スポーツをしていない僕のオリンピック
夏木
2020夏、意識改革
前回の東京オリンピックから半世紀たった2020年。
日本は、世界は四年に一度のスポーツの祭典で歓喜していた。
世界各国の有名選手が日本に集まり、その技術を、力を、仲間との絆を競い合う。
選手だけではなく、試合を見るために国籍年齢問わず、多くの人が日本へやってくる。
言葉が通じなくても、同じルールに従って行われる。だから、見ている人も盛り上がるのだ。
活躍するのは選手たち。
だが、オリンピックには他にも活躍している人たちがいる。決してテレビに出るわけでもない。しかし、オリンピックを開催するためには必要な人たち。
彼――
☆
湿度が上がり、じめじめとした空気が肌にまとわりつく。せっかくセットした髪が乱れ、強い日差しのせいもあって、体中から汗が噴き出てくる。持ってきたタオルで汗を拭いても、すぐにまた汗が出てきて止まらない。面倒になった鳥谷は、我慢して歩くしかなかった。
駅から歩くことたった十分。そこにあるのが鳥谷の職場である「チューリップ薬局」だ。薬局の隣には個人医院があり、いわゆる門前薬局である。
そんな薬局の裏口から入ると、ひんやりとした空気が鳥谷の体を包んだ。
「おはよう、鳥谷くん。明日からオリンピックじゃなかった?」
スタッフルーム兼休憩室となっている部屋。開局時間まで一時間近くある。今日の朝番は、鳥谷に話しかけた高齢の上司と鳥谷の二人だった。
すでに上司は白衣に腕を通している。
「おはようございます。明日からですよ。緊張するなあ……」
「ははは。肩の力を抜いて、頑張ってきてね」
「ありがとうございます」
上司が休憩室の小さなテレビをつけた。すると、今までのオリンピックの試合結果を伝えていた。すでに開催中の東京オリンピック。連日テレビでは生中継で試合を伝えている。
鳥谷は明日から、このオリンピックの会場へ向かう。もちろん選手として、ではない。鳥谷が持っている資格――薬剤師としてオリンピックを支えるのだ。
薬剤師として働き始めて十年。調剤はもちろんのこと、薬局でありながらも点滴の調製も行ってきた。子供から高齢者まで、幅広い年齢の患者へ服薬指導を行い、コミュニケーション力は十分あると自負している。また、薬剤師資格取得後も自己研鑽を続け、「スポーツファーマシスト(アンチ・ドーピング規則に関する知識を有する薬剤師)」としての資格を取得した。加えて、もともと海外旅行が好きだったので、英語を話すことができる。なので、上司の推薦もあり、東京オリンピックで、薬剤師としてボランティア活動をすることにしたのだった。
活動日はトータル六日間。二日間活動し、二日間休み。それを三回繰り返す予定だ。その間、薬局での仕事は休むことになるが、個人薬局なので融通がきいた。
あくまでもボランティア。賃金が発生するわけではない。それでも薬剤師は薬を扱う。ときにそれは命をも脅かすものである。手を抜くことは許されない。責任を持って行わなければならない仕事だ。それを慣れない環境で行うので、不安感があった。
「大丈夫。鳥谷くんなら、しっかりやれるさ。オリンピックに関われるなんて滅多にあることじゃないんだから、よく学んできなさいね」
目じりに皺を作り、ほほ笑む優しい上司。毎度この上司の言葉に背中を押され、ここまで働いてきた。
どの場所でも仕事はいつも通りの内容である。わからなければ周りに訊けばいい。他の薬剤師とのコミュニケーションは問題ないはず。
「はい」
鳥谷は不安を隠しきれない声で返事をすると、仕事へ取り掛かった。
翌日。
鳥谷は朝早い電車に乗り、指定された場所へとやってきた。そこは選手村の診療所として使われている場所。その入り口に立っている人が一人。スタッフと書かれた腕章をつけているので、場所は間違っていないのだと確信した。
「あ。もしかして、薬剤師の鳥谷さんですか?」
「はい、そうです」
「本日からよろしくおねがいします。こちらへどうぞ」
ぺこりと頭を下げ、スタッフの指示に従う。荷物をしまい、渡されたユニフォームを着た。そして調剤室へと案内された。するとすぐにスタッフは去ってしまう。どうやら、案内のみを行う人のようだった。
「あれ? 今日から来る人? どうもー、よろしくお願いしますって前にも会ってるけど」
さほど年齢が変わらなそうな男性に挨拶された。名前は憶えていなかったが、顔を合わせた事がある。なぜなら、ボランティア薬剤師として活動する前、2019年中に行った事前研修で会っていた。
「鳥谷隼人です。よろしくお願いします」
「俺、
明るい性格のようで、白鳥はニコニコとしたままだった。雰囲気のよさそうな場所でよかった、そう思った瞬間だった。
スタッフと顔合わせを済ませ、仕事の流れを教えてもらう。基本的にはいつも行う調剤と変わりはない。いつもと違って注意しなければならないのは、処方された薬剤がドーピングに引っかからないかどうかである。普段よく見かけるような薬であっても、ドーピングとされるものもある。また、市販されている薬、一般薬でも注意しなければならない。
