第51話 ヘリオスは見た!

 冥界王ハーデス、海界王ポセイドン、そして天界王ゼウスという世界を統べる三界の王たちから深く愛されている、夜闇の女神であるヘカテは、世界が暗闇に覆われている夜の間、世界で起こったありとあらゆる出来事、犯罪においてさえ知り得る<権能>を有していた。

 それゆえに――

「デメテルさまが、夜の間さえ、誘拐された娘、コレーさまを御探しになっていることは、このボイオーティア地方を統べる、ワラワの耳にも届いておりました。もっとも、ワラワの<権能>の関係で、権限外である昼の行動までは正確には把握しておりませんが、おそらく、デメテルさまは、昼夜を問わず、娘さまを御探しになられていたのでしょう?」

「もしかして、ヘカテさん、わたくしの娘、コレーの行方をご存じなのですか?」

「いえ。ワラワは存じてはおりません。しかし、です。ワラワには、夜の間に起こった出来事を検索し、それを知る<権能>があります。そして、<魔術>の女神でもあるワラワの能力が最も高まる時間と場所は、夜明け前という<時>と、分岐路という<場>なのです。すなわち、この十字路で、あと数刻お待ちいただければ、ワラワの<権能>が最も高まり、夜の間に起こった出来事についての検索能力を最大限に発揮することができます。夜明けが到来したら、このワラワが、誘拐の事実と娘御の行方を探ってみましょう」

 空が夜から朝に変わる時、夜半から夜明けにかけて、時は、<暁(あかつき)>、<東雲(しののめ)>、そして<曙(あけぼの)>へと移り変わってゆく。このうち、夜に最も近い、夜深い刻限が<暁>で、それは、太陽が昇る前の、空が仄暗い時間帯である。いわば、<暁>とは、夜と朝が混ざり合った時間帯なのだ。

 そして、四つ辻の起点である十字路は、東西南北へと続いてゆく、その性質ゆえに、いわば、四つの空間性が混ざり合った場になっている。

 つまり、時間と空間の両面において、ある事態と別の事態が混ざり合うような<混交>の時空間においてこそ、ヘカテの魔力は最も高まるのだ。

 かくして――

 暗闇色に橙色が混ざり始めた時に、十字路の起点にまで歩き進んだ三面のヘカテは、南面、アッティカ地方へと続く道を背にすると、三対の両目を閉じて、感覚を最大限にまで鋭敏化させ、夜闇の女神が有する<夜の知悉>の<権能>を駆使し始めたのだった。


 ヘカテの三つの口は、それぞれ何やらブツブツと呟きだし、まるで、見えざる存在と対話し始めたかのようであった。その呟きが止んだかと思うと、まるで恍惚状態に陥ったようになって、<三重>のヘカテの三つの身体は、前後左右、上下、さらに斜め方向に激しく揺り動き出した。

 しばらくすると、ヘカテの激しい舞踏は終わった。

 やがて――

 ヘカテの三面のうち、西方面を向いている左面の両目だけが開いて、三対六本の腕のうち、左の身体の左腕一本が、無意識のままに、ゆっくりと持ち上がって、左の道、すなわち、ハーデスが統べる冥界の入り口へと続く西の道を指し示したのだった。

「え、えっ! ま、まさか、ハーデスがっ! ハーデス、ポセイドン、ゼウス、わたくしの三人の弟の中でも、ハーデスは、おとなしい性格の、純粋無垢で心優しい子なのです。あ、あのハーデスが、わたくしの娘を拐わかしたなんて、にわかには信じられませんっ!」

 デメテルは、両手を口元に当てながら、頭を何度も左右に振り続けていた。 

「落ち着いてください、デメテルさま。ワラワの<権能>で分かったことは二つです。まず一点目は、コレーさまは西の方にいるということです。つまり、このことは、必ずしも、冥界にいることを意味しているわけではありません。そして、もう一点は、娘御の誘拐がなされたのが夜ではないということです。夜に起こった出来事であるのならば、ワラワの<検索>に引っ掛かるはずなので」

