I indulge in you.

一六八(いろは)

1-1

「あ」

痛みは、ずいぶん遅れてやってきた。僕は眼前の、理路整然とした写実的に描かれた美人画の描かれたキャンバスに鮮血の赤が飛び散ったのを視認した。僕の身の丈よりも大きなそれは、静画でありながら暴風にさらされた様に凶暴な美を湛えていて、それでいて純粋な光を秘めていた。僕の作品。妖艶かつ純粋で、完全かつ永遠に不完全。そんな、計算と偶然の狭間にいる僕の作品の均衡が、僕の血によって今、崩された。僕は、お腹の一番暗い所からとある感情が湧いてくるのを感じた。それは、暗闇という雪の中から萌え出でた若葉のように純白だった。

「あはははは!あははは、あーははは」

僕は自身の指先からどくどくと流れる血を手当てするのも構わず、狂った様に笑った。


「指切ったァ?」

都内一等地の、高層ビルの2月の夜景を見下ろす23階の窓際。会員制のBar「vision」で、僕は向かい側に座る専属キュレーター穂高まなみに詰問されていた。

「でもいいじゃん、結果的にあの作品は売れたし」

僕は悪びれずに、テーブル上のルシアンを口へ運ぶ。ルシアンの薄暗い赤は、あの瞬間目に焼きついた鮮血と似た色をしていた。

「問題はそういうことじゃないの。若手随一の売れっ子画家の、香川流星が今更、何でそんな子供みたいな失態するのって聞いてるのよ」

原因。僕はアトリエで受けた仕事をしていた。海外の美術館に出す大型の美人で、この年齢で海外から声をかけられるのは今の所僕くらいだと言っていい。だからこそ、綿密に脳内で計算と想像を繰り返して制作に挑んだ。あの赤が画面に飛び散ったのは、最後の仕上げとしてモデルの真っ黒な髪の毛に自然な風合いをつけるために、先の丸まった鉛筆を削ろうとカッターを手にしていた時に起こった。

「なんだろ、エクスタシーかな。ランナーズハイっていうかさ。なんていうか興奮してたんだよね。我も忘れるくらい」

気付いたら指から血が出てた訳、と笑うと穂高は呆れたのかため息をついて、脇に置いてあったカバンから煙草を出して火をつけた。

「理解不能だわ」

「そりゃ良かった」

穂高はいわゆる画商である。絵、立体、テキスタイル、日本画、洋画etc…ありとあらゆる「優秀なアーティスト」を見出して、世の中に、世界に通用する様にアシストするのが彼女の仕事だ。彼女も僕も「優秀」だ。ただ、一点違うとすれば「彼女は絵を描かない」し、「僕も売れる絵を描かない」事だった。「売れない絵」を売れるにはどうするか考えるのが穂高やキュレーターの仕事であって、アーティストたる香川流星はそんな事は気にしてはいけないのだ。

「で、あんたが無名の画家なら手当てしてあげる所だけど、あんたの手は」

「商売道具」

「そういう事ね。うちの紹介で医者に見せてもいいけど」

「ねぇ、僕の指が治るまで休み貰っていいかな。切り傷だしどうせ大した期間じゃないよ」

穂高は虚ろな目で、燻る煙草の煙を追っていた。彼女もまた、優秀なキュレーターである為、多忙な日々を送っている。それは巨大で果てのない才能を持つものにのみ与えられる苦痛と快楽であった。

「いいんじゃない。作品(ブツ)は出来てるんだし。会期までに会場に来てレセプションしてくれれば」

関係者への対応はこっちでする、という事なのだろう。僕は彼女の仕事上のドライな関係性が気に入っていた。僕たちを結ぶものはアートであり、それ以上でも以下でもない。

「穂高って変人だよね」

「あんたにだけは言われたくないわ」

そう言うと、二人で小さく笑った。


『じゃあ、一週間後にパリ行きの空港で。それまでの対応は全部こっちでするから』

深夜の都内から帰宅したのち、穂高から翌日送られてきたメールにはそう書かれていた。遮光カーテンで塞いだ窓からは明るい日差しが差し込んでいて、世界が僕を置いてけぼりにした事を感じた。薄暗い自室の、生暖かいベッドの中で僕はそれを確認した。寝起きの朦朧とした頭には、ディスプレイの場違いに明るすぎる人工灯が不快で、僕は寝癖だらけの頭をかきながらしぶしぶベッドを這い出た。部屋着のまま、のろのろとキッチンへ向かうと冷凍庫から冷凍食品を出して、レンジで温め始める。ブーンと音を立てて、冷凍食品がレンジの中で回り始める。その姿を僕はぼーっと眺めていた。