「☆×△○★※」
薬を受け渡すカウンターに、一人の男性がやってきた。目、髪、肌の色、顔の形から判断するに、アジア系ではないことがすぐわかった。言葉もよく聞き取れなかったので、英語圏でもなさそうである。言葉が通じないとなると、どうやってコミュニケーションをとればいいかわからない。自信があったはずの鳥谷の足は動かなかった。
代わりにその男性に真っ先に動いたのは、白鳥だった。
深刻そうな表情を浮かべる男性の言葉に耳を傾け、深くうなずいている。
そして身振り手振りで何かを伝えると、男性はすっきりと納得した顔で出て行った。それを見送った白鳥は、何食わぬ顔で調剤室へと戻ってくる。
「あの、今の人って……?」
「ああ。コロナが心配なんだけど、どうしたらいいかって話だった」
2020年に入ってから、日本でもコロナによる感染が広まり、様々なイベントの開催を断念せざるを得ない状況にまで陥った。そこから治療薬やワクチンの開発を急ぎ、感染拡大を防ぐことができた。なので、今回の東京オリンピックを開催することができた。しかしそれでも、やはり日本へ行くことが不安な人が多かった。「症状があらわれなくても、感染している可能性がある」、「感染者数何人、死亡者何人」と連日報道され、人々の不安をあおっていた。
日本は医療崩壊こそ免れてはいるが、この状況でスポーツなんてやっていいのか不安になるのもうなずける。
だが、鳥谷には一つ、疑問が残った。
英語ならば理解できる鳥谷でも、先ほどの人の言語は理解できなかった。それどころかどこの国なのかすらわからない。そんな人とどうやって意思疎通できたのか謎だった。
「言葉? そんなのよくわかってないよ」
白鳥から出たのは驚きの言葉だった。
「え、じゃあどうしてコロナだってわかったんですか? それに相手にも言葉が通じなかったんじゃ?」
鳥谷の謎は深まるばかりである。鳥谷は直観で動くのではなく、頭で考えてから行動するタイプ。なので、まずは相手の言葉を理解しないことにはコミュニケーションすら難しいと思っていた。
「どうしてって……そりゃかろうじてわかった言葉から? ちらほら、コロナって言ってたし。それに入り口に置いてある消毒液も使ってた。日本語はほとんどわかんないみたいだったけど、英語なら少しわかるって言うから、英語で、過剰に心配しなくていいから手洗いうがいしろって言った」
ほんの数分間のやり取り。それだけなのに、相手の言いたい事を理解し、どうしたらいいのかを伝える。しかも、互いに母国語ではない言語で。
「柔軟に行きなよ、鳥谷くん」
訳が分からないと言ったような顔をしていた鳥谷に、屈託のない顔で笑って見せた白鳥。
言語の壁を越えたやり取りと目撃した鳥谷は、この時をもって考え方がかわった。
☆
「どうだった? オリンピックは」
六日間のボランティアを終え、いつもの薬局勤務に戻った鳥谷。さっそく上司が感想を求めた。
「もう……すごかったです。初めて生で選手を見ましたよ」
「おお。それはいいね。何か学べたかい?」
上司はいいところをついてくる。鳥谷はやってきた仕事内容を思い出す。
調剤業務に、処方箋や調剤後の監査、そして服薬指導に加えて相談受付。どれも様々な人と関わったが、一番記憶に残ったのはやはり、白鳥の対応だった。
「こう、今まで自分は相手の言葉を全部理解しないといけないって思ってたんです。でも、違った。言葉の壁があっても言いたい事は伝わるし、伝えられる。薬剤師って、医者に言うほどではない相談を解決できるような仕事で、どの国の人にも信頼されてるんだなって改めて思いましたよ」
すらすらと出てくる言葉に、鳥谷自身もこんなに白鳥の影響を受けていたのかと驚いていた。
「そうか。いいことを学んだみたいだね。よかった」
変わらない笑顔を見せる上司。
「その経験は、これからも薬剤師として働くときにどこかで役に立つはずだよ。僕たちはあまり話題にならない職種だけど、医師よりも近くでみんなの生活を支える仕事だ。病気の人だけでなく、健康の人も、ね。オリンピックはそれを身をもって感じさせる場所になったんだね」
「……はい!」
鳥谷は上司の言葉に胸を打たれ、大きな声で答えた。
決してメディアで、鳥谷のように働いたスタッフが取り上げられることはない。だけど、オリンピックの裏側で働く人たちは確かに存在する。薬剤師はその中の一つの職種でしかない。
オリンピックのメインは、選手。だが、その人達を輝かせるために、裏でオリンピックを支える人達の存在を忘れてはならない。
スポーツをしていない僕のオリンピック 夏木 @0_AR
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