第19話"物部大臣(後編)

 大化の改新の功労者 中臣鎌足は 元号が大化から白雉に変わってしばらくして、具体的には みやこを難波からやまとに回帰した翌年(654年)、大紫冠に昇格したのを境に、10年以上 歴史の表舞台から姿を消している。

 これを私は、改新勢力と従来の蘇我派が 結託して行動を起こす際、と推測しているが、両者が手を組んだ所以は 時の主上である孝徳天皇(第36代)が有頂天で色々とやり過ぎたためだと愚察している。

 この辺りは 大化の改新を取り上げる際に 詳述するが、鎌足も 蘇我氏の大番頭と言える人物がいる間は それに従い 大人しくしていたのではないかと私は胸算している。658年、孝徳天皇と斉明女帝皇極重祚(第37代)の2代にわたって左大臣を務めた巨勢徳多こせのとくたが亡くなっているが、実に この年に先帝 孝徳天皇の皇子である有間皇子が謀殺されていた。

 鎌足は 記録の上では その晩年近くまで歴史の表舞台に復帰しないが、その理由は この後に起こった"白村江の戦い(663年)"に鎌足が深く関与していたからだと私は踏んでいる。巨勢徳多が進言した際(651年)には見送られた新羅遠征が 時機を逸したその折 通ったのは、多分 時の女帝 斉明天皇との兼ね合いだろう。斉明女帝は 蘇我氏の4代目 入鹿との関係が囁かれており、私は 鎌足は入鹿の弟であるものと考えていた。要するに、鎌足が入鹿に似ていたことから その提案が通ったのではないかというわけだ。

 なお、新羅遠征などを、(私が従来の蘇我派のトップで かつ 入鹿の子と目する)大海人皇子が止められなかった一因は、鎌足が 大海人にとって 目上にあたる存在だったからだと私は心当てをしている。藤原氏の初期の歴史を記した伝記『藤氏家伝』において、668年 大海人が兄である天智天皇(第38代)に槍で無礼を働き それを鎌足が取りなす記述が存在するが、これは大海人にとって鎌足が憚らないといけない相手であったからだろう。

 ついでに言えば、この時代、槍というのは大変 特殊な武器であり、鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)らが活躍した乙巳の変の際に槍を使用したのは 大海人と同じ武芸の訓練を受けていた人物,とどのつまり、 槍をお家芸とする氏族の血縁関係にあった人物ではないかと私は思料している。

 こぼれ話だが、古代の聖人 聖徳太子は忍者を初めて使ったとの伝説が残る人物で、大海人は 忍者だったのではないかと一部で疑われていた。そして、この2人を 私は 同じ蘇我氏の出身だと臆度していた。

 (問題は 忍術と槍が結び付くかどうか。

  服部半蔵は 槍の名手として知られている

  が…)


 大海人は 672年、壬申の乱に勝利し 即位(天武天皇:第40代)、歴史書の編纂を命じているが、その心情として だ。実際、先帝 天智天皇は 要人を粛清したり、無理な土木工事を行ったと弾劾された跡が残されていた。

 そうして、その矛先は 鎌足にも向かったのではないか,もっと言えば、天武にとっては 天智天皇よりも鎌足の方が憎かったのではないかと私は恐察している。正史には、鎌足の薨去の少し前 藤原内大臣の家に雷が落ちた記述が存在するが、落雷とはタタリの一形態であり 一臣下の家に雷が落ちたことを正史に記すのは異例のことであった。身内だと思われていた人物が裏切ったからこそ、これほど恨まれたのだろう。改新勢力と従来の蘇我派が結託して行動を起こした後に、中大兄皇子はそのまま歴史に登場し続けているのに対し、鎌足が登場しなくなる干されているのも 鎌足の方が中大兄より憎まれていたからだと 私は判じている。

(中先代の乱を起こした北条時行は 足利尊氏を生涯許さなかったというが、それは身内に裏切られたとの意識があったからだという)

 ちなみに、鎌足が 。このことから、もともと そこには、別の姓が記されていたことが想像されるが、落雷の記述そのものが残された所以は タタリや それに連なる弾劾の記録を抹消することが躊躇ためらわれたからであろうか? 考えてみれば、私が 鎌足の正体と見立てる人物の記録も 弾劾めいていたものが残されていた。

 鎌足が 天武(大海人)から嫌われたのは、乙巳の変において 父親入鹿が裏切りに遭い 殺害されたからであろうが、その際「韓人が鞍作を殺した」と古人大兄皇子(中大兄・大海人の異父兄)が発言している。大方、それは 鎌足の本名ではなく 別称であったろうが、このことは 後年 藤原氏が亡命百済人の支持を得たことからも窺われるかもしれない。

 余聞だが、石上神宮に伝えられた『神主布留宿禰系譜』によれば、私が鎌足の正体と目する物部大臣の本名は "畝傍(敏傍?)"で農業と関係する名前。物部氏は 百済との交渉の窓口でもあった。

 (畝傍山は 藤原京とも関係している。)

 しかして、正史『日本書紀』が反蘇我の書となり得たのは かの人物が がっつり蘇我氏ではなかったからであり、物部氏が 蘇我氏の対等な政敵ライバルと持ち上げられたのも、物部氏が 藤原氏の前身であったためであろうかと私は斟酌している。

 あと、弓削道鏡が 天武朝最後の天皇 称徳女帝(第48代)に取り立てられたのも 弓削氏が物部氏と関係のある氏族だったためか? 鎌足の次男 藤原不比等が 石上麻呂(物部麻呂)の後塵を拝したのも それが母体となった氏族だったからであろう。


 かくて、私は 大化の改新の功労者 中臣鎌足の正体として、蘇我入鹿の弟"物部大臣"を推している。

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