彗星夜話

杜翠奏

彗星夜話

「……一周してみたものの、人影もなく、見渡す限り砂と岩山と奇怪な大木ばかり。この島から抜け出すとなると……はあ、気長に待つか」 

 バグダッドの商人、ソカトゥラは赤色の果実を頬張りながらつぶやいた。

 無造作に伸ばした両足をオアシスの渚に遊ばせながら、残りの果肉にかぶりつく。

 カラカラに乾いたソカトゥラの肉体は瑞々しさを取り戻し、また新たに食指を動かす。大きさは手のひらに収まる程度だが、その果実が内包する生命力は、砂漠を歩き疲れたソカトゥラの精神まで回復させるほどだった。

 もう一つ、赤色の果実――デーツ――をまるごと口に運ぶ。刺激的な甘みを口いっぱいに楽しみ、溢れた果汁を日焼けした右腕で拭き取る。燦々と照りつける太陽、照り返す白砂の海にソカトゥラの肌はデーツに似た赤みを帯びてきていた。

「十四時と少し、ってところかな」

 ごろりと寝転び、オアシスを囲んで自生しているナツメヤシの影を見て時間を推定する。澄んだ青空に枝葉を伸ばすナツメヤシには多くのデーツが生っていた。

 木漏れ日に手をかざし、ソカトゥラはここ数日の軌跡を振り返った。

 耳を澄ますと、波のさざめきが聞こえる。

 オアシスは静かに水を湛えている。

 だから、この音は島を洗う海の音色だ。


 ――ソカトゥラを含むバグダッドの商人たちを乗せた帆船は、ペルシア湾を抜けて東インド諸島へと向かった。船旅は穏やかに、行きの航海は何事もなく、無事に東インド諸島での交易を終えると、まもなく帰りの航海に出た。

 問題が起きたのは二日目の早朝だった。

 嵐だ。

 突如、黒々とした密雲が不気味な重低音を轟かせて、アラビアの空を削ぎ落とす雨と雷光を迸らせた。  

 暴力的なまでの強風と荒波に揉まれ、航路が南にずれる。潮流が変化し、際崖なく広がるアラビア海に、沈香や白檀、胡椒などの交易品と商人の命を積んだちっぽけな商船が呑み込まれた。抵抗もできず、当然のように、海は何もかもを奪っていった――一人の男を除いて。

 男はアムル人の末裔であった。古くカナンの地に由来し、古代バビロン王朝を築いた部族の血をひく男は、先祖代々の家宝である黄金の杯をいかなる時でも肌身離さず持っていた。

 古代バビロンの遺産には魔法の品が多い。冥界に繋がる鏡や悪魔を封じた水差し、そして三回きりの魔法の杯。男が持っていたのは、この魔法の杯であった。

 男は暗く冷たい海の底に沈むなかで、杯に望んだ。

 ただ生きたい、と。

 たちまち杯から水泡が溢れ出し、かくて魔法は発現した。

 だが男――ソカトゥラ――はその魔法を目にすることなく、気を失ったのであった。

 難破し、漂流するソカトゥラ。

 いつしか嵐は消えて、ゆらりと白波に抱かれると、明日とある浜辺に漂着した。四方を海で囲まれた島の、その浜辺でソカトゥラは目を覚ましたのであった。


 島に漂着したことを自覚すると、ソカトゥラはまず水を求めた。幸い、島の面積は一日歩き続ければ反対側の岸に辿り続けるほどで、この岩と砂と木でできた島を探索するのに時間はかからなかった。

 だが、水も食料も期待できないなかで歩き続ける苦痛は尋常のものではない。干からびた手足で三時間歩いたり這ったりしながら、生死の境を行ったり来たり。

 天の恵みとも言えるオアシスを見つけたのは、まさに僥倖。いや、杯に望んだことを思えば遅すぎるくらいだった。

 水を飲み、ナツメヤシを揺らし、落ちたデーツを食べる。それで動けるようになると、探索に出かけた。

 海岸に接して歩いているとき、北と西に、それぞれ陸地が見えた。

 海を隔てて奥に続く二つの地平線は、ソカトゥラに確信を与えた。自分は今、ペルシア湾ではなく紅海側の海域にいるのだと。

 であれば、むやみに動かず、こうしてオアシスにまどろんでいればいい、と。そのことを、寝転びながら再度、自分に確認したのであった。


「魔法は残り二つ。使いどきは選ばないと。水も食べ物もある、ひとまずは生きられる」

 口に出して現状を把握する。頭の整理にはもってこいだ。だが、どうにも落ち着かない。特に背中だ。砂が原因だろうか。ザラザラと、こそばゆいような。まあ、気にすることでもないだろう。