…何処に行こう。というより、行きたい場所が僕には無かった。俗世間では、忙しい労働生活の合間を縫って、非日常の海外旅行に夢を見たりするから、楽でいいだろう。こちとら、義務感と使命感と劣等感に挟まれながら、その「非日常」に向き合う日々なのだ。誰が、何処が僕の心を揺り動かしてくれるだろう。僕は芸術に傾倒し、その結果が形として現れる度に祝福される。と同時に、その責務を果たす様に呪われているのだ。

そんな日々を繰り返す間に、僕に親密な理解者は一人もいなくなっていた。僕はこの世の画家の誰よりも優秀な代わりに、一等孤独だった。


結局僕は、俗世間でいうところの人気観光地などには行く気にはなれず(大体、ファンに見つかると面倒だし)軽い変装を済ませて関東地方の郊外に向かう特急列車の切符を手にいれた。これに乗れば、北関東のどこかへ向かう事が出来る。僕はアプリで予約を済ませた特急券を自動券売機で発券すると、足早にホームへ向かう。大都会東京とはいえ、平日の何でもない昼過ぎということもあってか、北関東へ向かう人は少なかった。花火大会等、イベントのある時期は混み合うそうだが、冬に北関東へ向かう人は僕だけの様だ。ふう、と一息ついてホームの固いベンチに腰掛ける。発券する前に売店で買ったはちみつレモンが、僕の冷えた手のひらの中で、小動物のような優しいぬくもりを内包していた。


あれだけ暖かかったはちみつレモンも、2月の寒さに晒されてはぬるいジュースを化していく。もうすぐで全部飲みきるという所で、特急電車の到着を知らせるベルがホームに響いた。僕は飲みかけのはちみつレモンを、数枚の着替えだけが入った軽いリュックの中に放り込む。暗闇の中で黄色い液体が揺れる。僕はリュックのチャックをしっかりと閉めた。中には貴重品と、スケッチブックと筆箱しかない。

車内は暖房が効いていて、とても居心地のいい空間だった。何よりも北関東へ向かう人の少なさが、その静寂が、僕の心にゆっくりと、そして確実に染み込んでいくのを感じた。事前予約で指定されたシートに腰掛けて、やがて動き出した景色を眺める。

あさはかな期待、そして勝手な失望。それは全て、他者から有名画家「香川流星」に向けられる逃れがたい呪物だ。その呪縛から僕を解き放ってくれたのは、平日の何でもない昼下がりの光と静寂。それはひどく美しくて、僕はこの空間を決して忘れない様にしよう、とすら思った。それほどに、大作を描き終えた僕の精神は疲弊していたのだと、薄れゆく意識の中で実感する。まぶたを閉じて視界が真っ暗になったのと同時に、僕の隣に誰かが座ったのを感じる。奇遇にも、僕の様な旅行者がいるのだろうか。僕は隣の旅行者に少し興味を抱いた。そして、僕はゆっくりと深い眠りに落ちていく。


車内に響いたアナウンスで、意識が引っ張りあげられる。僕は目を覚ました。長い間同じ体勢でいたせいで、体が不自然にこわばっているのを感じた。ぐーっと背伸びするついでに、窓の外を眺めるとそこはもう僕の知らない別世界だった。もともと静かで人もまばらだろうに、2月の冬、しかもイベントの無い北関東の郊外に来る人は少ない。しかし、窓の外に広がる静けさは僕の心をひどく安心させた。その景色を見た時、僕は初めて遠くへ来たんだな、とごく当然な事を実感した。


身震いするほど寒い空気の流れるホームへ降り立った時、車内がいかに暖かかったかを実感する。昼過ぎに東京を出たので、時間は4時を過ぎていた。特急列車に乗る前にお腹に入れたのははちみつレモンだけだったので、お腹がぺこぺこだ。しかし、それよりも先に宿の確保をしないといけない。流れてくる冷気に体の芯まで凍える前に、そそくさと改札に切符を差し込む。

