キミの薬指
「諒ちゃんお先に。あとよろしくね」
閉店時間を迎えてすぐ、いつもはここからもうひと働き片付けと掃除をするのだが、今日は早く帰る予定になっている。これから久間とデートなのだ。常日頃真面目に働いているのでたまに早く帰らせてもらっても文句は言われない。店長と旧知の仲だから成せる技なのかもしれないが、あまり束縛感のないこの職場が自分の性格には合っていると思う。
「晋平さん、今日はデート?」
「うん、今日はね、記念日なんだ」
「へえ」
久間と付き合うようになってちょうど3年目。見た目はクマさんだけれど乙女チックな心を持つ俺の恋人は、記念日だとかそういうものをとても大事にする。特別なことをするわけではないが、会う約束は随分前からしてあり、実はプレゼントも用意してある。
「あいつのああいうマメなとこ、見習っておいたら女と付き合った時に役立つぞ」
いつの間にか諒太郎の隣に来ていた千紘が俺に向かって軽く手を挙げながら諒太郎を苛めている。女の子と付き合う未来なんて千紘の口から語ってもらいたくないだろうに。かわいそうにと思いながらも俺の心はもう久間にまっしぐらで、ご機嫌で手を振りつつ店をあとにした。
そんなときだった、ポケットの中で携帯電話が震えて着信を知らせる。
「もしもし、クマくん?あれ?もう仕事終わったの?俺、今店出たとこだよ」
駅へと向かう道を歩きながら、電話から聞こえる愛しい声に耳を傾けた。
今日は俺の上がりの方が少し早いから、俺が久間の働くスポーツジムまで迎えにいくという予定だったはずだ。
「いや、ごめん、実は遅番のやつがひとり病欠で、ラストまでいなきゃいけなくなった」
見た目通りの太い低音は、仕事中にどこかでこっそり電話をかけているらしく、随分遠慮がちにひそめられている。
「遅くなっちゃうから今日の約束はまた明日にでもしないか?」
淡々と事実を告げているようでいて、実は笑ってしまうほどしょげていることが声色からわかる。本当は明日でもいいなんて思っていないくせに、それでも俺に気を遣ってやせ我慢をしているのだ。不器用に強がるクマさんの姿を想像すればたまらなく愛しくて、すぐにでも会いに飛んでいきたくなる。
「遅いってもあと2時間かそこらでしょ?俺待ってるからいいよ」
「でも…」
「今日のデートは、今日でなきゃ意味がないでしょ」
そう思っているのは俺だって同じ。久間が大事に思うものは俺にも大事なのだ。
「…だったら中に入って待ってて」
しばらくの沈黙の後、久間は言った。仕事場に俺が行くことを良しとしない久間だったが、さすがに寒くて暗い中、外で長時間待たせるのは悪いと思ったのだろう。俺はどこか店にでも入って時間をつぶしていこうと思っていたのだが、思わぬお許しが出たことに驚く。
「入って右手の階段を上ったら見学スペースあるから、俺が迎えにいくまでそこにいて。掃除とか始まっても気にしなくていいから。ちゃんと言っとく」
「わかった。慌てなくていいからね」
「うん。じゃああとで」
通話の切れた電話を握りしめて、俺はこみ上げる嬉しさを噛み締める。と同時に激しく緊張する。3年付き合っているが、仕事中の久間を見るのは初めてのことだ。晋平に見られると恥ずかしいから、とシャイな彼はいつもそう言うのだ。それがなければ今頃晋平はあのスポーツジムの会員になって足しげく通っていることだろう。華奢な訳ではないが細身の俺が3年も通っていれば今頃すっかり細マッチョな肉体に仕上がっているに違いない。別にそうなりたいと思っているわけではないが、年相応に腹回りを気にすることはなかったかもしれない。
そんなわけのわからないことを考えて笑っている俺は、実は結構動揺しているのかもしれない。そしてきっと俺以上に久間の方が今頃焦っているに違いない。
久間に言われた通り、入り口を入って右手にある階段を上る。受付にいたスタッフに声をかけるべきか悩んだが、久間の話がどこまで通っているか分からないのでやめた。ただ家族の迎えにでもきたみたいなふりで何気なく見学スペースへ入っていく。
