤヒは 初代 神武が東征した折、最終的に神武を天孫の後継者と認め 抵抗していた隷下
天武が構想した歴史書は 天智の娘 持統女帝と鎌足の次男 藤原不比等によって大きく改変されたことが憶測されるが、それに対抗して もう一つの歴史書『古事記』は製作されたのではないかと かつて私は当たりをつけていた。
一般に、『古事記』の成立年代(712年)は 正史『日本書紀』撰上(720年)よりも早いと目算されているが、その成立年代には 疑義も多く、当時の政界は大きく二極に分かれていたことから、その一方が正史改変の意趣返しとして歴史書を編纂したのではないかと私は検討していた。
しかしながら、歴史書が いつ作成されるかを考えたとき、この考えは 修正を余儀なくされることとなった。歴史書が作られる,その
高市皇子の子 長屋王は 皇親勢力の巨頭だと概して言われているが、1988年 平城京の長屋王邸宅跡からは"長屋親王"と書かれた木簡が発見されており、有力な皇位継承候補であったのではないかと私は踏んでいた。当時、聖武天皇と藤原安宿媛(不比等の娘)との間には なかなか皇子が生まれず、長屋王ならずとも その子が皇位をする可能性があったのではなかろうか? 正史『日本書紀』においては 皇祖神 天照大神の流れが主流となっているが、もう一つの歴史書『古事記』では、実に神話の3分の1を出雲神話で占められていた。多分、スサノオの流れと関係する人物が かの歴史書を編纂したのだろう。
けれども、皇親勢力の巨頭 長屋王は 即位することなく(少なくとも記録上は)、無実の罪で誅殺され、その勢力は
ただ、その後 疫病が起こり 長屋王のタタリが恐れられたことから、かの人物が かなり高位にあったことが伺えた。この時代、高位の人物のタタリほど恐ろしかった。
余聞だが、新元号"令和"の由来となった大伴旅人の「梅花の歌」は この長屋王の変(729年)の翌年に詠まれている。大伴旅人と長屋王は 盟友関係にあり、長屋王と切り離すために 藤原氏によって 大伴旅人が太宰府に左遷されていたことから、その歌にも 長屋王の変の影響があったと一説には賢察されていた。
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