第53話 <憤怒>の女神エリーニュスとラドン川による浄化
大地母神にして豊穣の女神でもあるデメテルは、オリュンポス山頂の天空神ゼウスの宮殿に到着した。
たとえ、いかなる神であれ、ゼウスに謁見するには、幾つかの手順を踏み、数日待たねばならない。なるほど確かに、デメテルは、オリュンポスから出奔した後、夫であったゼウスとは別居状態になり、ゼウスとは既に離縁していた。だがしかし、デメテルが、ゼウスの実姉であることは変わりようのない事実で、<オリュンポスのはじまりの六神>として、段取りを数段飛ばして、ゼウスに会う権利を有していたのであった。
かくして、ゼウスに面会したデメテルは、コレー失踪に関する真実を問い質すべく、弟にして元夫である天空神に詰め寄った。
「ゼウスよ、包み隠さずに本当のことを、わたくしに申してください。ハーデスがコレーを誘拐したというのは事実なのですか?」
「事実であります、デメテル姉上」
端的にゼウスは応えた。
「いったい、何故にハーデスがっ! あなたは、そうなることが分かっていて、ハーデスを止めなかったのですかっ!?」
「ハーデス兄が、コレーを后に迎えたい、と自分に相談して来たのです。だがしかし、自分は兄上に、コレーの居場所を伝えたのみ。その後、ハーデス兄が、どのような行動に及んだかは、自分の関知することではありません」
「それを、誘拐の教唆と言うのですっ!」
「自分は、たとえば、拉致して構わないとか、直接的なことは何一つ申してはおりませんよ、デメテル姉上。それにもかかわらず、自分に、誘拐の責を擦り付けられても困ります」
「ゼウスっ! あなたがした言動は、唆し以外の何物でもありませんことよっ!」
デメテルは、嗚咽を漏らしながら、固く握った両手の小指側の横面で、交互に、ゼウスの胸を叩き続けた。
次第次第に、デメテルの内から怒りがこみ上がってきて、大地母神の天空神に対する抗議と罵詈雑言は、徐々に過熱していった。それに応じて、ゼウスを叩き続ける、デメテルの両手の力も強まっていった。
「さすがに、いい加減、うざったくなってきたわ」
ゼウスは冷たく呟いた。
ゼウスが身体を一歩後ろに引くと、デメテルの右手は空を切って、大地母神は前のめりになってしまった。ゼウスは、転びそうになった大地母神の身体を抱きとめると、女神の顎に手を掛け、その顔を上向かせ、デメテルの目を上から真っすぐに見据えながら荒々しく言い放った。
「そもそも、だ」
「そもそも?」
「コレーは、俺とおまえの娘だ。どのように扱おうと、父たる俺の自由だろう。それに、だ。ハーデス兄は、天空神である俺と同格の冥界王だ。コレーは冥界の王妃になるんだぜ。冥界王である兄貴は、天界王の娘の夫として釣り合いも十分に取れているし、ハーデス兄が旦那になることに、いったい何の不満があるってんだよっ! もうそろそろ、いいだろ、デメテル姉貴。こんなつまらない事案にかかずっている程、俺は暇じゃないんだ。これ以上は時間の無駄だ。誰か、デメテルを下がらせろっ!」
ゼウスは、親衛隊の者に命じて、姉にして元妻である大地母神デメテルを、謁見の間から下がらせた。
激昂したデメテルは、怒りが収まらぬまま、オリュンポス山を後にしたのだった。
怒り狂ったデメテルが、歩みを一歩一歩刻んでゆくごとに、その容貌は、老女の顔立ちへと変わっていった。
完全に老女に変貌したデメテルの姿を目にした、ギリシア世界の人々は恐れ慄き、その老いた女神を、<憤怒>の女神エリーニュスと呼んだ。いかなる者であれ、その<憤怒>の女神が、実は大地母神にして豊穣の女神デメテルと同一の神であるとは想像だにできなかった。
この<憤怒>の女神エリーニュスの身から漏れ出ていた<怒気>は、可視化できるほど濃く、そのため、<荒廃>や<飢餓>の<権能>が、デメテル、否、エリーニュスの無自覚なままに撒き散らかされてしまっていた。
<荒廃>の権能によって、エリーニュスが通った地、たとえば、テッサリア地方の大地は荒れ果て、穀物は実らなくなってしまった。
そして、<飢餓>の権能によって、人々は、いくら食べても満たされなくなった。
かくして、エリーニュスが足を踏み入れた地の住民たちは、荒廃と飢餓によって苦しむことになってしまったのだった。
そして――
怒りで頭が一杯になり、心が悲しみに沈んだ、老女姿のデメテル=エリーニュスは、世界中を、迷い子のように彷徨い続け、テッサリア地方から、ボイオーティア地方を経由し、そこからアッティカ地方に入ると、アッティカ地方西端のイストモス地峡に至った。それから、首を横倒したような細長い陸路である、この地峡を通り抜けて、ギリシア世界最南部のアルゴリア半島(現在のペロポネソス半島)に足を踏み入れたのだった。
<憤怒>の女神エリーニュスはそのまま西に歩を進めた。
アルゴリア半島の中央部にはアルカディア高原が位置しており、そこに聳え立っているアロアニア山を水源として、半島の西に面しているイオニア海に向かって、半島最長の川、アルフェイオス川が流れていた。
アルゴリア半島の西部には、<オリンピア>という都市があり、この都市の東には、アルフェイオス川の支流であるラドン川が流れていた。
ラドン川の長さは約三六四スタディア(約七十キロメートル、スタディアの単数形はスタディオンで、地域によって異なるが、オリンピアでは一スタディオンは一九二.二七メートル)であった。
ラドン川は、大洋神オケアノスと女神テテュスという兄妹夫婦神の息子ラドンの支配領域で、この河神ラドンの美しさを反映して、ラドン川は、世界有数の美しさを誇る風光明媚な川であった。
ラドン川の景観の美しさを前にして、エリーニュスは茫然自失してしまった。
そして、川を眺めているうちに、その頬には、我知らぬうちに涙が止めどなく流れていた。
エリーニュスは纏っていた暗緑色の衣を脱ぎ去ると、涙を零しながら、ラドン川で沐浴した。
すると――
穢れを浄化する河神ラドンの<権能>を帯びたラドン川の穏やかな流れは、あたかもエリーニュスの怒りを洗い流したかのようになり、女神の気持ちは和らいだ。そして、心が落ち着いてゆくにつれ、女神の容貌は、老女姿の憤怒の女神エリーニュスのそれから、大地母神デメテルの顔(かんばせ)へと戻っていったのであった。
オリュンポス・マキア 隠井 迅 @kraijean
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