道化師の顔

せてぃ

道化師の顔

 小学五年生のぼくが、十歳という年齢に似合わず浮世絵に詳しいのは、お父さんの影響だ。さらに日本の妖怪に詳しいのも、同じくお父さんの影響だ。お父さんの部屋は、いつもそういう文献や史料で溢れていた。とても整理されているとは思えない、乱雑に積み重ねられた書物が発する紙の匂い、インクの匂い。ぼくはそういう部屋の中で育った。だから、そういう部屋が、香りが、知識が、好きだった。そのどれも、この家にはない。お父さんがいないのと同じく。


「サヤちゃん、サアヤちゃん、よく読めましたねー。エライ、エライ」


 ちり一つ落ちていない床に、真っ白な壁、天井。自分の家だと言われてから、もう二年が経つのに、まるで馴染むことが出来ないリビングで、母だという人が、妹だという二歳の子どもに、甘ったるい声で話しかけている。見れば絵本を開いて読んで聞かせていたようだ。それだけ何度も同じ本を読んで聞かせれば、いくら子どもでも読めるようになるだろう。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 ぼくが呆れた気持ちをため息に乗せて吐き出そうとした時、母がぼくが帰ってきたことに気づいて顔を上げた。その顔は、よくこれほど変わるものだと思えるもので、目はつり上がり、口角は真横に結ばれて、最前まで妹に向けていた顔とは全く異なるものだった。最近のぼくはその顔に、浮世絵で描かれた夜叉を重ねる。


「帰ったなら、帰ったと言えないの?」


 口調まで変わる夜叉の様子に、飽きもせず胸の奥、喉の下辺りに、すっ、と冷たいものが差し込むのは何故だろう。もう馴れたはずなのに。


「……ごめんなさい。」


 ぼくは聞こえるか聞こえないか程度の声で言って、リビングを後にした。背中にまた甘ったるい声が聞こえて、ぼくは素早くリビングの戸を閉めた。





 二階の自分の部屋に入ってかばんを下ろした。鞄から分厚い本を取り出し、勉強机の上に置いて、ぼくもその机に向かう。部屋の電気はつけなかった。勉強机のスタンドライトだけ電源を入れた。いつからか、それが一番落ち着くようになった。

 スタンドライトに明るく照らし出された机の上で、本を開いた。それは今日の面会で、『元』お父さんがぼくにくれたものだった。浮世絵で描かれた挿し絵がたくさんついている、日本の妖怪についての書かれた文献だった。何でそんなことを思ったのか、ぼくは今日、この本を『元』お父さんからもらった時の話を、母だという人にしようと思ってしまった。そんな話を、あの女が聞くはずがないのに。

 お父さんと母だという人の離婚が成立したのは三年前。ちょうど、妹の沙耶の妊娠がわかった頃だ。沙耶の父親、いまのぼくの父親は、『元』お父さんが勤める大学の教授。万年研究員で、それで満足だったお父さんに財力はなく、いまのぼくの父親は、父親よりはかなり年若い、ぼくの母だという人を気に入り、母だという人は、いまのぼくの父親の財力に惚れた。お金なんてなくていいの、と言って、若くして結婚した、とお父さんから聞いたが、そんな約束は存在すらしなかったかのようだった。あっという間に離婚は成立し、ぼくはお父さんと月に一度しか会えなくなった。

 元々、ぼくは母親と折り合いが悪かった。お父さんの影響が濃いからだ。生活が苦しいことに年々苛立つ母に、ぼくは苛立ってすらいた。それを覚悟して結婚したんだろう、と。お父さんは特に不平不満を口にせず、研究に没頭しては、新しい研究の可能性を、ぼくに説明してくれた。新しい世界を、開けていく世界を、ぼくに見せ続けてくれた。だから、同然のように、ぼくはお父さんについていくつもりだった。ところが、大人の事情が働いて、ぼくの親権は母が持つことになった。大方、杓子定規しゃくしじょうぎに法令と照らし合わせることができるだけで偉いと言われる人が、お父さんに子どもを養う力がない、とでも言ったのだろう。子どもが金だけで育つというのなら、如雨露じょうろに金を積めて振りかけていればいいのだ。