 デメテルの表情が、パァ~っと明るく輝いたようになり、今にも、西の道に向かって駆け出しそうになった。

「お待ちくださいっ! デメテルさま。夜闇の女神である、このヘカテの<知悉>の<権能>では、夜に起こった出来事しか知り得ません。だがしかし、もうじき夜が完全に明けます。<曙>が訪れると、わたくしと役目を交代するために、ここに、太陽と光明の神ヘリオスがやってきます。かの男神は、ワラワとは反対に、昼の間に世界で起こったことを見る<権能>を持っています。ワラワが、コレーさまの誘拐を知り得なかったということは、逆説的に言うと、その犯罪は、昼に起こったということになるでしょう。なので、デメテルさま、ここで、しばし、ヘリオスをお待ちになってはいかがでしょうか?」

 かくして、デメテルとヘカテは、このボイオーティア地方の<世界の十字路>で、太陽神ヘリオスの到着を待つことにしたのであった。


 東の空が明るくなり始め、時は、<暁>から<東雲>へと推移し、そこから<曙>へと移り変わった時、東の方から鳥の鳴き声が響き渡ってきた。

「キキリク・キキリキ、キキリク・キキリキ、キキリク・キキリキ」

 それは、朝の始まりを告げる雄鶏の鳴き声であった。

 雄鶏は盾の上に乗り、両翼を大きく広げ、右足を上げていた。その高く持ち上げられた鋭い蹴爪は、今にも争いを始めんとしているかのようで、その広げられた翼は、飛ぶ準備が既にできていること、戦いの準備や覚悟が完了していること、さらには、一日の始まりを象徴していた。

 この雄鶏を聖獣としていたのが、現・太陽神にして光明神であるヘリオスで、かの太陽神は、世界の東端の宮殿から、天翔ける四頭立ての馬車に乗って、デメテルとヘカテがいる<世界の十字路>にやって来たのだった。


 ヘリオスは、ティターン神族の血族で、王クロノスの兄ヒュペリオンと、その姉テイアという兄弟姉妹婚をした夫婦神の子であった。このヒュペリオンが、先代の太陽神にして光明神で、長男のヘリオスは、父ヒュペリオンから、太陽神・光明神としての地位と<権能>を受け継いだのだった。ちなみに、ヘリオスの妹のセレネが月、エオスが曙を司っていた。

 ティタノ・マキアの際には、ヒュペリオン一族は傍観と中立を決め込み、太陽・月・曙という、空を司る一族の責務にのみ従事していた。そのため、この空の一族は、タルタロス落ちは免れ得たのであった。

 そして、太陽神にして光明神であるヘリオスの<権能>の一つが、昼の間、天頂高くにあって、昼間に地上で起こった出来事の全てを見る能力なのである。


「それで、ヘリオスさま、コレーさまの件に関して、何か御存知でしょうか?」

「無論。コレーは、ハーデス殿によって冥界に連れ去られた」

「し、信じられません。ハーデス、あ、あの子が、わが娘を……」

「信じる信じないは、デメテル、そなたの自由だ。ワレは、訊ねられた疑問に対して、見たままの事実を述べているに過ぎない」

「しかし、何故に、ハーデスが?」

「コレーの誘拐の直前に、ゼウス殿とハーデス殿が何やら話していたことを、ワレは見ている」

「ゼウスが、ハーデスにコレー誘拐を唆したのですかっ!」

「知らん。ワレは、見た事実を述べているだけ。話の内容の仔細は知るべくもない。では、ワレは、そろそろ、仕事のため、この地を去らねばならぬ。では」

「キキリク・キキリキ、キキリク・キキリキ、キキリク・キキリキ」

 聖獣・雄鶏の鳴き声と共に、太陽神・光明神ヘリオスは、馬車を引く四頭の馬を促して、空高く舞い上がっていった。

「ゼ、ゼウスに事の次第を問い質さなければ……」

 そう言うと、デメテルは、西の冥界の入り口へと続く左の道ではなく、北方面、オリュンポス山へと続く真ん中の道に歩を進めたのである。

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