部屋の中には数人のお母さんたちがいておしゃべりを繰り広げていたが、子供のスクールは既に終了したあとのようで、既に帰り支度だった。端っこの席にこそっと腰を下ろした俺は、途中で購入してきた本を広げる。広げた所で頭には何も入ってこないが、あまりきょろきょろするのもどうかと思ったのでカモフラージュだ。本当はガラスにへばりついてでも久間の姿を探して穴があくほど見つめたいのだが、自重しているのだ。
奥様連中はほどなくして帰っていき、部屋の中が俺ひとりになると、本を置いて立ち上がり、周りを見やる。
ガラスの向こう、階下にはプールがあり、泳いでいる人、歩いている人が何人かいる。スタッフの姿もあるが久間ではない。水泳は専門外だから担当しないと以前に言っていた気がする。
別方向を見ると同じフロアにおそらくエアロビクスやダンス、体操などをするのだろう壁が鏡張りになった広い部屋があり、その向こうにベンチプレスやランニングマシーンといった器械が並んでいるのが見えた。手前の部屋は現在教室が開かれていないのか誰の姿もなく、マシーンの方はわりとにぎわっている。
「さて、クマくんはどこかな」
主な担当は子供の体操教室と空手教室だという話だが、教室の時間外には客相手から器具のメンテナンスまで様々なことをやるらしい。中に入ってしまっていたら仕事姿を拝むことは出来ないが、客相手をしているのならあの中にいるに違いないとガラスで仕切られた一番近い所に寄ってみる。少し距離があって見にくい上に、手前の部屋が邪魔をして見えない部分もたくさんある。が、見えている部分をすっと横切った久間が一目で分かった。仕事柄体格のいいスタッフも多いが、その中でも久間は一際大きく見間違いようがない。
俺の視線の先で久間は、ランニングマシーンで走っている女性に声をかけられて何やらアドバイスをしているようだった。
(営業スマイルとか、できるんだ)
フレンドリーとまではいかないけれど、笑顔を見せて女性と会話をしているのが見える。普段、不器用な久間はぶっきらぼうだし、表情だって俺だからわかる程度にしか変わらないのに、仕事ではあんな顔をするのだ。もうこの仕事に就いて長いし、客商売なのだから当たり前のことかもしれないが、なんだか少しショックに感じるのはなぜだろうか。俺といるときの方が素なのだということはわかる。けれど、愛想笑いとは言え俺ではない誰かに貴重な久間の笑顔をあげたくはない。見た目の厳つさとのギャップが可愛らしいあの笑顔は、俺だけの秘密にしておきたいのに。
(意外と人気あるのかも…)
その女性以外にもあちこちから声をかけられているみたいに見えた。その多くが女性であることに軽く苛立ちを覚える。こういう所にくる人だから久間みたいにがたいのいい男性が好みなのかもしれない。
胃の上の方がカッと熱くなる感覚がして、自分の嫉妬心に気付く。
(やば、俺結構狭量かも)
感情的になる自分をもう一人の自分が俯瞰して眺める。だいたいいつもこんな感じで、瞬間的に感情を表に出すことをしないタイプなので穏やかで心の広い人間に見られがちであるが、決してそういう感情がないわけではない。腹の中では怒りもするし焦りもするし泣きもする。ただそんな自分が嫌で理性の方が勝るだけだ。
嫌な気持ちがわき出せば抑えるのも大変だ。おとなしく本でも読んでいようかと視線を外そうとしたその時だった。久間がふとこちらを向き、そして照れたように少し微笑んだ。周りに気付かれぬようほんの一瞬であるが、俺にだけわかるアイコンタクト。
(ああ、かわいい)
待っててね、でも恥ずかしいからあんまり見ないでね、とそう言われているように見えた。
こんな些細なことでくすぶっていた心はすっと幸せに溶けていくから不思議だ。
俺は最初に座った端っこの椅子に戻り、腰を下ろした。この位置からでも時折視界に人影が映る。これぐらいでも十分だ。人影が久間であれば俺にはわかる。余計なものは見なくてもいい。