 とにかく、そんな風にしてぼくは、母だという人に嫌われ、ぼくも母親とは思わなくなった。時折、胸の奥辺りに、先ほど感じたような冷たいものが差し込むことはあるけれど、それが何かはわからなかった。だってもう、母親という存在としての期待など、していないのだから。なのに、どうしてだろうか。今日は涙まで流れていた。お父さんがくれた本の浮世絵が、滲んで見える。くそ、ああ、くそ。なんなんだ、こんな……





 寒さで目が覚めた。お父さんがくれた本の上に突っ伏して、いつの間にか眠ってしまっていた。いま何時だろう。夕飯の時間はとっくに過ぎていて、空腹を感じたが、作ってもらった夕飯を近年は食べていないので、それは特別なことではなかった。

 いつの間にか、スタンドライトが消えていた。ぼくが無意識に消したのだろうか。カーテンの隙間から漏れ指す月明かりだけが、ほのかに部屋の中を照らしている。あおく、薄暗い部屋の中に、ぼくは立った。ぼくが椅子から立ち上がったのは、窓の辺りに、何かの気配を感じたからだ。

 二階にあるぼくの部屋の窓は南向きで、そのまま広いベランダに繋がっている。夜遅い時間、ベランダに誰かがいるはずはないが、確かに、ぼくの背より大きな窓の、閉ざされたカーテンの向こうに、誰かがいるように感じた。

 ぼくはそっとカーテンに手を触れた。何者かは、このカーテンと窓ガラス一枚隔ててすぐ、張り付くようにしてそこで息をしている。その息づかいすら感じられた。

 ぼくはお父さんの影響で、怪談は聞き慣れていたけれど、決して怖いものが得意というわけではなかった。なのに、なぜかいまは、恐怖を感じなかった。ぼくはごく自然に、カーテンを引いた。

 感じた通りに、窓ガラスのすぐ向こうに、その人影はあった。白塗りに、赤い鼻。七色に染められたボリュームのある髪に、ちょこんと乗せられた帽子は、あまりにも不釣り合いに小さい。背の高さはぼくと同じくらい。髪と同じく七色に輝く、華美な衣装を身に付けた、おそらくは子どもの、ピエロだった。





「いやあ、どうも、明日から来た人です!」


 ピエロが元気に挨拶した。時間も場所もまるで気にしていない様子で、白塗りの顔を綻ばせる。


「は、はあ。」

「あれ、驚かないんですね?」


 驚きすぎて驚くことができない、というのが正直なところだった。どこから問い質したらいいかがわからない。その格好からか、この時間からか、それとも不必要な大声からか。はたまた……


「明日から……?」


 ぼくはたったいま耳にした言葉を自分で口にしてみて、改めてその言葉の奇妙さに気づいた。明日から来た人? それは未来から、という意味か? いやいや、そもそも明らかにまともではないこのピエロの言葉が本当か嘘かなど……


「あ、そこ、気になっちゃいました? ですよねー。気になりますよね。でも、その言葉の意味、そのままなんですよ、そのまま。明日から来たんです、わたし。」

「はあ。」

「あなたに、わたしの大切なあなたに、とても大切なことを伝えなければ、と思いましてね。泣き腫らして、目の下に隈まで作って、そんな絶望のどん底にいるようなあなたを、わたしの言葉はきっと、きっとですよ、きっと救うことが出来る。そんな風に思ったんですよ。」


 ピエロは饒舌じょうぜつに話す。特に早口、というわけではなく、一音一音、はっきりと聞き取ることが出来る。なのに、まるで異世界の呪文でも囁かれているように、その言葉はぼくの頭の中に入らず、ただひたすら、ぼくの鼓膜を何度も何度もノックし続けていた。まるでエコーがかかっているように、うわん、と響き続ける。


