第50話 三重のヘカテの特権

 デメテルには、毎夜、コレーが泣き叫ぶ声が聞こえる気がしていた。その声が耳に届くたびに、寝床から跳ね起きて、周囲を見回してみるのだが、愛娘の姿はどこにも見当たらない。

 そうして、悲嘆にくれたデメテルは、昼夜を問わず、行方知れずとなったコレーの探索を続けていた。

 太陽が地上を照っている間だけではなく、夜間、月明かりのない晩なども、片手に松明を掲げながら娘を探し続け、デメテルは、地上世界の隅々を歩き回り、そうしたデメテルのコレー探索の年月は、九年以上にも及び、そうした日々も遂に十年目を迎えようとしていた。

 この時のデメテルは、アテナの領土であるアッティカ地方でコレーを探し回った後、キタイローン山脈を越えて、ボイオーティア地方を訪れていた。


 ボイオーティア地方、その北北西方面には、オリュンポス山があるテッサリア地方が位置し、その南東には、ゼウスの娘アテナの領地であるアッティカ地方が位置している。ボイオーティア地方とアッティカ地方は、キタイローン山麓によって隔てられており、ゼウスのテッサリア地方と、アテナのアッティカ地方の間を陸路で移動するためには、このボイオーティア地方とキタイローンの山々を通らなければならなかった。

 また、ボイオーティア地方の北東には、海神ポセイドンの領地であるエウボイア地方があった。

 そして、このボイオーティア地方を起点とし、四本の幹線路が十字状に延びていた。

 十字路の北面は、ゼウスの御膝元であるテッサリア地方に、南面は、ゼウスの長子アテナが統治するアッティカ地方に、東面は、海王ポセイドンが支配するエーゲ海に、そして、西面の道は、オケアノスの西の彼方にあるという、冥界王ハーデスが統治する地下世界の入り口へと続いていた。

 すなわち、ボイオーティア地方とは、神々の世界における交通の要衝だったのである。


 アテナのアッティカ地方から、ボイオーティア地方に入ったデメテルは、このボイオーティア地方においても、コレーの気配を感じ、この地方中を、娘の姿を求めて探し歩いたのだが、結局、ここでも、コレーを見つけ出すことはできなかった。

 そして、とある月夜の晩、松明を携えたデメテルは、次に赴くべき地を決めようと考えあぐね、神々の世界の幹線路である、あの十字路の中心点で立ち止まっていた。

 その分岐路の起点の中心には篝火が焚かれていた。

 いずれの道を行くべきか、それが問題だ。

 アッティカへと続く道を背にし、選ぶべき道を考えあぐねていたデメテルは、篝火の前で、両手を組み合わせて祈りを捧げた。

 すると――

 灯の明かりが届かない三本道、それぞれの暗闇の奥から、猛々しい犬の遠吠えが聞こえてきた。そして、分岐路の起点、デメテルが佇んでいる方に向かって、三叉の道のそれぞれから、何かが近付いてくる気配がした。 

 それは、聖獣たる黒犬を引き連れた女神たちであった。

 それぞれの女神は濃紺の衣ですっぽりと肉体全体を包んでいたため、女神は、まるで宵闇に溶け込んだようになっていた。だがしかし、女神の身体には数多の斑点が散りばめられており、それらが、星座の如き蒼白い輝きを放っていた。その藍の黒髪は、腰の辺りまで届くほどに長く、女神たちに緩やかな風が吹きかかると、それぞれの髪の毛が微かにふわりと揺れて、周囲に、星の煌めきを振り撒いているように、デメテルには思えた。

 女神が近付いてくるにつれ、それが気のせいでないことが分かった。

 髪にも星の煌きが散りばめられており、その瞳には、幾つもの星型の模様があって、それが輝きを放って、女神が瞬きをするごとに、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と七色の異なる色の煌きを放つのだ。

 三柱の女神たちは、まるで星空のようであった。

 顔が視認できる距離まで近付いた時、女神の顔のそれぞれは、左の西の道からやって来た女神はハーデス、真ん中の北の道からやって来た女神はゼウス、そして、右の東の道からやって来た女神はポセイドン、すなわち、世界を統べる三人の王が女体化して、自分の方に向かって来ているように、姉たるデメテルには思えたのだった。その三柱の女神は、分岐路の起点まで至ると、その三つの身体が合体して、三つの顔と三つの身体を持つ一柱の女神になった。

「「「大地母神デメテルさまでございますね? お初にお目にかかります。わたくしは、<星座>の女神アステリアの子で、夜闇と月の女神、<三重>のヘカテと申します」」」

 ヘカテの三つの口が、まるで唱和するように、こう声を発したのだった。


 全ての神は、何らかの<権能(けんのう>を生まれ持っている。

 <権能>とは、まず第一に、神々がその誕生の際に、原初の神から分け与えられる<モイラ(贈物)>のことである。こうした先天的に授かっている能力に加え、<権能>は、神々が後天的に獲得する場合もある。いずれにせよ、<権能>とは、神々が、能力を世界で行使するための権利のことである。

