第14話 救いの日1

「あんたが、グラウ?」


 背後から聞こえた声に、子供の肩が大きく跳ねた。

 人が近付く気配に全く気が付いていなかったからでもあるが、あの日から誰も呼ばなくなった……もう二度と誰も呼んでくれる人などいないのではないかと思っていた己の名を、恐れげもなく紡いだ声にひどく驚いたからでもあったのだ。


 弾かれたように振り向いたグラウの前に、見知らぬ少女が立っていた。

 グラウより幾つか年上らしい彼女は、成長期に入っている年頃だからか、彼よりもずっと背が高い。

 見上げた赤い髪に縁取られた白い顔は少女らしい繊細な面立ちだったが、その中でやや吊りあがり気味の鮮やかな紫紺の瞳が、意志の強さを感じさせるように煌めいていた。

 小さな唇は引き結ばれ、じっとグラウの返答を待っている。


 友好的な表情とは言い難い。

 敵意こそないものの、やや強張って見える生真面目な表情が、自分に呼びかけた緊張をことさらに感じさせて……素性がわからぬだけに、相手が自分に声をかけた理由の予想がつかずに、グラウは警戒を強めずにはいられなかった。


 ───少女の緊張が、振り向いた瞬間に咄嗟に警戒に身を固くした子供が、同時に浮かべたひどく不安そうな表情いろに対するものだったのだと、その時のグラウには知る由もなかったのだ。


 グラウの足で十歩ほどの位置に立つ少女は、グラウの村の人間とは全く違う服装をしていた。

 華奢な肩を包む革製のマントの下のほっそりとした体躯は、素朴な短衣の上から胸や腹部を革鎧で覆っている。剥き出しの足にはやはり革製の足甲を編みあげたサンダルの紐で巻き付け、両手首には籠手を巻いていた。

 村の皆のように、大地を耕し、獣を狩りながら生活を営んでいる人間ではないことは、幼いグラウにも何とはなしに察せられたのだ。


 不審な思いのまま黙って見返すグラウに、少女は硬い声で再び問いかけた。

「あんたが、グラウ?」

 用心深く、それでもグラウは小さく頷いた。

「わたしは、アレシア」

 ようやく少女の唇が、不器用ながらも笑みの形に歪んだ。

「クリートよ」

滑り止めクリート?」

 紫紺の瞳が、瞬いた。そして困ったように眉根を寄せる。

「……そうか。あんた達は、内地から来たんだっけ」


 アレシアは、不用意にグラウとの距離を詰めようとはしなかった。

 怯えさせないようにという配慮なのか、ゆっくりとその場で片膝をつく。高い処にあった煌めく瞳が、同じ高さから躊躇いもなくグラウを覗き込んできた。

 あまりに真っ直ぐな強い視線に、一瞬、逃げ出したい衝動がグラウの内を掠めた。

 しかし目を逸らすことは負けたことになるようで……それが何に対するものかもわからないまま、グラウは顎を引き、少女の視線を正面から受け止める。


 グラウが今までに見たこともない紫がかった鮮やかな青という色の、その上に光が踊っている。それは揺れる木漏れ日か、グラウのすぐ後の小川に弾ける陽の光が映っているのだろうか。


 そよ風が吹き、水が流れる。いつも変わらぬ穏やかな風景のその中にいることで、鼻梁の奥に染み込んだ……そんな気がする血の臭いや家屋の燃える臭いが、薄れていくような気がしていたけれど。

 今は、見つめている紫紺に煌めく光に合わせて、グラウの周りで葉叢が囁き水面が歌っているかのようだった。

 今までも彼を宥めてくれていたそれらが、血塗られた記憶さえも洗い流してくれるような清々しい力を、紫紺の光から与えられているかのようだった。


 綺麗だな、と───踊る光にか、その紫紺そのものにか───ぼんやりとグラウの心のどこかが思った。


「あのね。今頃村の人達には、わたしの仲間が話をしているけれど」

 小さな子供に言い聞かせるというよりは───生真面目な顔で、きちんと対等な者に説明するように、アレシアは言葉を継いだ。

「内地の人間でも、白銀鬼の話は聞いたことがあるでしょう?」

 グラウは少女の瞳から目を逸らさないまま、頷いた。子供が言うことを聞かない時に、大人がよく持ち出すお伽噺だ。

 グラウの表情から、何かを読み取ったのだろうか。アレシアは小さな溜め息を吐いた。

「内地はまず実害を受けることがないからね。……作り話めいた噂にしかならないのは、仕方ないか」

「?」

「あんたの村の、裏の林から白銀鬼の死体が見つかったの」

「え?」

「村の人達には、今頃、その死体が見せられているはずよ」


 ───お伽噺の……お話の中だけの、作り物の怪物……その死体が、あった?