「……いったい、なんなんですか。」


 ぼくは少し不満げに言ってみた。だが、それは果たして不満になっていたのだろうか。耳に響き続けるピエロの言葉の渦に引き摺られて、ぼくの言葉がどんな風に音になったかもわからなかった。


「その、本!」


 ピエロの声がぴたり、と止んだ。ピエロがぼくの背後を指差した姿勢で止まっている。ぼくはその指の先を追って、肩越しに後ろを見た。そこにはぼくの机があり、その上にはお父さんからもらったあの本が開いたまま置いてあった。


「今日、目にしたその本の中に、あなた、なにか、ものすごく惹かれるものがあったんじゃあないですか?」


 絡み付くような、ねっとりとした口調に変わったピエロの声が、再びエコー付でぼくの耳を塞ぐ。でもぼくは、どんな声も出すことが出来なかった。このピエロの言う通りだったからだ。

 ぼくは、お父さんに本をもらい、パラパラと目を通していた時、ある一つの妖怪に目を止めた。どうと言うことはない、ある意味ではありきたりな、長く生きた動物が、妖怪化した、というものだった。

 歳を経た熊が妖怪となったもの。人前に姿を現すことは滅多にないが、夜更けに山から人里に現れ、人のように直立歩行しながら家畜の牛馬を捕えては山へ持ち帰って食らうという。力が非常に強く、猿などは掌で押しただけで殺してしまうし、人間の大人十人がかりでも動かすことの出来ない巨石を、軽々と放り投げた、という。

 化け猫や化け狐など、長く生きた獣が妖怪と化すと信じられている文化は、他にもいくらでもある。それでもなぜか、ぼくはその『鬼熊おにくま』という妖怪に惹かれた。というよりも、考えてしまったのだ。それほどの腕力がぼくにあったら、どうだろうか、と。猿などは掌で押しただけで殺してしまうほどの力が、ぼくにあったら、どうだろうか、と。


「要りますか?」


 唐突に、ピエロはぼくに言った。ぼくは正面に向き直って、ピエロの顔を見た。道化師の名に恥じない、満面の笑顔だったはずの表情はいま、あらゆる感情を伝えていなかった。無表情の白塗りが、蒼い闇の中に仮面のように浮かんでいた。


「欲しいですか?」

「何が?」

「鬼熊の腕力です。差し上げますよ。」


 そう言うと、ピエロはぼくの手を取った。向かい合ったまま、ピエロの両手とぼくの両手が触れ合う。ただそれだけだった。ピエロはそれ以上、何もしなかった。何の変化もなく、実感もまたなく、数秒、握りあった手が、ほとんど同じ大きさだな、と思ったくらいで、ピエロの手はぼくの手から離れていった。


「さあ、これで大丈夫。これで、あなたが考えたことが、実現できますよ。」


 そう言って、ピエロが笑った。現れた時とはまるで違う、不気味な笑顔だった。






 スタンドライトの明るさで目を覚ます。ぼくは、お父さんがくれた本の上に突っ伏して、いつの間にか眠ってしまっていた。いや、まて、眠ってしまっていた? ぼくの視線は、すぐに自分の手に向いた。

 ぼくは一度、起きたはずだ。起きて、あの窓辺に向かい、そこでピエロに会った。ピエロはぼくの両手を握って……

 混乱気味なのは、きっとまだ寝ぼけているからだ。いま何時だろう。まだ夜のようだ。ぼくは椅子から立ち上がって、先ほどピエロと向き合った窓のカーテンを開けた。カーテンの向こうには広いベランダがあり、あのピエロの姿はなかった。当然だ、と思った。こんな時間に、家の中に子どものピエロなど、いるはずがない。夢の中で夢を見た。そういうことなのだろう。

 そう割りきって考えてみたけれど、ぼくの両手がそれを否定する。この手には、確かについ先ほどまで、誰かに握られていた感触が残っていた。ほとんど大きさの変わらない手の感触。温もり。これが本当に夢なのだろうか。これほど生々しい感触が、夢なのだろうか。

