第19話"物部大臣(後編)
大化の改新の功労者 中臣鎌足は 元号が大化から白雉に変わってしばらくして、具体的には
これを私は、改新勢力と従来の蘇我派が 結託して行動を起こす際、鎌足を排除することが条件となってのではないかと推測しているが、両者が手を組んだ所以は 時の主上である孝徳天皇(第36代)が有頂天で色々とやり過ぎたためだと愚察している。
この辺りは 大化の改新を取り上げる際に 詳述するが、鎌足も 蘇我氏の大番頭と言える人物がいる間は それに従い 大人しくしていたのではないかと私は胸算している。658年、孝徳天皇と
鎌足は 記録の上では その晩年近くまで歴史の表舞台に復帰しないが、その理由は この後に起こった"白村江の戦い(663年)"に鎌足が深く関与していたからだと私は踏んでいる。巨勢徳多が進言した際(651年)には見送られた新羅遠征が 時機を逸したその折 通ったのは、多分 時の女帝 斉明天皇との兼ね合いだろう。斉明女帝は 蘇我氏の4代目 入鹿との関係が囁かれており、私は 鎌足は入鹿の弟であるものと考えていた。要するに、鎌足が入鹿に似ていたことから その提案が通ったのではないかというわけだ。
なお、新羅遠征などを、(私が従来の蘇我派の
ついでに言えば、この時代、槍というのは大変 特殊な武器であり、鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)らが活躍した乙巳の変の際に本当に槍を使用したのは 大海人と同じ武芸の訓練を受けていた人物,とどのつまり、
こぼれ話だが、古代の聖人 聖徳太子は忍者を初めて使ったとの伝説が残る人物で、大海人は 忍者だったのではないかと一部で疑われていた。そして、この2人を 私は 同じ蘇我氏の出身だと臆度していた。
(問題は 忍術と槍が結び付くかどうか。
服部半蔵は 槍の名手として知られている
が…)
大海人は 672年、壬申の乱に勝利し 即位(天武天皇:第40代)、歴史書の編纂を命じているが、その心情として 先代を弾劾したかったはずだ。実際、先帝 天智天皇は 要人を粛清したり、無理な土木工事を行ったと弾劾された跡が残されていた。
そうして、その矛先は 鎌足にも向かったのではないか,もっと言えば、天武にとっては 天智天皇よりも鎌足の方が憎かったのではないかと私は恐察している。正史には、鎌足の薨去の少し前 藤原内大臣の家に雷が落ちた記述が存在するが、落雷とはタタリの一形態であり 一臣下の家に雷が落ちたことを正史に記すのは異例のことであった。身内だと思われていた人物が裏切ったからこそ、これほど恨まれたのだろう。改新勢力と従来の蘇我派が結託して行動を起こした後に、中大兄皇子はそのまま歴史に登場し続けているのに対し、鎌足が
(中先代の乱を起こした北条時行は 足利尊氏を生涯許さなかったというが、それは身内に裏切られたとの意識があったからだという)
ちなみに、鎌足が藤原の姓を賜るのは この雷の後。このことから、もともと そこには、別の姓が記されていたことが想像されるが、落雷の記述そのものが残された所以は タタリや それに連なる弾劾の記録を抹消することが
鎌足が 天武(大海人)から嫌われたのは、乙巳の変において
余聞だが、石上神宮に伝えられた『神主布留宿禰系譜』によれば、私が鎌足の正体と目する物部大臣の本名は "畝傍(敏傍?)"で農業と関係する名前。物部氏は 百済との交渉の窓口でもあった。
(畝傍山は 藤原京とも関係している。)
しかして、正史『日本書紀』が反蘇我の書となり得たのは かの人物が がっつり蘇我氏ではなかったからであり、物部氏が 蘇我氏の
あと、弓削道鏡が 天武朝最後の天皇 称徳女帝(第48代)に取り立てられたのも 弓削氏が物部氏と関係のある氏族だったためか? 鎌足の次男 藤原不比等が 石上麻呂(物部麻呂)の後塵を拝したのも それが母体となった氏族だったからであろう。
かくて、私は 大化の改新の功労者 中臣鎌足の正体として、蘇我入鹿の弟"物部大臣"を推している。
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