第15話 救いの日2

 立ち竦むグラウに、少女は微笑む。勝ち気そうな印象が、それだけで優しいやわらかさへと変わるのが、不思議だった。


「長い間、伝聞のかたちを取るうちに、白銀鬼の恐ろしさや『餌食』のおぞましさばかりが、きっと強調されて人に伝わるようになったのね。

 白銀鬼を退けて人間を護るクリートのことは、聞いたことがないんでしょう?

 あんたの……あんたの村の人達の様子を見ると」

 グラウは頷いた。

「確かにクリートは、人とは違うわ」


 泣きそうに揺らいでいた紫紺の瞳は、瞬くことでその弱さを追いやろうとしたかのようだった。

 強い意志を呼び戻すように、毅然と少女はグラウを見据えた。

 それは、おそらくグラウに信じてもらおうと必死だった───彼女自身も未だ幼かったアレシアの、精一杯の真剣さの表明だったのだろう。


「でもね。クリートを知っている人なら、誰もわたし達を化け物なんて言わないわ。

 ……あんたの村の人達は、クリートを知らなかったから、『餌食』と同じように見えちゃったのかもしれないけれど」


 あの時。

 朝日と共に起き出した村の人間は、顔を洗うため、食事の支度を始めるため、いつものように村にたったひとつの井戸の周りに集まっていた。


 嵐が過ぎ去った後の鮮やかな青い空からの陽射しは白く眩く、前夜の風雨の凄さを話題にしていた大人達の笑顔をくっきりと照らし出していた。

 妹のセルマの掌に桶で水を注いでやっていたグラウの頭を、伯父の手がくしゃくしゃと掻きまわした。

 母の笑い声。

 陽気に交わし合う伯母達の話し声。

 いつもの、朝の風景だった。


 ───鳥の声が全くしなかったこと。

 家畜達がひどく騒がしかったことは、今だからこそ初めて思い当たる違和でしかなかったのだ。


 そして。


 嵐の最中さなかに、建てたばかりの炭焼き小屋を心配して見廻りに出て行った……炭焼き小屋で一晩を過ごしたであろう従兄達が、朝日を背に帰ってきた。

 朗らかに彼らを迎えた村の人間達は、そして突然の異変に襲われたのである。


 彼らはもはや、グラウ達の知る従兄達ではなかったのだ。


「あんたも『餌食』に直面するまでは、自分に人より強い力があるなんて知らなかったんでしょう?」

 確かに村の人間達より、多少身が軽く、六歳の子供としては───亡くなった父の半分……否、そのさらに半分ぐらいの仕事をほどには、力が強い方ではあった。

 けれどそれでも、それは異常と思われるほどではなかった。

「クリートの親からクリートとして生まれて、鍛錬を始めていたわけじゃなければ。

 たとえば、あんたや……わたしみたいに、普通の人の子供として生まれれば、自分にどれだけの力があるか、なんて知りようがないわ。

 だって、必要が無いんだもの」


 自分が先祖返りのクリートだなんて、知らないもの。


「でも、『餌食』を前にしたら話は別。

 大切な人達を守らなくちゃ、と思ってしまったら、戦わなきゃと思ってしまったら……ううん、もう考えている余裕なんてない」


 悪鬼に乗り移られたように、従兄達は人とは思えないほどに面変わりしていた。

 目蓋の裏に殆ど吸い上げられた眼球は、その眼窩から白目ばかりを剥き出しにしていた。

 涎を滴らせる、閉ざされることのない口。

 まるで作り物めいた歩みに揺れる首の上で、髪が不穏に振り乱される。

 彼らに呼びかけた朗らかな声は断ち切られ、グラウも含めた村の人間達はその異様さに、白い朝日の中で完全に凍りついてしまったのだ。


 一拍の空白。

 そして突然、従兄達だった化け物が獣のように躍りかかったのだ。


 何が起きているのか、わからなかった。

 目の前で赤い血が噴き出し、絶叫が村を劈き───。


「わたし達は、戦わずにはいられない。

 怖いとか、どうしてとか、思う暇もない。

 大切な人達を死なせたくなんか、酷い目に合わせたくなんかないんだもの。

 立ち向かわずにはいられないんだもの。

 考えるより先に、体が動く。自分でも知らなかった自分の力を、それでも振り絞らずにはいられなくなる。