「さて…どうしようか」

駅の階段を降りるとそこには煩雑な東京の空よりも、もっと広くて素朴な景色が広がっていた。小さなバスロータリーは、近所の大きな自然公園や市内を巡回している様だ。小さな雑居ビルや建物にぽつぽつと居酒屋の看板が立っていた。

宿というと当然ホテルをあたろうかと思ったが、ここまで来たのだから、小さくてもそれらしい屋敷に泊まれないだろうか。とはいっても、昨日休暇をもらったばかりで予約もしていない旅行者を受け入れる宿泊施設はホテルくらいだろう。

仕方ない、退屈な休暇になるが空きのありそうなホテルに泊まろう。と思って、ロータリーの向こうに立っているホテルへ歩き出そうとした。背後から声がする。

「すみません!」

驚いて声のする方へ振り返ると、そこには同い年くらいの女性が立っていた。色の少ないこの景色には珍しい、真っ赤なコートが印象的だった。

「どうかしましたか?」

と、僕が答えると、彼女はすこしぎこちなく言い淀みながらこう言った。小動物のように萎縮していて。まばたきが何回も繰り返されていて、その潤んだ目と長いまつげが印象的だった。

「あの、画家の香川流星さんですよね?」

まずい、ファンにばれたか。僕は女性の質問に対して、戸惑いながらもにこやかに

「ああ、そうです」と答えた。

「こんなところにお一人で、お仕事ですか?私、香川さんの大ファンなんです」

「それはありがとう。今日はプライベートなんですよ」

我ながら上出来の営業スマイルを浮かべて、適当に話を合わせる。作家というものはイメージが大事なのだ。そして、明確な理由はわからないのだが、僕は彼女に出来心でこう問いかけてみたのだ。

「実は顔が割れないで済む宿を探しているんですが、心あたりはありませんか?」

と聞くと、彼女は小ぶりな目を大きく見開いて、早口でまくし立てた。

「偶然!私の実家、民宿を経営しているんです!もし香川さんが良かったら、滞在中、うちの離れをお貸ししますよ」

通常、ファンと個人的な関係を結ぶことはスキャンダルの関係上控えた方がいいとされるが、こんな都内郊外に週刊誌記者が張っているはずがないと判断した僕は彼女のご厚意に甘える事にした。それよりもホテル関係者に顔が割れる事の方が後々面倒だと思ったのだ。彼女の名は、「村上 美代子」といった。


僕は彼女、村上美代子と並んで郊外の寂れた町を並んで歩いた。その最中様々な話をした。彼女は今、美術系の予備校生で関西の大手芸術大学を受験したいと考えている事。表現媒体は、舞踏。つまりダンスだ。

僕は、基本的に平面絵画を作っているから含蓄があまり無いが、彼女の荒削りでも純粋でひたむきな舞踏愛は彼女の熱気のこもった言葉から感じる事ができたし、きっと彼女はこれから伸びるのだろうなと他人事のように、それでいて一流作家の第六感がそう囁いていた。

村上が舞踏経験者だと聞いてから、まじまじと彼女の姿を見たが、彼女はただただ姿勢が良かった。それも舞踏という身体表現が成せる結果なのだろうな、と思う。謙遜抜きで、下心ではなくモデルにしたら、それなりの賞賛を浴びるだろうと。それくらいに、彼女には視線を集める何かがあった。

僕の少し前を歩きながら、自分の家族構成や、地元の事などを話す彼女の背中を見ながら、僕はそんな事を思っていた。


「着きました、ここです」

拍子抜けした。田舎の住居が大きいのは知っていたが、ここまで大きいとは全く想定していなかった。立派な木造の門構え、池付きのよく手入れされた庭、そして恐らく僕が宿泊するであろう「離れ」が母屋の向こう側にぽつんと建っていた。