 こつん、と何が部屋の出入口の扉にぶつかった音がした。誰かいるのか。ぼくは向き合っていた窓に背を向けて、扉に歩み寄った。

 扉の向こうに誰かがいる気配はなかった。それでもぼくは、薄く扉を開いてみた。扉の向こうはすぐに階段で、廊下は電灯に照らされて煌々と明るい。その階段を降りようと、いままさに足を踏み出した背中が見えた。母の、いや、母だと言い張るあの女の背中だった。

 唐突に、ぼくの中を熱いものが駆け巡った。耳には、ぼうぼうというような音と共にエコーがかかった声が聞こえた。


「さあ、これで大丈夫。」


 あの声だ。


「鬼熊の腕力ですよ。」


 あのピエロの声だ。


「要りますか?」


 熱が、ぼくの両手に集まっている。これは現実なのか? いや、現実だ。そうなのだろう。


「さあ、これで大丈夫。これで、大丈夫……」


 気が付いた時には、ぼくは自室の扉を開けていた。母だという人が驚いたように振り返ったが、ぼくは構わず熱くなった両手を突き出した。

 猿などは掌で押しただけで殺してしまう。殺してしまう。そんな腕力。それを得たぼくの両手は、母だという人の身体を強く押した。

 驚いた顔のまま、母だという人が階段を踏み外す。何かを叫ぼうとしたけれど、それははっきりとした言葉には成らず、どたどたと、肉と骨がぶつかる鈍い音をさせながら、母だという人は階下まで転げ落ちていった。ぼくはその人が落ちていくのを最後まで見下ろした。大きな音を立てて階下の壁にぶつかり、その身体がようやく止まる。手や足、首があらぬ方向に曲がっているのを見届けて、ぼくはゆっくりと自室に戻った。




 自室に戻ると、出入り口正面の窓が開いていた。カーテンが夜風に揺れて、その向こうのベランダが見えた。

 そこに、ピエロがいた。


「やあ、どうも、明日から来た人です!」


 やっぱり、彼はいたのだ。明日から来た人。彼が、ぼくに鬼熊の腕力をくれた。いや、あの母だという人を突き落とすだけの力をくれた。何故、彼がここにいるのか、何故、いることが出来るのか、そんなことは大したことじゃあない。彼は明日からやってきて、ぼくにそういう力をくれたのだ。明日から……

 そこまでの言葉を頭の中に並べた時、初めにも感じた疑問が沸き上がった。大した問題ではない。彼はそういう存在なんだ、と考える頭と、妙に冷静な頭の狭間で、明日から、それは、未来から、という意味か、と言う言葉が行き来している。


「君……」


 ぼくはピエロに声をかける。ピエロはそれをきっかけにしたように、突然笑い始めた。元々笑っているようなメイクが施された白塗りの顔が歪むほどの笑い。文字通り、腹を抱えて、心底おかしくて仕方がない、というような、ちょっと狂ったような笑い方だった。ぼくの呼び掛けにも答えず、ピエロはただただ、笑い声を上げ続けた。


「ねえ、君は……!」


 その笑いが、だんだん不気味に聞こえるようになってきて、大きな不安が押し寄せて、ついにぼくはピエロの両肩を掴んだ。鬼熊の腕力が備わったはずの両腕で、力一杯触れたが、ピエロは倒れることはなかった。


「ねえ、大丈夫だったでしょう?」


 ピエロが笑い声混じりに言いながら顔を上げた。笑いすぎて、その顔のメイクにひびが入って、ぽろぽろと剥がれ落ちている。特に右半分はもうほとんどが剥がれ落ちていて、メイクの下の顔が覗いていた。


「これで明日が変わりますよ?」


 にたり、と笑ったメイクの下の顔は、ぼくの顔だった。

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道化師の顔 せてぃ @sethy

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