「あとは、通りかかる商船を待てば――っ!?」

 白砂が踊り、水面に無数の波紋が浮かぶ。

 得体の知れぬ予感がソカトゥラに空を見上げさせる。

 翡翠のゆらめきに、轟と唸る焔の輪郭。

 遙かなる大気に身を燃やし、天地の鳴動をほしいままに、それはオアシスに堕ちた。

 地響き。そして、跳ね上がる水飛沫。二千平方メートルに及ぶ泉の、その三分の一が砂地を水に染めた。ソカトゥラの全身も清々しいまでに濡れそぼった。

 いっときの静寂。

 眼前の出来事に頭が追いつかず、ピクリと指先を動かすのにも寸刻の間があった。

 視界の酩酊が収まり、ソカトゥラの身体は緊張状態から解放された。

「……珍妙な出来事は大好物だが、これは」

 砂煙か水煙か、とにかく舞い上がる煙霧のなかに先ほどの影を見つける。

 好奇心と謎の使命感により、ソカトゥラは顔の水気を振り払って、恐る恐るオアシスに入っていった。

 オアシスの水量は減り、だが、ソカトゥラの身体は腰上まで水に浸かる。

 近づく。予感はまだ続いており、それを振り払うためにも呪文のような独り言をブツブツつぶやく。

「ダイヤモンドにガーネット、エメラルド。流星ならこの世に一つの宝石を。億万長者の呼び声を。頼む、頼む、頼む。この哀れな商人に慈悲深き温情を。……あー、嘘だろ」

 人影が見えた。

 空から降ってきたものは、人の形をしていた。五体満足に人が落ちてくるなんて世界の終わりも近いんじゃないか。

「おーい!」と声を上げながら、ソカトゥラはさらに近くに寄った。返事はなかった。


 水中のそれを引き揚げる。

 背丈はソカトゥラよりも若干低く、華奢な体つきの落下物は、頰を軽く叩くも反応はなく、息を吹き返す様子もなかった。

 顔も体も砂にまみれ、水に濡れ、ひどい有様で、かすかに見て取れる表情も憔悴しきっていた。

「おい。しっかりしろ。死ぬならせめてこの状況を説明してから召されろ。ああ、くそっ」

 こんなにも陽射しは熱を届けるのに、手の中の人らしきものはどんどん冷たくなっていく。

 嵐が脳裏によみがえり、

 ソカトゥラは、幻視する。

 そのひた濡れた貌に、溺れ死にゆく商人たちを。

 行きずりの関係ではあったが、海の旅を同じ船で過ごしてきた身だ。

 崩れていく帆船。小さな板切れにしがみついて、慄く船乗りたち。魔法の杯を使うとき、頭にあったのは自分だけで、仕方なかったと割り切ろうにも、現実は、また、ソカトゥラに無慈悲な試練を授ける。黒く重い海に引きずり込まれる商人の顔が見てもいないのにちらつく。自分だけが助かった罪悪感と後味の悪さが、忘れるな、とぶり返してくる。

 贖罪は、今この時に――。


 魔法は残り一つとなった。

 杯には、飲ませた秘薬の赤色がほんの少し、まだ付着している。

 秘薬の材料はオアシスの真水と奇怪な大木の樹脂。この大木は、太い幹と大きく放射状に広がる夥しい枝葉が特徴で、後に竜血樹と呼ばれた。その樹脂は血のように赤く、東西問わず医療、魔術、錬金術、染料と貴重品として扱われるが、この時はまだ流通しておらず、ただの商人が知るはずもなかった。

 ソカトゥラは意識的に理解して使ったわけではない。

 杯に刻まれた楔形文字の放った黄金の光に導かれたまでのことである。そのことを除けば、ソカトゥラが行ったことは錬金術に近い。素養は微塵もないが。

 そよぐ風音。潮の気配。

 日も暮れて夜になりつつある世界。

 岩山の影が濃くなる。水平線に隠れる太陽と、それを待ちわびたように現れる月と星々。昏れなずむアラビアの残映に空が色をなす。夕と紺青に彩りを凝らす。

「……ん……私、は?」

 ソカトゥラが火の用意をしていると、隣人が目を覚ました。パチパチと、火の粉が弾けた。

「早いな。起きれるか」

「は、い……?」

 混乱している様子の隣人に、ゆっくりと語りかける。

「君はね、落ちてきたんだ、あそこから」

 真上に指をさすソカトゥラ。屋根はなく、三日月と宵の星模様があるだけだった

 隣人はハッと宙を見つめ、声を震わせた。

「ああ、いけない。早く、早く戻らねば……」

 焔を宿したルビーのような切れ長の瞳が揺れ、だが、その瞼はラピスラズリの輝きよりも蒼く、くま取られていた。絹糸をほつれさせたように長く艶のある黒髪に、金細工と仄かに光るすかし模様の銀衣。白く均整の取れた顔立ちと肢体は、ぼう、と夜に妖しく浮かぶ。