 ……わたし達は、クリートだから」


『母さん!』


 ふたりを頼むと、亡くなった父にグラウは言われていたのだ。

 だから、いつだって頑張って伯父の手伝いをし、頑張って母や妹が笑って暮らせるように何でも自ら手を掛けてきたのだ。


 目の前で伯父の姿に、母が悲鳴をあげる。

 泣き叫ぶまだ小さいセルマを咄嗟に抱き上げて、グラウは駆け出した。

 井戸から一番近い家に飛び込む。まだ納屋を建てていないこの家の、土間の片隅から鎌を持ち出すと、グラウは踵を返した。


 一瞬、家の中にセルマを隠して行こうか、という考えが掠めたが、小さな妹をひとりで置いていけるほどに、この家が安全だとは思えなかった。

 何よりも、怯えて必死にしがみついてくる幼いセルマを置いてなど行けなかった。

 片腕でしっかりと妹を抱きしめて、修羅の最中へグラウは駆け戻ったのだ。


「人より強い力を持つのも。人が好きで、人を護るためなら戦わずにはいられないのも、クリートなら皆そうなの」

「クリート、なら……?」

「クリートは、人を護るためだけに戦う。

 クリートを知っている人なら、それは当り前に知っていることなの。

 人と違うことは、たったそれだけ。話をすることだって、お互いの気持ちがわかることだって、クリートと人間は全然違わないのよ。

 だから、だからね?

 例え力が強くても、人と同じ気持ちを持っているわたし達は、化け物なんかじゃない」

「………」

「あんたは、自分を化け物だなんて思ったこともなかったそれまでのあんたと、ちっとも変ってないの。

 あんたは、化け物なんかじゃないのよ」

「化け物、じゃない……」


 従兄達の血に塗れた自分から、セルマを抱きしめたまま母は後退ったけれど。

 恐怖と嫌悪に心を埋め尽くされて、それ以外の感情を失った歪んだ悪鬼のような顔をしていたけれど───悪鬼のような顔をさせてしまったけれど。


「俺……化け物じゃないんだ、ね……?

 ……本当に?」

「そうよ」

 グラウの願いを支えるように、少女は力強く頷いた。

「あんたは化け物じゃない。クリートなんだから」


 そして、少女は鮮やかに笑った。

「グラウ。あんたは、化け物じゃない。

 だから、こんな処に隠れていなくていいのよ?」


 止めようもなく、鼻の奥を鋭い痛みが突き刺した。

 それはすぐにグラウの息を詰まらせ、じわり、と少女の笑顔を滲ませる。

 込み上げてくる涙を誤魔化したくて、グラウはさかんに目を瞬かせた。


 白い朝が、赤い血と黒い煙に浸食されたあの日。

 無我夢中で、母や妹に……村の人間に危害を加えるグラウは、気が付くと人々から遠巻きにされていたのだ。

 身内にも等しい親しい人々の顔に張り付いていた恐怖と嫌悪に、村の仲間を食い殺したを見るような眼差しに、グラウは自分が取り返しのつかないことをしてしまったのを、子供ながらに悟った。


 彼が一歩近付くだけで、捕食者を察知した小動物のように浮足立つ人々に───彼が自分の息子であることを信じようとしない、心の一部が欠けてしまった母親に───そして、グラウは村から離れざるを得なくなったのである。


 それでも、まだ子供であるグラウに、行く処などない。

 村から少し離れた山腹の炭焼き小屋……そもそも従兄達が最期に向かったであろう小屋に、グラウはひとりで身を寄せるしかなかったのだ。


 村人達は、グラウを恐れて近付こうとはしなかったが。

 それでも彼に対する良心の呵責を感じるのか……あるいは、怒りを恐れたのか。日に一度は、この小川の傍に食べ物を置いて、逃げるように去って行った。

 そんな日々が、もう三日も続いていたのだった。


 ……もう、誰も自分の傍に近付いてくることなどないだろう、と思い知るのには十分な時間だった。

 けれど。


「グラウ」

 少女は、困ったように小さく首を傾げた。

「あんたを怖がった村の人達には、今頃、ちゃんとわたしの仲間が説明をしてるわ」

「………」

「あんたは、あんたを怖がったあの人達を、許せない?

