第7話 硝子の砂糖漬け
小瓶とひとつになったわたしの姿を見た旦那さまは、予想していたよりは驚いていたようだった。
小瓶の中に身体をおさめて現れたわたしに、はおかしなものを見たように眉根を寄せた。
「いったいどうしたんだね、そんな恰好をして」
けれどわたしの腕と脚は小瓶に呑まれることなく無事であることを確認した途端、旦那さまの表情は見るからに和らいだ。まだ化粧が馴染んでいない少女の頬や、着せ替え人形に似た細く頼りない肩などには、何の愛着もないのだろう。そういう、わかりやすいひとだった。とうの昔に気がついていたことだったので、再確認したところで、ああやっぱり、と思っただけだった。
「ねえ、パパ。わたしのお母さまって、どんな方だったの」
わたしは右腕を旦那さまに確かめられながら、尋ねた。既に旦那さまは、小瓶には目もくれていない。
「珍しいじゃないか、母親のことを知りたがるなんて」
「だってわたし、明日で十六になるのよ」
旦那さまの口元が微かにほころんだように、わたしには見えた。
「おまえによく似ていたよ」
「どんなところが」
右手の人差し指から、わたしの細く浮き出る血管に沿わせるように、無骨な指がなぞってゆく。それがきちんとそこに存在することを確かめるように。自分の手の届く場所にあることを、確認するように。
「目、口、背格好、それに声も。いよいよ母親そっくりだ。嬉しいよ」
「お母さまの腕と脚も、わたしのように痩せていたの」
左腕の付け根に触れた旦那さまの手が、小瓶に当たってカチリと無機質な音をたてた。
「ああ、そうだったかもしれない」
「お母さまにも、こんなふうに触れたの――いいえ」
右の内腿から膝の裏、踵に吸い込まれるように手のひらがすべり落ちてゆく。短く整えられた小さな爪が、親指から順になぞられる。奥歯を噛みしめながら、わたしにかしずくような姿勢で脚に触れている男の頭を見下ろした。わたしよりもずっと大きいはずのそのひとが、とてもちいさく見えた。ごくちいさな声で、何かを呟いているようだった。それは母の名前のようにも聞こえたし、祈りの言葉のようにも聞こえた。
「触れられていたのなら、こんなふうにはなっていなかったのでしょうね」
*
いつものように廊下で待っていたトウコさんと一緒に部屋へ戻った。小瓶は書斎から出る前に脱いで、寝間着の袂に忍ばせておいた。わたしが小瓶から出て見せたときも、旦那さまはそれについて何の興味も示さなかった。
この夜がいつもと違ったのは、普段は戸の前まで来たら下がってしまうトウコさんが部屋の中までついてきたことだ。布団の敷かれた状態の部屋にトウコさんがいるのは、どこか不思議な感じがした。わたしは意味もなく、その場でくるりと身体を回転させた。寝間着の裾が、ふわりと踊る。
「お願いしたものは、持ってきてくれたかしら」
わたしは袂から出して後ろ手に持った小瓶を、指先で密かにもてあそびながら尋ねた。
「ええ、ご用意してあります。けれど」
「あのね、わたし、トウコさんに見てほしいものがあるの」
言いかけた言葉を牽制するように、わたしはトウコさんをその場に座らせた。わたしはあえてトウコさんの視界に入る場所に小瓶を置き、それから寝間着をほどいた。ぱさりと乾いた音をたてて足元に丸まった布地は、もう必要のないものだ。
再び手にとった小瓶に、そっと口づけを落とすようにして、わたしはその中に入ってゆく。髪が、顔が、首筋が、肩が、鎖骨が、焦らすようにゆっくりと、すこしずつ小瓶に受け入れられてゆく。ひんやりと冷たい塊に自分がなってゆくような感覚の中、わたしの微かな吐息だけが、唯一熱を持っているように感じられた。閉じていた目をうっすら開けると、両手で口を覆いながらこちらを見ているトウコさんと目があった。泣きそうな顔をしている、と思った瞬間に、わたしの目から一粒涙がこぼれ落ちた。そういえばトウコさんが泣いているところを、わたしは見たことがなかったのだと気がついた。わたしは再び目を閉じ、小瓶と一体となってゆく感覚に集中した。誰かに見られながら小瓶と交じり合うのは、はじめてのことだった。それがトウコさんでよかったと、硝子の表面を撫でながら思った。
