秘密

紫月音湖*竜騎士さま~コミカライズ配信中

秘密

 あの方は、いつも南向きの窓際に座っておりました。

 大きなお屋敷の二階。白いカーテンの揺れる窓辺には、透明な一輪挿しに飾られた淡い桃色の花が置いて御座いました。その美しい花を華奢な指先で愛でるお姿を、今でも鮮明に思い出すので御座います。




「藤宮のお坊ちゃん、ご病気なんだってね」


 町の人が噂しているのを耳にしたのは、夏も終わりに近付いたある日の事でした。

 いつも通る道に聳える、立派なお屋敷。その大きなお城にも似た家に住むのは、とても名のある一族なのだと聞かされておりました。私たち庶民が口を利くことも出来ない、由緒ある名家の末裔。ですから私は、窓際に佇むあの方のお姿を、いつも忍ぶように見つめておりました。

 女の私が羨むほどの白い肌に、濡れ色の美しい髪がとても印象的で、初めて目にした時は思わず人形のようだと驚き、そして感動したものです。こんなにも美しい人がいるなんて。

 町の人が噂するように、その美しさは病の色を多少なりとも帯びていたからこそ、より人の目を引く儚げな光として私の目に映ったのかもしれません。

 透き通るような肌。細く華奢な指先。触れれば折れてしまいそうなほどか弱げな身体。いっそのこと、私の有り余る元気を分けてあげたい。身のほど知らずにも、私はそう思わずにはいられませんでした。


 思えばそれが、私の淡い初恋だったのかもしれません。




 夏が過ぎ、寂しさを孕んだ秋が終わる頃。あの方のご兄弟を拝見致しました。あの方にとてもよく似ていて、それは目を奪われるほど美しいお姿をしておいででした。けれど、儚い微笑みに似た表情を浮かべるあの方と違って、弟さまは自信満ち溢れる活発な表情が印象的でした。

 町の人が噂するような恐ろしい方には見えませんでしたが、私はどちらかと言うとやっぱり窓際の、まだ一度も目を合わせた事のないあの方の方が心落ち着きました。


「何でもね、財産目当てで殺人を企ててるって話だよ」


 弟さまは、そんな事をするような人には見えませんでした。時々私の見上げる窓際で、あの方と楽しそうにお喋りしておいででしたし、それにあの方もとても優しい微笑みを弟さまに向けておいででした。私が羨むほど、そして事もあろうか弟さまに嫉妬までしてしまうほどの優しい微笑みでした。


 嗚呼、矢張り私はあの方が好きで好きで堪らないのです。

 未だ言葉はおろか視線すら交わす事の出来ない状況にありながら、私は自分が醜い嫉妬の鬼になってしまうほどあの方をお慕いしているので御座います。

 この気持ちに気付いた夜は、何故かひたすらに泣きながら謝っておりました。誰にと言う訳でもなく、ただ己の思いの浅ましさに、そして誰に教わるでもなく、それが叶わぬ思いだと言う事が分かっていたからだったのでしょう。


 一言でもいい。一瞬でもいい。言葉を交わし、目を合わせる事が出来たのなら。

 そんなおこがましい願いを抱き、いつものように南向きの窓辺を見上げた冬の始まり。


 奇跡が起こったのです。


「いつもこの道を通るんだね」


 それは想像していた通り、水面に響く美しい音色のように澄んだ声音で御座いました。突然の奇跡に私の胸は震え、喜びと驚きと、そして少しばかりの不安が風のように通り過ぎてゆきました。

 儚げな微笑はそのまま私に向けられ、優しく揺れる黒い瞳が私をじっと見つめているのです。夢のような現実に、指先までもがかたかたと震えていく私の身体。何に喜び、そして一体何に怯えていたのか。それを知るのは、「今」ではありませんでした。