 あんたのことを怖がったお母さんを、あんたはもう嫌いになった?」


 きっと自分にはもう向けられることがないと思っていた優しい問い掛けを前に、もはや誤魔化せるだけの意地すらも、グラウには残されていなかった。


 隠す間もなく涙が零れて、グラウは俯いた。

 胸が痛む。息が出来なくなって、グラウは強く鼻を啜りあげた。


 嫌いになどなれるはずがない。

 許せないはずがない。

 だって……自分が化け物だから、皆は逃げ出したのだ。仕方がなかったのだ。


 そう、思っていたのに。


 ふわ、と温かな腕が背中に、頭にまわされても、もはや抗うだけの意地すらも、グラウには残されていなかった。

 温かい肩口に顔を埋めて、それでも唇を噛んで声を殺したまま涙だけを零す子供の背中を、少女は優しく撫で擦った。


「あんたの村の人達も、今すぐには納得出来ないかもしれない。

 それでもきっと、いつかわかってくれるわ。

 あんたが化け物なんかじゃなくて、自分達を守ってくれた守護者なんだってこと」


 やわらかく囁かれる温かな声に縋るように、グラウは震える息を噛み殺して、耳を澄ます。

 この三日間の絶望や痛みを洗い流すように勝手に零れる涙なんかに、差し出されたこのぬくもりを奪われたくなかったから。

 優しい声を聞き逃したくなんかなかったから。


「あんたが、あの人達を嫌いにならないなら……もうちょっと待っててあげよう?