ぼんやりと眺めながら、用意したプレゼントをどうやって渡そうかと考える。どんなシチュエーションで渡せば一番久間が喜んでくれるか、脳内であれこれとシミュレーションを繰り広げた。
用意したのは指輪。別にそんなたいした代物ではない普通のファッションリングだ。けれどこういう印のようなものを久間はわりと喜ぶのを知っていた。
(渡せるだけでいいと思ってたけど、ちゃんと付けさせようかな)
この人は俺のものだという印を24時間付けておきたい気分になったのは先程沸き上がった嫉妬心からだ。俺のクマくんに話しかけんなと主張するのに指輪というのはいいアイテムだ。あの中に久間を狙っている女性がいたとして、久間の薬指に指輪がはまっていたらどう思うだろうか。
(うわ、俺超女々しい)
そういう男ではないと思っていたのだが、恋というのはいろんな感情を暴いていくものらしい。
(ああ、早く仕事終わんないかな)
久間が隣にいればとろけるような優しい感情ばかりが沸き上がる。久間が何をしたって俺の中には愛しさがこみ上げる。早くその体温を感じたい。
久間を待っておよそ二時間、既に照明も半分落とされた状態で、モップ片手に掃除にきた久間と同じ年頃の男性スタッフに会釈だけの挨拶を交わした。どんな話で通っているのか知らないが、時折ちらりちらりと視線を向けられているのを気配で感じた。邪魔にならないようおとなしくしていると、やがてものすごく慌てた足音が近づいてきて久間が顔を覗かせた。
「ごめん、待たせたね」
申し訳なさそうに眉を下げる久間に笑顔を返して立ち上がる。
「まだ掃除してるけどいいの?」
「平気。俺の仕事はちゃんとしてきたから」
掃除をしていた彼とは仲が良いらしく、久間は気さくに挨拶を交わして俺の背中を押す。
肩を並べて階段を下りながら、なんとなく久間の顔を覗き見ると、真っ赤な耳をして幸せをかみしめるみたいに笑んでいた。
「クマくん…?」
「なんていうか、こう、自分のフィールドに晋がいるのが新鮮というか…初めて自分の友達に晋を見せたのがくすぐったくて」
「ええと、彼には何て?」
「もちろん、俺の恋人だと」
「ええっ!?」
先程突き刺さっていた視線の意味はこれだったのかと思い当たる。友人から恋人だと紹介された相手が俺ではそれはびっくりするだろう。マジマジと観察したくもなるだろう。なんだか申し訳ない気持ちになる。だけどそんなふうに堂々と恋人だと紹介してくれたのが嬉しくてたまらない。俺と付き合う前はノーマルだったという久間は、きっと元々ゲイの俺以上にカミングアウトに勇気がいると思うのだ。
「まずかった?」
「ううん、嬉しいよ」
微笑みかけると久間はほっと胸を撫で下ろす。俺にも友達にもどう思われるのか不安だったんだろう。大きな体をして繊細に気を遣うから。
自動ドアを出ると冷たい冬の夜風が吹き付け、俺は身を震わす。
「で、今日はどうする?」
「とりあえず飯食いにいこう。車あっちに停めてある」
ジムから漏れる光がまだ少し届いていたけれど、久間は俺の手を握り、車へと誘う。久間の大きな手は寒空の下でもぽっかぽかに暖かかった。
「あ、でも、言ったのはさっきのやつだけだから」
車に乗り込みエンジンをかけながら久間は先程の話を続ける。何か気になっていたらしい。別に俺は困った顔などをしたつもりはなかったんだけど、勝手に話してしまったことを気にしているのだろうか。
「あいつには、その、なんていうか、前々から話はしてたから、晋のこと」
まだ冷たいままのエアコンの風が俺に当たらないよう、久間は手を伸ばして風向きを調整してくれる。
「仲良しなんだね」
「あいつとは学生のときからの付き合いだから。嫉妬した?」
至近距離で不意に囁くように言うから心臓が跳ねる。久間はすぐに「なんてね」と笑って冗談にしたけれど。
「したよ。いっぱいした。ジムでクマくんに笑いかけられてる女の人とか、心の中でどれだけ毒づいたことか」
「晋…」