 この白皙の美人は、一見して男女の別がつかなかった。

「戻るって、君は自分がどこからきたのか知ってるのか?」

 ソカトゥラは聞いた。

「ええ、あそこです。『マズダー』は地上ではなく宇宙になければならないのです」

 空の、その先を指し示して隣人は、マズダー、と言った。

「マズダー、名前か? ……とにかく空だとわかっているなら、諦めることだな」

「なぜです?」

「そりゃ、空は歩けないだろ」

 よろよろと立ち上がり、足を宙にかける仕草をするが、浮かぶわけもなくマズダーはうなだれた。

 目を伏せ、俯くマズダー。

 きまりの悪さを感じたのか、ソカトゥラはポツリと、魔法でもなければな、と付け加えた。しまった、と思ったのが時すでに遅しというやつだった。

 マズダーは勢いよくソカトゥラの顔を両手に挟んで、鼻先が触れる距離に近づいた。聞き逃してくれよというソカトゥラの思いは虚しいものであった。

「魔法、ですか。その魔法があれば戻れるのですか? それはどこに?」

「はなせ、はなせ。魔法なんてない、口からでまかせだ」

 洗い終え、乾かしていた手元の杯を見る。首を振る。

「なんで、そんなに戻りたがる。ひと月もすればインドからイスカンダリーヤに向かう隊商が見えるはずだ。急ぎでもないだろ。バグダッドに知り合いの錬金術師がいる。帰る方法は……おいおい探してやるよ」

 嘘だ。火がくすぶる。三日月がその白さを増す。

「いえ、日が昇る前でなければいけないのです。軌道が歪み、回帰が早まり、ウィザーリシュンが不完全にはじまってしまう」

「なんだって?」

「調和が乱れ、マズダーなきウィザーリシュンがマンユ・アンラに」

「もっと、わかるように言ってくれ」

「あなたたち含めた生物が全て死に絶えます」

「……そうか」

「おそらく、あなたも消滅するでしょう」

「消滅か。結構なことだな」

 海に沈まなくても死ぬなら、あの時の願いは一体何だったのだろうか。

 話を信じるわけでもないが、面と向かって死ぬと言われて頭が疲れたのは事実だった。やることは一つ。

 ソカトゥラの選択肢は睡眠一択になった。

 マズダーを背に横になり、腕枕に目を瞑る。

 背中越しに夜に似合う涼しげな声音が聞こえて、目は冴えたままだ。

「悠長にことを構えている暇はありません。起きてください。世界の秩序を守るため」

 ペチペチと頬を叩かれ、徐々にその威力が上がっていく。最終的に平手打ちに変わり、たまらずソカトゥラは起き上がった。

 守るため、って俺に何ができるのか。

 そう思いつつも、あぐらをかいて座りなおる。

 どうしたものかと声を低くして告げた。

「世界だって? あのイスカンダルでさえ、手が届かなかったものを、俺なんかが、死に損ないの商人が守れると思うか。せいぜい星に祈るだけだ。どうかお助けをって。神様だなんだと言うが奴が救うのは過去でも今でもなく未来の連中だ。だから、俺らみたいなのは酒でも飲んでお星様に祈るだけなんだよ」

 ため息とともに吐き出した言葉。マズダーの話を全て信じているわけではなく、皮肉のつもりだった。

 だが、残り火に当てられたマズダーの表情を見てしまうと理性が揺らぐ。その神秘はソカトゥラの心を甘く撫で、なべて人に在する善性を冒険に傾ける。

「なるほど、確かにあなた一人では何もできないでしょう。ですが、私は守れます。私が星なのです。あなたは私をあそこに連れて行くだけでいいのです。どうか……」

 沈黙。

 逡巡。

 思考。

 私が星だ? 連れて行くだけ?