 あの人達が落ち着いて、ちゃんと、あんたのことをわかってくれるまで」


 あんたばっかりが我慢することになるのは、可哀想だけど。

 呟かれた声に、グラウは小さく首を振った。


 大丈夫。

 自分は化け物じゃないって、言ってもらえたから。───教えてもらえたから。

 大丈夫。


 そして、ぐいっと目を拭って、グラウは顔を上げた。

 間近から向けられる紫紺の眼差しは、やはりどこか泣きそうな表情を浮かべている。

 少しだけ躊躇うような間を空けて、それでも少女は口を開いた。


「あのね。わたしの村はあんたの村と違って、クリートのことをちゃんと知っていた。

 それでも、父さんや母さんがわたしをクリートだって認めるのに、とっても時間がかかったの」

「………」

「遠い御先祖様の力を持った子供が、そんな事を知らない人の間から思いもよらず生まれるのって……普通の人からクリートの子供が生まれるのって、珍しいんだって。

 わたしも、わたしとあんたしかそんな子供は知らない。

 だから、あんたの村の人達も、きっと納得するのに時間がかかると思う」

 赤くなった目を少女のそれに合わせたまま、グラウは頷いた。

 生真面目な顔で、少女は問い掛けてきた。

「だから、グラウ。わたし達と一緒に行かない?」

「……何処に?」

「東の海辺、セルヴ侯の領地よ。私達はその城砦に暮らしているの。

 海岸沿いの領地にはそれぞれ、この国を護るためにクリートが住んでいるわ」

「この国を、護る……」

「そう。白銀鬼や『餌食』と戦うために。

 人間を、仲間を護るために。

 もちろん、無理にとは言わない。クリートだからって、戦わなくちゃいけないわけじゃないと思うし」

 ちょっとだけ、グラウは笑ってしまった。

 それは、さっきまで懸命に彼に言い聞かせていた少女の言葉とは、見事に相反するからだ。

「本当に?」

「……ええっと。多分」

 困ったように答えてから、少女も笑った。

「でも、あんたやわたしと同じ、クリートの仲間がたくさんいるわ。

 十二歳になって戦闘に参加することが許されるようになれば、一人前としても認められる。

 わたしも、だからやっと、時々村に帰ることが出来るようになったの」

「帰れるんだ」

「うん、や友達に会いにね。

 それでもわたしの家はもう、城砦だけだって思ってるけれど」


 家。

 帰ることが出来る、家。

 帰れる処───。


「うん」

 肩の力が抜けるような安堵感が、グラウを頷かせた。

「行くよ」


 少女が、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

 泣きそうだった……グラウを気遣ってくれていたであろう表情が消えて、彼女が晴れ晴れとした笑顔になったことが、グラウにも嬉しかった。

 おそらく、彼女はグラウと似たような境遇を経験したのだろう。───少女が、自らをクリートであると知ったというのなら、その経緯は推して知ることが出来る。


 今のグラウなら。


「行こう。わたしの仲間が……あんたの仲間が、待ってる」

 笑って、少女は踵を返した。

 けれど、グラウは足を踏み出さなかった。

 その前に、どうしても聞いておきたいことがあったのだ。


「アレシア」

 教えてもらったばかりの名を呼ぶと、少女が振り返る。

 強い輝きを放つ紫紺の瞳が真っ直ぐに彼に向けられて、グラウは僅かに気圧されたように顎を引いた。

 彼らの年代では六歳という年齢差は大きい。

 彼よりも遥かに高い位置から見下ろしてくる強い眼差しに僅かに怯みながら、それでもどうしても尋ねずにはいられなくて、小さく息を吸うと意を決してグラウは口を開いた。

「……俺が、怖くないの?」


『餌食』だなんて知らないままとはいえ、無我夢中で従兄達を……人間を屠った。

 皆の表情から、自分がどれほど凶暴な姿を曝したのか、グラウは察せざるを得なかったから。

 自分でも覚えていないような、獣じみた暴力を───たとえ、説明された通り己がクリートなのだとしても───万が一にも、またに向けてしまったら……。


「わたしが? どうして、あんたを怖がるの?」

 不思議そうに、少女は首を傾げた。

「わたしの方が、あんたより強いのよ?」

 あまりにもあっさりと返された言葉に、目を丸くしてグラウはぽかん、と口を開いた。

より強いのは、当たり前じゃない」


 何だか、何かが違うような気がしているグラウの前で、急に思い付いたようにアレシアが手を打ち合わせる。

 無邪気なほどに明るい笑みが、その白い顔に花開いた。

「そうだ。わたしが、あんたの『お姉ちゃん』になってあげる。

『お姉ちゃん』が『弟』を怖がるなんて話、聞いたことないでしょ?

『お姉ちゃん』が『弟』を怖がることなんて、絶対にないからよ」

「え……」

「そうしたら、あんたはもう何の心配もしなくてよくなるわ。

 だってわたしは絶対、いつだってあんたを怖がったり嫌ったりしないもの。『お姉ちゃん』なんだから」

「アレ……シア?」

「城砦に生まれたクリートとはちょっとだけ違ってるわたし達なら、姉弟になったんだっていっても、おかしくないよね?

 そういうものなのって言えば、皆納得してくれそう」


 楽しそうに笑って、アレシアは呆気に取られているグラウに手を差し伸べた。

「ね? そしたら、あんたが怖がることなんて、何もなくなるでしょ?

『お姉ちゃん』が『弟』を怖がることなんて、絶対にないんだから」


 楽しそうな少女の勢いに呑まれるように、グラウはその手を取った。

 アレシアが、まるで『お日様』のように笑う。


 温かな手に包まれた自分の手を見下ろして。鮮やかな笑顔を見上げて。

 無防備に差し出されたぬくもりを、そして、慌ててグラウは握りしめた。小さな子供のように手を繋いで歩かなくても危なくないほどには、この山のことはよく知っているけれど。それでも今は、この手を放したくはなかった。


「行こう、グラウ」

 温かな手が、グラウの手を柔らかく握り返す。


 その瞬間、失った大切なものが奇蹟のようにもう一度彼の元に戻ってきたことを、グラウは悟ったのだ。

 二度と失いたくはない大切な、大切な───。

 じわり、と滲んだ視界に、陽に透けた緑が眩しかった。




「……それが、貴体おまえの原点か?」


 静かな声が聞こえた。

 振り向いたグラウは、そこに輝く光糸を靡かせ、佇む銀色の百合を見た。

 ───銀色の百合などよりもよほど稀少で、遥かに美しく、毅然と佇むすらりとした姿を。

「それが、貴体の『救い』か?」


 女神のように彼を睥睨する、美しい化け物。

 白銀姫の姿を。


 

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時の彼方でもう一度 高柴沙紀 @takashiba

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