 ティタノ・マキアの折に、オリュンポス神族の首領であったゼウスは、ティターン神族の王クロノスを打倒した。その時、ゼウスは、世界の覇者を打倒し、実質的に新たな世界の王になった。このことによって、新たなる<権能>、敗者たるティターン側の神々から<権能>を奪う能力をゼウスは獲得したのだ。不死なる神を殺すことはできない。つまり、神に負けを認めさせるためには、精神的に屈服させなければならないのだ。こうして負けを認めた神は、勝者に能力を献上せざるを得なくなってしまう。これが、ゼウスが新たに得た、神々から能力を剥奪する<権能>の仕組みである。翻ってみると、この能力では、ゼウスに敗北を認めた精神的敗者たるティターン神族以外からは、その<権能>を奪うことはできない、ということになる。

 ティタノ・マキアの後、ティターンの神々全ては、戦後処理として、オリュンポスで軍事裁判を受けさせられた。

 その裁判の折、敗戦側のティターン側の神全ては、その<権能>を、ゼウスによって剥奪された。

 それは、神童とて例外ではなく、アステリアに連れられて、オリュンポスを来訪したヘカテに対しても、ゼウスは、剥奪の<権能>を行使した。

 だがしかし、だ。

 ゼウスの<権能>は機能しなかった。

 おかしい……。 

 ヘカテの父であるペルセスは、先王クロノスの兄であるクレイオスの三男で、ヘカテの母である、星座の女神アステリアは、クロノスの兄コイオスと、姉ポイベという兄妹夫婦神の次女であり、すなわち、ヘカテは、ティターン神族十二神の血脈に連なる、ティターンの血が極めて濃い女神である。

 にもかかわらず、だ。

 ゼウスは、ティターンの姫から、彼女の<権能>を奪うことはできなかった。

 ヘカテの先天的な<権能>とは、祈りを捧げる者に対して<恩恵>を授ける能力である。ヘカテがその願いを聞き届けると、祈りの主に対して大いなる援助や恵みを与え、ヘカテは、その御心に叶った者たちに<神威(しんい)>を発揮し、成功をもたらすのだ。だが、この能力は、ヘカテの気まぐれで、逆に失敗をもたらすこともできるというものであった。つまり、神や人に関するありとあらゆる事柄、その成功と失敗をヘカテは操ることができるのだ。ある意味、これは絶大なる能力であった。

 たとえば、他者と技を競うとする。競技の前にヘカテに祈りを捧げ、その祈りがヘカテの御心に叶った場合、その者には、力の強さと技の巧みさが付与され、その者の勝利と誉が援助されるのである。

 また特に、牧畜に関しては、家畜の数を、いとも容易く殖やすも、その反対に、数を減らすも、ヘカテの気紛れ次第であった。

 すなわち、地上世界で起こり得る、ありとあらゆる分野における成功と失敗を自由自在に操ることが、ヘカテの<権能>だったのだ。

 ゼウスは、ティターン神族の神童ヘカテの、この<恩恵>の<権能>を剥奪することができなかった。

 星座の女神アステリアと、その傍らにいる、彼女の一人娘であるヘカテは、三つの身体と三つの顔が一つに合わさっている神で、それゆえに<三重のヘカテ>と呼ばれている。その三面の神童の真ん中の顔を正面から見据えた時に、ゼウスは全てを直観した。

 なるほど……、そういうことか……。

「アステリアの一子、ヘカテよ、汝には、これまで同様に、地上世界、そして、余が統べる天界においても、その<権能>を振るう許可を、天界王ゼウスの名の下において許そう」

 ティターンのすべての神々が、その<権能>をゼウスに剥奪されたにもかかわらず、ヘカテの好待遇は異例中の異例であった。

「待て、ゼウス、それならば、この海神ポセイドンもまた、そのヘカテとかいう小娘に、我の海界においても、その<権能>を発揮することを認めようではないか」

 ポセイドンは、三面のヘカテの右の顔をチラチラと見ながらそう言った。 

 そして、冥界王ハーデスは、そのヘカテの左面の顔に視線を送りながら、こう付け加えた。

「それでは、わたくしの地下世界での<権能>の行使も許しましょう。ところで、ゼウス、現在、空席になっている、夜闇と月の神の地位を、このヘカテに任せては、いかがであろうか?」

「ハーデス兄上の進言、是としよう」

 かくして、ヘカテは、冥界王ハーデスからも、海王ポセイドンからも、そして、天界王ゼウスからも、すなわち、世界を統べる三柱の神たち全てから深く愛され、ティターン神族の血脈に連なる神であるはずなのに、その<権能>を奪われずに済んだどころか、地上世界、天界、海界、冥界、全ての世界において<神威>を発揮できる、他のいかなる神にも授けられていないような、栄誉と特権を与えられた特別な女神となったのだった。さらに、天界の直轄である夜と月、その女神という特権的な地位さえも、ヘカテは、三世界の王によって授与されたのである。


 ティターン一族の女神であるヘカテに、何故に、これほどまでの絶大な特権と地位が与えられているのかは、オリュンポスの謎とされている。

 そして、その夜闇と月の女神ヘカテに、ゼウスが、封土として与えたのが、世界の幹線たる十字路が位置している、かの<ボイオーティア>地方だったのである。

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