第五節 銀河の権能
[5-1]殺意の牙を喰らえ【カラー挿絵あり】
彼の父は、魔王だった。そして母は、魔女だった。
どうして忘れていたのだろう。白銀に輝く剣が父の命を奪い、英雄の悲しげな青い目が憐れむように振り返ったあの日。自分は母の腕に抱かれ一部始終を見ていたのに。
信じられない光景に
母から自分を引き離したのは、父と似た、銀の髪と
その直後――、英雄は血濡れた白銀の剣を振りあげ、母の命をも
『イルマ、……まさか、こんな偶然があるなんて思わなかったよ! キミは僕の竜だ!』
弾むような少年の声、期待に満ちた
両親と血縁を
僕に力を貸して、という頼みに頷く気にはなれかった。キミは竜だ、なんて言われても理解できなかったし、敬愛する養父母に迷惑をかけるのも嫌だったから。
ごめん、無理だよ――そう断ったあとの記憶は、ぷっつり途絶えている。
(僕は、半竜だった)
思考がままならない。身体に意思が通らない。
魂に影を寄生させて命令通り魔獣を操るのは、魔導の一種だった気がするけれど。なるほど、そうやって彼は自分を使役したのだと理解した。
このままでは彼の復讐を助けてしまう。
駄目だ、いけない。彼の
必死に
『イルマ、……泣いているの?』
聞こえた声に、驚いた。なぜ、あのとき殺されたはずの母が、自分に答えるのだろう。
混乱する頭では正しく言葉を伝えることができず、焦る心が無理を通そうと魂を
『待ってて、可愛い
違う、と叫んだ想いは届かなかった。
自由にならない意識でも、何かとんでもないモノが迫ってくるのを感じた。研ぎ澄まされた殺意が闇をまとい、大地を変容させ、牙を
だから、やめて、と
ティークの身を引き裂こうと襲いくる牙を、奪い取った牙で跳ねのけ、空へ挑みかかる牙をも引き戻す。それでも、即死を免れただけで致命傷には違いないけれど。
いつに間にか、目の前に母がいた。いや、正しくは母に似た誰かだ。宝石のような瞳に憤りを燃やし、空へ逃れた飛竜を睨みつけている、黒髪の少女――災厄の魔女。
忘れていたのか、忘れさせられていたのか。
どちらだろうと関係なかった。
使役の手綱を握っていたティークが
わからなくてもやるしかない、とイルマは覚悟を決める。
父は、まさしく魔王だった。人に対し
ティークの話を聞いたときひどく胸が痛んだのは。こんな仕打ちを受けても憎らしいと思えないのは。
彼の悔しさが、悲しさが、苦しさが、イルマの中にある想いとよく似ていたからだ。
――それにしても。
(母上、じゃない……あなたは、誰なのですか?)
まるで、最期の日に壊れた心だけが、どこかの見知らぬ少女に取り
なんて
在りし日の母が呪いを遺し、それが誰かを呑み込み操っているのなら、止めなくては。
優しく愛情深かった母の想いが歪み果て、さらなる災いに変じる前に。災厄の魔女が犯す罪をこれ以上、重ねさせないために。
母から奪い取ったティークの身体は、今も血が流れ続けている。彼を引き裂こうとしつこく追いすがる漆黒の牙を
母の魔力を持つ少女は、イルマの行動が
「イルマ、それを渡しなさい。あなたを傷つけたのだもの、殺すわ」
『聞けません。……母上、僕は、このとおり無事ですから』
「どうして、あなたまで、人間なんかの味方をするの?」
瞳に悲しげな光を揺らし、すがるように見あげてくる
ここにいるのが見知らぬ少女ではなく、本当の母だったら良かったのに――。
☆ ★ ☆
熱い、熱い、熱い、痛い――――!
激痛のせいで漏れそうになる
大丈夫、痛いのは身体が生きている証拠だ――と自分に言い聞かせるも、楽になれるわけではない。
「…………ッ、――っあ、ッ」
「駄目だ、セス。あきらめろ。彼は助けられない!」
涙にかすむ目を見開き、必死に顔を動かして、
手の伸ばしても届くはずのない地上、友の姿はどこにも見つけられない。代わりに追いすがってくるのは、黒く
ファアァン、とマリユスが
「クソッ、奇跡の〈治癒〉じゃ全然足りない! 宿場町……じゃ治療できないな。ここから一番近い大都市は帝都か? でも山越えは無理だ! いったいどうすれば――」
「……っぐ、うう……、ラフ、……さ、……降り…………」
「セス、彼のことはあきらめろ。君こそ、いつ死んでもおかしくない重傷なんだから!」
ラファエルの声は硬く、鋭い。
何とか目を動かして、セスは自分の身体を確認した。
痛みなく動かせるのは左腕だけだが、不快に濡れた顔を拭おうとした途端、全身を激痛が走ってセスは
「動いちゃ駄目だ、……じっとしてられないくらい痛いのはわかる。でも我慢して。命綱は付けてるけど、今の君は落下の衝撃でも死にかねない」
はい、と応じたくても声が出ない。頷こうとして痛みに阻まれる。
ギリギリと歯がみしながら、セスはもう一度、地上に意識を向けた。黒銀の竜――イルマが
救えと託された『
もう二度と失敗しないと誓ったのだ。
ウィルダウ、と呼びかける。
セスの魂が弾き飛ばされたら、この身体は彼のものになってしまう。ならば、
――愚問だな。私がこの程度の損壊で、死ぬとでも? ――
返ってきた
そうだ、何を迷っていたのか。
左手で竜のハンドルをつかみ、力を込めて上体を起こす。それだけでも全身が引き裂かれるように痛み、涙がにじんだ。
血塗れで、涙目で、まともに声も出せない、ひどく情けない姿だけれど、まだ生きているのだからすべきことをなすだけだ。
「セス、無理するんじゃない」
「……いじょ、ぶ……、イル……、支援、しま……」
「本気? 死ぬよ!?」
「……死……ません……!」
ただ生きていて欲しいと願った友の命を、自分は取りこぼした。悔やんでも悔やみきれないし、心に刻まれた悲しみは生きている限りセスを責め
でも、それは
がふっと塊のような咳が込みあげ、押さえた手にべったりと血がつく。痛い、痛い、苦しい。でもさっきより喋れるようになった。
「上官の言うことを聞かないなんて困った見習いだな! いいよ、わかった。マリユスの背中で新人を死なせてたまるかだよ。セス、どうして欲しいって!?」
「あの、二人に、近づいてください!
