第52話 アプロディーテの愛の<権能>と<宝帯>
デメテルは、ボイオーティア地方から北に進路をとり、オリュンポスに向かって歩を速めていた。
「でも、一体どうして、コレーを誘拐したの? ハーデス………………」
冥界王ハーデスが、オリュンポスの宮殿で偶然目にした、デメテルの娘コレーの、その可愛らしい姿を見て、この神童に心惹かれたのは事実かもしれない。しかし、冥界王は、己の欲情を抑制できるだけの分別を持ち合わせているはずだ。だから、ハーデスのコレーへのその淡い恋慕の情が、誘拐という行動に直結するのは、あまりにも直情的過ぎて、デメテルが知っているハーデスの性格と一致しないのだ。
ハーデスがコレーを初めて目にした時、かの男神が陶然として、その幼い女神を見詰めている様子を、歯嚙みしながら眺めやっている女神がいた。
<黄金の>と形容される、愛と美と性を司る女神アプロディーテである。
アプロディーテは、炎と鍛冶の神ヘパイストスの妻だったのだが、今現在、ヘパイストスは、ゼウスの娘である女神アテナの後見として、アッティカ地方に単身赴任していた。一方、アプロディーテは、ゼウスの姉で、オリュンポスのはじまりの六神、女神ヘラの従者となり、オリュンポスで勤めていた。
そんなアプロディーテは、かつて、ハーデスに惹かれていた時期があり、かの男神に対して媚態を示し、ハーデスを誘ったことがあった。だが、ハーデスは、女神に対して奥手で、朴訥な男神であったため、アプロディーテになびかなかった。
そこで、アプロディーテは、ハーデスに対して、<愛>の<権能>を使うことにした。
アプロディーテの<権能>は、対象の愛情を高める精神操作系のもので、それは二つの系統に分かれる。
一つが、地上の<権能>、「アプロディーテ・パンデーモス」で、これは、対象の<肉欲>を高めるものである。
そしてもう一つが、天上の<権能>、「アプロディーテ・ウーラニア」で、これは、対象の<清純な愛情>の念を高めるものである。
そして、アプロディーテは、ハーデスに、<肉欲>の<権能>、「アプロディーテ・パンデーモス」を使った。
そして、アプロディーテはその肉感的な身体を使って、ハーデスを誘ったのだが、そんなアプロディーテからの肉の誘惑を、ハーデスは素気無く拒絶したのだ。
ハーデスには、<肉欲>の<権能>は効果を発揮しなかったのだ。
「そ、そんな、ば、ばかな……」
その時のハーデスには肉欲が欠片もなかったのだ。初めから存在しない欲望を高めることはできない。
もしも、アプロディーテがハーデスに対して<清純な愛>の<権能>を駆使していたとしたら、ハーデスは、アプロディーテとの恋に落ちていたかもしれない。ハーデスの心にも純な愛は存在していたのだ。コレーに惹かれたのがその証左であろう。
アプロディーテは、使うべき<権能>の選択を誤ったのだ。
だが、神々に対する精神操作系の<権能>は、対象に対して一度しか行使することができない。だから、アプロディーテは、ハーデスに対して二度と力を使うことはできないのだ。
とまれかくまれ、ハーデスからの拒絶は、己の美において高い誇りを抱いていた、最高の美神アプロディーテの矜持を深く傷付けたのは事実である。
「ハ、ハーデスウウウゥゥゥ~~~、いつか、いつか必ず仕返ししてやるからね」
そして――
ハーデスが、未だ神童に過ぎないコレーに対して恋慕の情を示しているのを見せた時、アプロディーテの誇りは酷く傷ついた。
まず最初に、アプロディーテは激しい嫉妬の炎で焦げ付かんばかりに怒りを燃やした。
ようやく、その嫉妬心が収まったところで、アプロディーテの脳内に<声>が響いてきたのだった。
「アプロディーテよ。これは好機だぞ」
「お、お父さまっ! お久しゅうございます」
そもそもの話、アプロディーテは、その出自が不明な女神であった。