「あ、ああ。ありがとう。お邪魔します」

田舎の住居が大きめとはいえ、それにしても彼女はそれなりのお嬢様だという事がうかがえる。僕は大きな門をくぐって、彼女の実家を訪ねた。


僕が「離れ」に着いた頃には、もう外は暗く寒くなっていた。もうそろそろ黄昏時だろうか。彼女は、この後地元のダンス教室でレッスンがあるそうで、早々に屋敷を去っていった。その際に、食料の場所、空調の使い方など一通りの方法を教えて貰った。そして、村上はダンス教室に向かって、夕暮れの闇の中へ消えていった。


離れは築数十年は経っているであろう、古い造りだった。都内でビルやデザイナーズマンションの一室に囲まれて時間を過ごしていた僕にとっては、柱の木目や木の質感、温かみや建築物そのものが長い歴史を経て未だ建っているという事実が新鮮に映った。作家たちは、都内で神経をすり減らしているのではなく、こう言ったありふれた文化財を守らないといけないのではないか?とすら思った。それくらい僕は、この離れが気に入った。

空調はさすがに完備されている様で、僕は壁にかかっているエアコンのリモコンを手にとって、「暖房」のボタンを押した。エアコンからぬるい温度の温風が流れ出してくる。部屋が温もるまで、僕はこの離れを観察してみる事にした。離れの天井は高く、天井の方は何本もの木材が組み合って、しっかりとこの建物を支えている。古い木材で作られた収納棚が何個か置いてあって、その上には電子レンジとポットが置いてある。収納棚の横には分厚いはんぺんの様な、敷布団と掛け布団がちょこんと座っていた。部屋の奥には薄暗くて分かりにくいが、洗面所とトイレに通じているようだ。自炊する環境は整っていないが、僕の手はなるべく動かしたくない。特に今は。

食料は冬時、冷蔵庫の代わりに床下収納庫を使用しているそうだ。よく見ると、夕焼け色の木材に収納された銀の取っ手がある。僕はそれを押し込んで取っ手を出すと、思いっきり床下収納を引っ張り上げた。中にはカップ麺や電子レンジで熱して食べるタイプのパスタなどが収納されていた。誰かここで生活する事があるんだろうか。

と、その時、視界の端にそういった食品のパッケージにそぐわない物体がある事に気付く。それは、金属で出来ていた。細い骨組みを組み合わせたドーム型の、鳥籠だった。その中に、何か居る。

少しの恐怖と好奇心に支配された僕は、床下収納の影と同化したそれをまじまじと見つめた。すると、その主がカアと鳴いた。

「カラス…?」

そこには、一羽のカラスが鳥籠の中に囚われていた。


「ただいまですー、香川さーんご機嫌いかが…うわっ、どうしたんですか?」

レッスンから帰宅した村上を僕は必死の形相で出迎えた。僕は無言で床の上に置かれた鳥籠を指差した。床下収納に生きた動物とパスタを入れる感覚を僕は疑う。これは同じ芸術家だとしても、全面戦争になりかねないほどの大問題だ。僕は生き物に対して、愛玩の気持ちがあるほど心穏やかな方ではないが、食物と鳥を一緒くたにするその無神経さは如何なものか、と思ったのだ。

しかし、とうの村上はきょとんとしてこう言った。

「香川さん…何を指差しているんですか?」

「何って、床下収納の中に鳥籠とカラスが」

「あはは、香川さんやっぱりイマジネーションが豊かですね。」

僕は自分の感覚を、生まれて初めて疑った。何を言ってるんだこの子は。と、言うのを村上も思っているのかもしれないが。つまり、この床下にいたカラスは僕にしか見えていないという事になるのだろうか。そんな非現実的な事があってたまるか。事態を飲み込めずに呆然とする僕をよそに、村上は僕に問いかける。赤いコートをハンガーにかけてしまって、クリーム色のタートルネックが彼女を違う印象に見せていた。

「香川さん、あなたの事を口外しない代わりに一つ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」


村上がいそいそとその準備を初めて、やっと理解した。そうか、舞踏といっても彼女はバレエの経験者なのだ。白銀の使い込まれたバレエシューズを履く様を見て、彼女の正体を掴んだ。