腕と脚を残して、身体をすっぽり小瓶の中に入れてしまうと、わたしは目を丸くしているショウコさんと改めて向き合った。トウコさんはわたしから目をそらさなかった。
「この中にね、あれを入れてもらいたいの」
「そんな、ショウコさま」
トウコさんの顔は見る間に青ざめ、幼い子がイヤイヤをするように首を横に振った。こんなにも余裕のないトウコさんを見るのははじめてだったので、わたしは不謹慎にも嬉しくなってしまう。
「トウコさんにしか、頼めないことよ」
「後生ですからそれは――」
「はやくして、もうあまり時間がないの」
わたしは壁に掛けられた時計を指さした。
「わたしが十五でいられるうちに」
トウコさんはしばらく躊躇っていた。それから意を決したように立ち上がると、部屋の隅に重ね置いてあった大きな袋の山からひとつを取り、袋を引きずるようにしてわたしの正面に来た。その袋はトウコさんの背丈の半分ほどの大きさがあり、中にはぎっしりと、奇跡のように真っ白な角砂糖が詰められていた。
わたしはその場に足を投げ出して、畳の上にぺたりと座った。トウコさんはわたしのすぐ横で膝立ちになると、わたしの頬のあたりの硝子に触れた。それは芸術品を扱うような旦那さまとは違い、慈愛に満ちた手つきだった。ショウコさま、とトウコさんは呟いた。
ぽかんと開いた小瓶の口から、トウコさんの手で角砂糖が落とされた。角砂糖が瓶の底に当たるたびに、可愛らしく軽快な音が鳴った。
ひとつ、またひとつ。
小瓶の中が、すこしずつお砂糖で満たされてゆく。わたしの身体が、すこしずつお砂糖に近くなってゆく。
小瓶の中が半分ほどお砂糖で埋まったあたりで、ふつっと糸が切れるように、四本の肢体の感覚が静かに途絶えた。ああ、やっと切り離されるのだ。そう思って、わたしは安堵した。旦那さまが愛したわたしの肢体。旦那さまが愛した、母の面影。それは十六という呪われた年齢を迎える前に、わたしから完璧に離されたのだ。
「わたしの腕と脚はリボンで束ねて、明日旦那さまに差し上げてね」
リボンは桃色がいい。わたしからの最初で最後の意地悪なプレゼント、喜んでくれるだろうか。ささやかなわたしの抵抗を、成長の証と受け取ってくれるだろうか。血のつながりのない少女に、自らを「パパ」と呼ばせていたそのひとは。
わたしの視界が白になり、だんだんと、頭の中までもが白で満たされてゆく。このままわたしのすべてはお砂糖で埋め尽くされ、わたしという名の一粒の砂糖漬けができるだろう。余計な肢体を排した純粋な「わたし」が、小瓶の中にできあがる。それこそが、本当の「わたし」の誕生であるような気がした。母の代用品ではないわたし。ただひとりの手によって白く染められたわたし。
「トウコさん、わたしをあなたの、明日のおめざめにしてね」
トウコさんの声は、もう聞こえなくなっていた。
白くなりゆく世界の中で、わたしはあのとき口にした一粒の金平糖のことを思い出していた。あの宝石のような金平糖は、母の砂糖漬けだったのではなかったのだろうかと、ふと思った。
舌の上に乗せた、ほの甘いちいさな粒。幼いわたしの中に芽を出した、痺れるような懐かしさと、ほんのすこしのうしろめたさ。母の面影は、間違いなくわたしの中にあった。そしてそれは、もうすぐわたしと完全に溶け合って、新しい一粒の結晶になる。いちばんわたしを愛し、そしていちばんわたしが愛したひとの中で、これからの時間を生き続ける。
わたしは自分が甘い塊になってゆくのを感じながら、静かに目を閉じた。
トウコさんのあたたかな口の中に入れられるところを、想像する。
甘やかに溶けてゆく自分を、その温度を、想像する。
<了>
硝子の砂糖漬け 笹百合ねね @sasayulily
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