ティタノ・マキアの初めの頃、ゼウスが自分たちに味方する神を募った際に、かなり早い段階において、アプロディーテはオリュンポスに馳せ参じて来た。だから、ゼウスたちオリュンポスの神々も、自分たちに味方したアプロディーテのことを、深く追求したりはしなかった。オリュンポス神族は、アプロディーテの美しさを礼賛し、さらに、この美の女神は、オリュンポス神族によく仕えた。だから、美神の献身に対する見返りとして、ゼウスは、彼女を自分の養女とし、ヘラは侍女としたのだった。
実は、後にティターン神族の王となるクロノスが、母ガイアの嘆願を受け、父ウラノスの男性器を、万物を切り裂く金剛石、<アダマス>で出来た鎌、<アダマント・ハルパー>で刈り取った時、その切り落とされた男性器から飛び散った精液が、西風に運ばれて、海を漂い、キュテラ島の沖合に至った時に、海と混じり合い、そこからブクブクと生じた泡から生まれ出でた女神こそが、女神アプロディーテであった。かの女神の名は、泡(アプロス)に由来している。
生まれて間もないアプロディーテが、キュテラ島の地を踏んだ瞬間、アプロディーテの内に愛と美の力が生じた。そして、裸体のままの女神の肩に衣を掛け、彼女を着飾らせた神がいた。
アプロディーテが振り返ると、そこには一人の男神が立っていた。
「誕生を待ち望んでいたぞ、我が娘よ」
その神は、アプロディーテの泡の起源である男根の持ち主、かつて天空を統べていた神ウラノスであった。
それから、ウラノスは、キュテラ島からキュプロス島へ、アプロディーテを連れて世界中を巡りながら、美の女神に様々な教育を施していったのだった。
ウラノスは、アプロディーテのために、魔力を蓄えておくことができる魔法の<宝帯>を作成した。ここには、<愛>、<憧憬>、そして<欲望>が秘蔵されており、アプロディーテは、常にこの帯を身に着けていた。アプロディーテは、この<宝帯>を使って、己の魅力を増し、神や人の精神を操ることもできた。
かくして、アプロディーテは、愛の<権能>と、この<宝帯>を使って、巧みに他者の精神を操ってきたのである、他の神に気づかれないように密かに。
父ウラノスからの思念を受け取った後、アプロディーテの口角が上がった。それは実に、面白い提案であった。
さすがは、お父さまです。<さすちち>です。
まず、アプロディーテは、<宝帯>に蓄積しておいた<清純な愛>の力を、黄金の矢に付与した。それから、自身の部屋の傍らに控えていた従者を近くにまで呼び寄せ、背中に小さき翼が付いた、その幼い神の耳元で、美しき媚声で囁きかけたのだった。
吹き掛かってきたアプロディーテの息が首筋に当たって、その神童の翼はぶるっと震えた。
かくして、アプロディーテは、この有翼の神童、<エロス>に、小さな弓と黄金の矢と指示を与えたのだった。
エロスが、コレーに惹かれてしまった己の心に悩んでいたハーデスを、黄金の矢で射ると、ハーデスの精神に、思いを極限にまで至らせる効果を発揮し、ハーデスの純愛は昂まって、冥界王は、コレー誘拐という直情的な行動に及んでしまったのである。
エロスから成功の報告を受けたアプロディーテは、喜びの感情を抑えることができなくなり、部屋の床で笑い転げた。
そもそも、あのコレーとかいう小娘も、<永遠の処女>を誓ったアテナに憧れているとかぬかしていて、気に入らなかったのだ。そのコレーとハーデスに鉄槌を下すことができて、まさに一石二鳥というものである。
アプロディーテは、その後、このことを思い起こしては、唐突に大爆笑をすることさえあった。これが、アプロディーテにしばしば冠されている、「笑い喜ぶ」という形容句の由来であるらしい。
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