村上は壁に手をついて、自身のアキレス腱を伸ばしながら僕に語りかける。

「そもそも、香川さんはどうしてこんな所にやってきたんですか?」

答えづらい質問だ。どうしても答えないといけないのだろうか。隣でカラスがカア!と鳴いた。代わりにこいつに答えさせたいくらいだ。僕は正直に答える事にした。

「今抱えている仕事が終わるって時に指を切ったんだ」

「それでここに?」

「まぁ」

「香川さんってユニークですね」

「…というのもきっかけでしかなくてね」

「きっかけ?」

「指を切ったっていうきっかけさ。本当の理由っていうのは、もっと昔から累積してるもんだ」

僕は穂高にも話してなかった事を、村上に話していた。

「生きている実感を失ったんだ」

「指を切った時に?」

「そう、切った時にね」

つまり、僕はアーティストで、平面作品をこの世に生み出しているけれども、僕自身が作品を作れば作る程、評価の本体は作品自身に集中する。それは、僕が東京という場所で「生きている」感覚を失っていったというのが前提としてあるのだと話した。

「それと指を切ったのはどういう関係性があるんですか?」

村上は丹念に体をストレッチさせながら、僕にそう問いかけた。

「自分の血を見た時思ったんだ、それは僕が生きている証だと赤くて透き通っていて、とても綺麗だった。絵の具として使いたいくらい澄んだ赤だったんだよ。だけれども、僕があの場所にいる必然性としての「生きている実感」を僕は得る事が出来なかった。どうしても僕があの場所にいなければいけない理由って何なんだろうなって思ったんだ」

「だからここに来た、と?」

「そうだね」

そこまで言うと、彼女は準備を済ませた様子で服の埃を取った後僕に向き直った。

「村上 美代子、宜しくお願いします」

静かにそう呟くと彼女は凛としたポーズを取り、僕の前に立ち塞がった。彼女の頭が離れの照明を隠して、逆光する。一瞬、僕は彼女が誰だか分からなかった。


携帯から流れているBGMが消えるのと同時に、彼女の緊張の糸が切れた。ふっと彼女は微笑み、彫刻像のように毅然としていた態勢を崩した。

「ありがとうございました」

そう言って彼女はぺこりと頭を下げた。一心不乱に体を動かして乱れた髪の毛を手早く整える。僕は軽く拍手を贈る。

「どうですか?」

「どうって?」

「私の、その、ダンスは」

そう聞いてきた彼女は初めて異性と接する少女のようにおどおどとしていた。その姿を見て、僕はふっと笑ってこう続けた。

「どうって、僕もプロだし簡単に批評なんてしないよ」

彼女は少なからずショックを受けたような顔をして、それでも僕の言葉を受け入れてこう続ける。

「そ、そうですよね。すいません、私、勝手に浮かれてしまって」

そう言って、彼女は顔を赤らめた。ふっくらとした頬にのる赤。血の色。生命の色。僕の『作品』に散った鮮血。フラッシュバックのようにその時の感情が揺り起こされて、僕は気まずそうにする彼女にずんずんと近づいてこう言った。

この距離まで近づくと、彼女の頬の赤がより鮮明に見えた。

「まぁ、村上さんが僕との一夜を秘密にしてくれたら、いいですけどね」

そう言って、いたって真面目な顔をして彼女の顔を見つめる。僕の発言を予想していなかった彼女は、その小ぶりな目を見開いて驚いていた。そして、その頬が真っ赤なりんごのように染まる頃、僕は「あの時」のように笑った。ああ、この感情の正体は。

「あっはっは、冗談ですよ、村上さん。すみませんね、つまらないジョークです」

と言うと、ドン、と体が突き飛ばされた。彼女、村上さんが無言で離れを出て行く。その合間、小さな言葉が僕の方へ降ってきた。聞こえるか聞こえないかの間の音量で彼女は

「からかわないで下さい、本気にするので」と言って、去っていった。彼女の背中から覗く耳は、夕日のように鮮やかな赤色だった。

「アホー」

離れに一人取り残された僕にしか見えない真っ黒なカラスが間抜けにそう喚いた。


そういう事が初日からあって特に何を言われた訳ではないが、僕はその日の夜が更ける前にそっと離れを、村上さんの元を去った。書き置き等は残さなかった。彼女の発言と、その反応が全てを物語っていたからだ。その代わり、僕は床下収納で見つけた、僕にしか見えないカラスを鳥籠ごと回収した。バカとかアホとか、それはお前だろと突っ込みたくなるような事を繰り返しているが、暇つぶしにはなるだろうと思ったのだ。