「君に、お願いがあるんだ」


 そう乞うた声音は、何故だかひどく切なげで……そのまま消えてしまうのではないかと錯覚すら覚えました。




 冬の、冷たい木枯らしが私に届けてくれたのは、憧れお慕いしたあの方からの手紙でした。








『君にだから、お願いしたいと思う僕を、どうかどうか許して欲しい』


 手紙のはじめに、あの方の謝罪の言葉が綴られておりました。

 あの方は知っていたので御座いましょう。私が狂おしくお慕いしていると言う事を。だからこそ、これから綴られる『事実』を告げて下さったのです。他の誰でもない、あの方をお慕いしている私に。

 なぜなら、私は誓えるからで御座います。この手紙に綴られた事実を、あの方が今まで誰にも言う事が出来なかった辛い秘密を、誰にも口外しないと言う事を。

 此れは、あの方と私の、二人だけの秘密なので御座います。


 嗚呼、けれど。

 けれども、どうしてあの方がこんなにも苦しまなければならなかったので御座いましょう。あの方とて、望んで生まれた訳ではなかった。望んで「名家の長男」を演じた訳ではなかった。

 そうしなければならなかっただけで御座います。そうしなければ、自分の生きる意味を失ってしまうから。例え自分が「藤宮」の血を引いていなくても、周りがそれを知らずあの方を愛し育てたのだとしたら、あの方は彼らの前で「名家の長男」を演じ続けねばならなかった。彼らを裏切る事など出来なかった。

 赤子の時に自分をすりかえた母親を憎む事もあったでしょう。事実を知り、己の運命を激しく呪いもしたでしょう。けれどあの方は、逃げる事だけはしなかった。逃げずに、現実を受け止め、ただ淡い幻想をあの南向きの窓から遠い空へ馳せていただけで御座います。

 それが偽りの家族への罪の償いなのか、それとも芽生えてしまった家族愛なのか、真実はあの方以外には分かりません。


『一人では支えられなくなった事実を、こうして秘密として君に知らせる事はとても心苦しい。けれど、最期に誰かに聞いて欲しかった。僕の生き様を。僕と言う一個人が、此処にこうして存在していたのだと言う事を。その聞き手に君を選んでしまった事は、本当に申し訳ないと思っている』


 私には、聞くしか出来ませんでした。けれどもそれで、あの方が今まで背負ってきた苦しみを少しでも和らげられるのなら、私は喜んであの方の秘密を共有していきたいと願うのです。


 そこにはもう、淡い恋に浮かれ涙する十代の少女はおりませんでした。







「怖いねぇ」


 降り積もった雪が溶けきる前に、あの方は南向きの窓から空へと飛び立ってしまいました。

 突然の出来事。けれど、私は心のどこかで予想していたのかもしれません。手紙を受け取ったあの日から、ずっとこうなるような気がして怖かったのです。あの時訳もなく身体が震えたのは、こう言う事だったのかもしれません。


「財産目当てで、実の兄を殺すなんて……。坊ちゃん、可哀相にねぇ」


「死因は毒殺だって話だよ。何でも微量の毒を少しずつ飲ませてたらしいって」


 あの方は、もうずっと前からこうなる事を予感していたのでしょう。迫り来る死を前にして、胸に秘めたままだった事実を秘密として私に教えて下さった。そうして、あの方は死ぬ間際にも秘密を漏らさずに逝ってしまったのでしょう。

 事実を話していれば、死ぬ事もなかった。けれど、そうする事を拒んだ。

 あの方は最期の最期まで、「藤宮の長男」であり続けた。それが、彼の命の意味だから。


 あの方がそれを望んだように、私もそれを演じ続けましょう。あの方の死を悼み、面影を馳せながら涙を流す事でしょう。そして時折、誰もいない南向きの窓辺の下で、一人静かに瞳を閉じるのです。

 そこにはあの日、私に声をかけて下さったあの方がいる。変わらない儚げな微笑を浮かべて、遠い空の向こうを眺めている。その、夢見るような淡い瞳が、私を見る。

 夢と現実の繋がった一瞬に、私は精一杯の声であの方の名前を呼ぶのです。


 誰にも呼ばれる事のなかった、あの方の本当の名前を。




『君に、お願いがあるんだ』

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