おわりに(前編)

 藤原一千年の氏祖 鎌足が薨去した後 しばらくして 大乱(壬申の乱)が起こり、先帝 天智天皇(第38代)の弟とされる天武天皇(第40代)が登極した。この天武天皇は 前半生・生年などが明らかならず、一説には その本当の素姓は 漢皇子だと高察されているが、私は この説を支持しており、かの人物の父は 古代の有力豪族 蘇我氏の4代目 入鹿だったのではないかと愚考していた。

 藤原氏は 天武天皇の御代においては 鳴りをひそめているが、天武の崩御後 その皇后であった鸕野讚良皇女の即位の少し前に、鎌足の次男が 歴史の表舞台に登場。そして、かの女傑の御代に栄達を開始しているが、このとき かの一族は 蘇我氏打倒のため 天皇家と再び手を組んだのではないかと私は推測している。鸕野讚良皇女は 大化の改新の主人公 天智天皇の娘であり、その諡は"持統"といった。

 持統女帝(第40代)は 天武天皇と他の女性との間の皇子を無視し 自らの孫への皇位継承を敢行しているが、これは天照大神の神話「天孫降臨」に投影されている。そうして、約一世紀の間、天武と持統の血をひく人物を皇位に就けるため、持統の近親者と藤原氏が協力する体制が続く。おそらく、この時期は いわゆる"女系天皇"という形で 皇室の血統はたもたれた。

 天智の娘 持統と鎌足の次男 ふひとのタッグは 694年 新益京(藤原京)に遷都しているが、私は この時 一旦 彼らと天武天皇の長子 高市皇子との間で 何らかの妥協が成立し、それに史が大きく貢献したのではないかと臆度している。

 その後 696年、後皇子尊(高市皇子?)が薨去。翌年、持統が 孫への皇位継承を敢行しているが、一部では高市皇子は 暗殺されたのではないかと囁かれていた。私は これは真実であったかと判じているが、史は 後皇子尊の薨去後まもなく "不比等"と名を改め、50人の舎人を賜っていた。

 ちなみに、この暗殺が実行・成功した所以は 壬申の乱で天武側に味方した尾張氏が高市皇子から離反したためだろう。実に、後皇子尊が亡くなった696年、尾張大隈が位階功田を授けられていた。『日本書紀』に続く正史『続日本紀』によれば、この恩賞授与は 壬申の乱(672年)の功績によるものであったとされるが、それはあまりに遅すぎた。

 しかし この場合、何故 尾張氏は 高市皇子すなわち 天武の流れ蘇我氏を見限ったのか? それは単に高市皇子が暗愚だったからか、それともパワーバランスが変わったから? もしかすると、もとが同根(蘇我氏内部の争い)であったから乗り換えただけだったのかもしれない。

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