日付が明日になる前に、僕はラブホテルのフロントにいた。最初からこうすればよかったのだ、と軽く後悔の念がよぎったが。ビジネスホテルにも当然立ち寄ったが、もうすぐ深夜という時間では閑静な地方とはいえ満室になっていた為、急遽近辺のラブホテルに電話したら一部屋用意してくれたという事だ。ありがたい。この際、雨露をしのげるならどこでもいい。フロントでホテルマンから鍵を受け取ると、エレベーターで指定の部屋に向かった。ドアノブに手をかけ、扉を回す。今日の僕の部屋は、このラブホテルでも特に大きいデラックススイートルームらしい。基本的にリーズナブルな部屋が人気なので、デラックススイートルームは空きがある事が多いそうだ。このラブホテルは西洋ロココ時代の甘美な装飾をコンセプトにしているらしく、存外この部屋に泊まりたくてカップルがやってくる事があるらしい。室内は男一人で寝泊まりするには、勿体無いくらいのラブリーで優雅なスイートルームだった。デラックススイートルームということで、ベッドの質も良く、今日はよく眠れそうだ、と巨大なベッドに大の字になりながら思った。カラスはベッドの脇に置いておいたが、相変わらずバサバサガタガタとうるさいことこのうえ無い。しかし、一人でいるよりマシだと思った。ベッドに横になっていれば、勝手に睡魔がやってきて、明日になっていると踏んだがに時間経っても僕の頭は冴えたままだった。というのも、彼女、村上さんの表情が浮かんでは消え、浮かんでは消えてしまっていた。そして僕はラブホテルに奇怪なカラスと二人きり。巨大なベッドの脇には、これまた大型テレビのチャンネルがおいてあった。僕は、息をするのと同じのように、アダルトビデオのボタンを押した。金は腐るほどあるんだ。きにするな、香川流星。

むくりとベッドから起き上がって、立派な液晶を見つめると、見知らぬ男と女が一室のベッドに座っている。二人は何か話しているが、この映像において重要な会話とは思えなかった。大根芝居とも思える薄っぺらい会話が続き、男が女の衣服に手をかける。そこまで呆然とその映像を見ていた僕は、じわじわと湧き上がってくる感情の正体に嫌な予感がした。その感情に一抹の焦燥を感じた僕は、リュックを乱暴に開くと、中にしまってあった真っ白なスケッチブックを開く。筆箱から鉛筆を取り出すが、怒濤の制作期間の後だったので、どれも先が丸まっている。チッと軽く舌打ちすると、筆箱の中からカッターナイフを取り出して、刃先を出した。男の薄っぺらい大根芝居の声、少しづ嬌声を漏らす女の声、チッチッチと鳴るカッターナイフ。この空間で何が真実なのか、僕には手に取るように分かった。カッターナイフが室内の照明に照らされて、鋭く光る。僕は、それを先の丸まった鉛筆にあてがった。少しづつ先端に向かってスライドさせると、だんだん鉛筆の先が尖ってくる。背後の液晶に映った男女は、すでに裸になって計画された愛を貪りあっていた。男と女の嬌声の中、僕は鉛筆を削りつづける。ベッドが鉛筆の芯の粉で汚れる。薄ピンクの優雅な花柄が汚されていった。

そして僕は尖り切ったその鉛筆を真っ白な画用紙に叩きつけて、「彼女」を一心不乱に描いた。部屋には猛然と絵を描く男と、ガチャガチャと暴れる、奇怪なカラスと、味気ない液晶の中でコンビニで貰える、瑣末で薄っぺらいビニール袋の様に愛しあう男女と、白と黒の世界の中で笑う、偽物の村上美代子がいた。

その行為に没頭した勢いを物語るかの様に、筆致は荒く、その姿は本来の村上美代子とはほど遠い姿だった。背後の液晶の中では、女が絶頂を迎えていた。

「ヘタクソー」

上気した僕の頬に流れる涙と共に、ベッド脇に置いた僕にしか見えない真っ黒なカラスが鳴いた。

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