本音を漏らせば久間は驚いた顔をする。そんなに驚かれるとは不本意だ。あんなに好きだ愛してるといつも言っているのに。
「クマくんがちーさんに嫉妬する気持ちがわかった気がする。職場っていう自分が入り込めない部分で近くにいる人が羨ましいっていうか悔しいっていうかさ。クマくんは俺のものなのにって思ったね。だからっていうわけじゃなくてこれはたまたまなんだけど…」
俺は用意したプレゼントの小箱を久間に渡した。
「3年記念日のプレゼント。開けてみて」
「…これ…」
久間が開けた包みの中から俺はその指輪を手にとると、久間の手を取り左手薬指にはめてやる。
「別に俺の印をつけたいとかそういう気持ちで買ったわけじゃなかったんだけど、仕事してるクマくん見てたら主張したくなったんだ。仕事中もしててくれたら嬉しい。あ、もちろん、空手の時とかはあぶないから外していいけどね」
「ありがとう。嬉しい。でも、俺、そんなつけたり外したりしてたら絶対なくす気がするんだけど、首からぶら下げるとかじゃダメ?」
自分のずさんな性格をわかっている久間は不安そうな顔をする。確かに、久間のあの散らかった部屋を見ればなんとなくそういう結果になるんだろうなという想像はつく。だからといって大事にしまっておいては意味がないのだ。大事にして欲しいのではなく、使って欲しくてプレゼントするのだ。
「ダメだよ、それじゃ俺の主張があの人たちに伝わらないじゃない。なくしてもいいよ、なくしたらまた新しいのを買うから。そんな高価なわけでもないし」
「でも、そんなの申し訳な…」
「これは俺のワガママだから、申し訳ないとかクマくんが思わなくていいの。…嫌?恋人いるんですかとか突っ込まれたら困る?」
「困らないよ。ずるいな、晋は。わかった、はめてて大丈夫なときはずっとはめてる」
久間は真面目な顔で、誓いでもたてるみたいに自分の薬指に口づけた。それから同じように俺の唇にもキスをした。
「俺も今度晋に指輪買う。そしたら仕事中も付けてくれる?」
キスをするため屈めた体で下から覗き込むように可愛らしくおねだりされ、ハートを鷲掴みされたけれど、俺は逃げるように視線を宙に漂わせる。
「あー、と、それは、どうかな。ちーさんに聞いてみないと」
「えー、ずるい。俺だって千紘さんだけじゃなく晋目当ての女の子たちにすっごい嫉妬するんだけど」
「だってほら、俺の外見含めてちーさんの商売道具なんだよ。まあ、多分、若い子二人いるから大人の魅力担当の俺は指輪しててもそれはそれで魅力のひとつとして受け入れられるんじゃないかなあと思うんだよね。ちーさんにそう打診してみるから待ってて」
「ぜひ上手に丸め込んで下さい」
なぜか急に敬語になる久間の真剣な表情がおかしくて、笑う。
俺のあげた指輪が薬指に光る久間の大きな左手を取り自分の指と絡めた。
「クマくんの指に指輪ってなんか新鮮だね」
アクセサリーなんて普段付けたこともない久間は、指の間が変な感じだと苦笑する。
「すぐに慣れるよ。指が俺の印の形になるんだ」
「それは楽しみだ」
絡めとった左手の甲に唇を押し当てる。
「ごはん食べたら、俺ん家来る?」
「明日も仕事でしょ?大丈夫?」
「平気だよ。せっかく記念日なんだから、クマくんと一緒にいたい」
「じゃあさっさと食って行く」
「おしゃれなレストランでゆっくり食事とかしなくていいの?」
「いいよ、どうせこんな時間、おしゃれなレストランはもう閉店してる。晋がいればそれでいい」
言いながらも少し残念気な乙女なクマさんを心から愛しいと思う。
俺の薬指にも久間の印が付くといい。
指輪が千紘に却下されたら久間に噛み痕でも付けてもらおうか。
いつの間にか久間の乙女チックな思考が俺にも移ってきているのかもしれない。
運転を始めた久間の横顔をちらりと盗み見て、こっそりと笑った。
<終>
いっしょにいこう 月之 雫 @tsukinosizuku
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