 簡単に言いやがって。

 一生に三度の奇跡が無駄になるかもしれないんだ。ただでさえ俺が死にかけた時……ああ、くそ。

 思いは揺らぎ、そして。

「……こうなったらやけだ」

 答えは決まった。

「……マズダー、話が本当なら、俺は今から君を、世界を見下ろせる場所に連れて行く。だから俺の代わりに、バグダッドまでの道筋を示してくれないか。取引だ」

「ええ、もちろん」――約束です、とマズダーは訂正して言った。


 ――魔法の杯に望む。高く、高く、空の先まで行ける魔法の絨毯を。できればペルシア絨毯がいいと。

 風も砂も水も動きを止める。

 無音。その後、逆巻く。

 杯は黄金に輝き、ソカトゥラの手を離れると、オアシスの水面に浮いた。杯は風を巻き込んで回転し、輝きとともに楔形文字の数々がオアシスに拡がる。

 文字がオアシスの緑を取り込み、パルメット文様など草花状の文様として描きなおし、泉は急速に凝縮する。

 そして杯を真ん中にメダリオンが形成され、オアシスは跡形もなく消えた。

 代わりに出現したのは、水の絨毯だった。

 再び、夜の静けさが戻る。

 一つ、二つ、と息を数え、

「……の、乗りな!」

 驚嘆に縮む喉を通り、やっと、かすれた一言が出た。


 ぐんぐん夜の空を飛翔する。

 星明かりに見守られて、宵の奥へと突き進んでいく。

 早変りする景色に唖然としていると、たぷんと、足元が揺れた。

 乗り心地は悪くないが、さりとて水。安定はなく、また、自在に形を変えてはソカトゥラを不安にさせる。まるで、意思でもあるかのように。

「……友人に、七回海に出て、七回遭難して戻ってきた奴がいる」

 微動だにしないマズダーに対抗して、恐怖と寒さをたわいない話でごまかす。反応を待ち、話を続けた。

「そいつは帰るたびに、でっかい鳥や人を食う巨人、海坊主におかしな風習の人間たちの話を酒の席で面白おかしく話して皆を笑わせていたが、今日からは俺が宴会の主役だ。空からの客人を、事もあろうに、水に乗って送り届けているんだからな。そうだろう」

「ええ。そうですね」とマズダーは微笑んだ。

 不意打ちだった。

 その表情はあまりに可憐で、見間違いだとソカトゥラは頭を振った。

 髪や睫毛についていた霜が落ち、その変化に気づく。

 肌を刺す冷気に周りを見渡す。色とりどりに輝く星々が近い。ソカトゥラの双眸に世にも美しい夜空が映る。

 気づくと景色は静止していた。

「――ここまでくれば大丈夫です」

 マズダーはそう言うと、ゆらりと翡翠の光彩を纏う。

「ここからなら、私は自力で行けるでしょう」

 カタカタと震える自分の肩を抱いて、ソカトゥラは情けなくマズダーの方を見やった。

「どうやら、あなたにこの先は厳しいようで、私は恩人を死なせるつもりはありません。お互いに帰すと約束したのですから」

 なんとか返事をしようと、腹に力を込める。

 だが、かすれ声すら喉元で凍って出てこない。

 マズダーは続ける。

「ありがとうございます。これで秩序は保たれる。……どうか、お元気で」

「……あ、ああ」

 必死に出した言葉は嗚咽みたいなもので、別れの挨拶には程遠かった。

 そして。

 もう一度、宝石みたいな瞳を優しく滲ませると、マズダーは燦然と煌めく星空を蒼く翔けていった。

 それは目で追うのも許されない速度で、ややもすれば呆気なささえ感じてしまいそうになる。だが、その壮麗な美しさを忘れることはないと、魂に刻みつけられた光景にソカトゥラは強く思った。

 紺青に深い星空。一条の彗星が三日月に橋を架けて飛びゆく様は、幻想の調べを夢想させる。

 ――まさか、本当にお星様だったとは。

 いつまでも見送っていたい。それほどの光景だった。

 だが、三日月に反射したマズダーの光がある一点を指し示したことに気づく。月華が集約され軌道を描く。

 あの方向は、おそらくバグダッド。約束は守られた。

 ならば帰らねば。語り継がねば、

 物語を。不思議な彗星の物語を。だが――。

 光彩陸離たる星屑の無数の光が水の絨毯に散りこむ。

 孔雀の色彩を真似て、絨毯が水飛沫をあげると、夜空色の水滴を置き去りにソカトゥラは宙を落ちていった。 

 ――頼む。

 乱と散じた水飛沫。渺たる夢幻の宇宙から目を離さないで、落ちていく。


 ――もう少しだけ見ていたいんだ。


 ふわりと浮遊感に身を包まれる。

 凍えた体を水の絨毯がとかしていく。

 不思議に暖かく、それは焚き火に似て、ソカトゥラに熱を灯した。

「……気をつけて帰れよ」

 ようやく出た言葉。

 寒さも震えもなく、優しげな火を内に秘めてソカトゥラは緩やかに軌道に乗り帰ってゆく。


 マズダーと同じように、アラビアの星空に抱かれて。

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彗星夜話 杜翠奏 @tosuisou

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