無理やり声を張りあげたら、
「不本意だけれど、許可。あーもう、まったく腹が立つ! 君は無信仰から戦火神信仰へと宗旨替えするといい、お似合いだ!」
「ラフさん……ごめんなさい」
痛い、苦しい、悔しい。ラファエルがいなければ確実に死んでいた。そうなればウィルダウはどんな方法でか復活し、リュナとイルマを滅ぼしていたはずだ。
もっと上手くできていれば、あと少し判断が早ければ。妹が友を手に掛ける、だなんて悲劇を避けられたのに。
――その身体で耐えられるものかは
聴こえるのは声だけなのに、なぜだろう。ウィルダウの挑発的な微笑みを、はっきり想起できる。今呼ぶべき魔獣を、明確に思い浮かべられる。
ラファエルの指示に応えて
動かない右腕の代わりに左腕を支えにして、セスは姿勢を正した。思い描くは、世界の淵に眠る巨大な怪物。
この身体は明け渡さない。今度は、屈しない。
自分の意志によって魔獣を
「きたれ、
ぐん、と身体が重くなり、脚の傷から血が吹き出した。痛い、痛い、苦しい。でもお陰で気絶せずにいられている。
噛みしめた口の中に鉄の味。左の眼球がひどく痛むけれど、これくらい何てことない。まだ自分は自分のままで、
来い、従え。――心に念じ、金色の目を睨みつけた。
巨大すぎるゆえ海に捨てられ、飽くなき食欲によって世界を呑み込んでしまわぬよう、おのれの尾を
地を覆って
無数の細かな生き物のように逃げ惑う黒い蔦へ
二人を逃すな、けれど傷つけるな。
思念を送り、御意という答えを聞く。それで安心したのがいけなかった。
全身の痛みが一気にぶり返し、視界が色を失ってゆく。血を流しすぎたのかもしれないし、損傷した内臓が限界を迎えたのかも――……。
ラファエルが自分の名を呼んで何か叫んだけれど、答えられそうにない。
「もう大丈夫です! わたしは、治癒魔法が使えますから!」
羽ばたきの音が聞こえた。飛竜が風を切る音ではなく、大きな鳥が翼を動かすような。
懐かしさを感じる光の精霊が視界の端で、ゆぅらりきらりと踊っている。ぴくりとも動きそうにない身体を
そこに、天使がいた。
風にやわらかくひるがえる、淡く
白く長いドレスを身にまとい、背に鳥の白翼を広げた可憐な少女が、神秘的なブルーグレイの目をまっすぐ向けて祈りを捧げていた。
薄紅色に色づいた唇が歌うようにつむぐのは、精霊たちへ助力を願う祈り。
息もできないほど身を苛んでいた激痛が、和らいでいく。ぽかぽかと温かな治癒の光が全身を包み、ゆっくりと、だが確実に傷口を覆ってゆく。
――そっか、ルシアは
不思議と納得して、マリユスの背中にこてりと頭を預ける。激痛と、死と隣り合わせの恐怖感から解放された今、内側から上ってくるのは
天使が迎えに来たのだから、少しくらい眠ってしまってもきっと大丈夫。
「セスさん、しっかりしてください! まだ終わってません!」
「……セス、いま寝たら死んじゃうかもよ?」
二つの声に
眼下では、黒い蔦を喰い尽くした
むしろ、本当の正念場はこれからだった。
「ありがとう、ルシア。ありがとうございます、ラフさん」
「……いろいろ言いたいことはありますけど、ぜんぶ終わってからにします。いきましょう、セスさん」
「僕もみっちり説教したいけど、彼女のあとにするよ。行こう、セス」
全部が終わったあとに二人の説教を聞いていられる体力が、残っているだろうか。若干の不安を覚えつつも、セスは頷く。
今すべきことは、ただ一つ。
イルマと話をして、今度こそ――リュナを取り戻すのだ。
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アルテーシア登場シーン、アニメキャプチャ風イラストあります。
https://kakuyomu.jp/users/Hatori/news/16817330662742569604
ヨルムンガンド召喚シーン、カラー挿絵があります。
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