 少女が語る事態が上手く呑み込めずに、グラウは目を瞬かせた。

「グラウ」

 少女が、真剣な顔で言葉を重ねる。

「白銀鬼は、この世にちゃんといるの。決して作りごとなんかじゃないのよ」


 ───……何?


「城砦の兵やわたし達クリートが、あんた達がいた内地には絶対に、奴らを行かせなかったから。

 だから噂話しか知らないあんた達は、本当に白銀鬼がいるんだって信じられないのかもしれないけど。本当に、白銀鬼はいるんだよ」

 事態が理解出来ずに呆然とする子供に、少女はちょっと困った顔をした。

「後で、あんたにも白銀鬼の死体を見せるよ。それで、信じてもらえると思う」


 そして、今度はそっと……まるで怯えさせまいと気遣うように、少女は言葉を継いだ。

「だからね……白銀鬼に襲われて『餌食』になる人も、本当にいるの」


 グラウは、青い瞳を大きく見開いた。

 赤い髪の少女が、ゆっくりと頷いてみせる。

「あの人達……あんたの村でおかしくなった人達は、もう『餌食』にされていたのよ」


 ───お伽話の通りに。


「……え、じき……?」

「だから。あんたは皆を守っただけなんだよ。

 皆を『餌食』にしないように、頑張っただけなんだよ」


 びくり、と我知らずグラウは竦み上がった。


『来ないで! わたしの子供に触らないで!!』

 人の声とも思えないほどの金切り声が、脳裏に反響する。

 草木の匂いや水の匂いがまるで幻のように消え、血の臭いが蘇った。


 熱い黒煙に燻された額を汗ばかりが冷たく伝う感触が、顔に手足に飛び散った熱い血の感触が蘇った。

 骨を打ち砕き、肉を突き刺し貫いた手の感触が、再び戻ってくる。

 耳元で、胸の奥で、痛いほどに鼓動が神経を叩き打つ。


『───化け物!』


「……違う……俺は……だって……」

 ただ、この手で、を殺しただけの、化け物で───。


 胸の奥が引き絞られるような痛みが、グラウを襲った。

 無くならない。消えたりしない。

 理由など分からなくても、本当はグラウにも何となくわかっていたのだ。

 こうして穏やかな清々しい風の中にいても、陽の光の下にいても。

 体に、頭に───心に染み込んでしまったその感触を、記憶を、決して忘れることなど出来はしないと。


 それでも、彼を押し潰しそうな苦しさを、彼を内側から引き裂きそうな痛みを振り払いたくて、グラウは無意識のうちにのろのろと首を振っていた。


『───化け物!』

 あの日、別人に変わってしまった母親の、悪鬼のような形相を。


「グラウ」

 慌てたように少女が立ち上がった。僅かだった距離を、足早に歩み寄る。

「だって……」

「グラウ」

 間近から呼ばれる声に顔を上げると、目の前にどこか泣きそうな表情いろを浮かべた紫紺の瞳があった。彼の前で屈み込んでいた少女のその表情に、グラウは声を呑み込んだ。


「いい? よく聞いてね、グラウ」

 まっすぐに目を合わせながら、少女は言った。

「あんたは、わたしと同じモノなの。わたし達はクリートと呼ばれてるわ」

「クリート?」


『───化け物!』


 それでは───。


「俺は、やっぱり人間じゃないの? ……化け物なの?」

 恐々と問い掛けたグラウに、少女は首を振った。

「わかんない。

 わたしは人間の両親から生まれたわ。あんたと同じようにね。

 ……あんたは、わたしが化け物に見える?」

 首を振ろうとして、けれど、ついにグラウはそうすることが出来なかった。

 目の前の少女は、確かに化け物になんて見えないけれど。そうは見えないことが、そのまま否定になるかどうかは───自分自身すら信じられないグラウには、どうしても判断が出来なかったのだ。


 自分自身が、母だった人の言うように化け物なのではないかと疑わずにはいられないグラウには。


 ただ唇を噛みしめて顎を引く子供に、少女は静かに息を吸い込んだ。

「あのね。わたし達クリートは、確かに力……走るのが早いとか、力が強いとか、目がいいとかっていう意味では、人と全く違うの。

 でも、あんたは今までそんな力があるなんて、自分でも気付いてなかったでしょう?」

「……うん」

「今まで、自分のことを化け物だなんて思ったことはないでしょう?

 誰にも化け物だ、なんて言われたことも」

「………」

「あんたは、化け物じゃない」

 泣きそうな瞳とは裏腹な、きっぱりとした口調で少女は断言した。

「わたしが化け物じゃないようにね」

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