記憶のパズル
しましま
抜け落ちたカケラを求めて
僕の家から少し離れたところにある公園。ここには想い出が沢山ある。
スコップ片手に何でも作ったあの砂場。
必死になって逆上がりの練習をしたあの鉄棒。
近くにシートを敷いてお弁当を食べたあの桜の木。
今でも鮮明に覚えてる、もう何年も前の幼き僕。
見るもの触れるもの全てに興味と新鮮さを感じたあの日々。
でも、そんな日々は戻ってこない。
こうやって想い出の場所に来てみても、湧き上がってくるのは少しの寂しさと違和感だけ。
もうあの日のように何かに胸が熱くなることはないのだ。
平日の真昼間、公園には僕ひとり。
桜の木の幹に手を当てて、開きかけの蕾を見上げる。葉や枝の間に見える青空には雲ひとつなかった。
「……そろそろ帰ろうかな」
ポツリと呟き、振り返る。
「…………え……?」
小さく声が漏れた。
誰も居なかったはずなのに、真後ろに少女が立っていた。髪は短く背はあまり高くない無口そうな女の子で、左手にはトートバッグを提げていた。
どうしてか、彼女は僕をじっと見つめながら微笑んでいる。その表情の裏に何とも言えない寂しさを感じた。
気まずさにサッと目を逸らすと、僕は彼女の横を俯きがちに歩いていく。
そのまま公園の入り口を出たところ、横断歩道の前で僕は足を止めた。車も来ていないのに、なぜか足が前に出なかった。
まるで身体が前に進むことを拒んでいるように感じる。
意味が分からない。僕はただ、家に帰ろうとしているだけなのに。
震える足を強引に動かして、一歩を踏み出そうとした時だった。
「ーー待って!!」
焦り混じりの声が僕を呼び止め、同時に背後から腕を掴まれる。
ようやく前に出かけた足を戻して振り返る。
そこには、何かを恐れ焦っているような表情を浮かべた、さっきの女の子が立っていた。
彼女は僕の顔を見るなり小さく息を吐いて、まるで本当の気持ちを隠すように微笑む。
見ず知らずの人に腕を掴まれている恐怖感も、女の子が僕に話しかけてくれたことへの高揚感もなかった。ただ、彼女が浮かべた中身のない笑顔が僕の心を捉えて離さなかった。
彼女が僕の腕を数回軽く引っ張る。
「……えっと……?」
公園と僕を交互に見る彼女。ついて来てと言いたいのだろうか。
その予想は正しかったらしく、彼女は僕の腕を引いて公園へと向かって歩き出した。特に理由があった訳じゃないけれど、僕はなんとなく彼女に付いていった。
彼女は桜の木の近くで足を止めた。
「ここ、覚えててくれたんだ」
か弱そうな細い声で彼女は言った。
でも、僕は意味が分からずにただ首をかしげるしかなかった。
そんな僕を見て、彼女は再び口をつぐんだ。
「僕たち、どこかで会ったことあるかな?」
不自然に間を空けて、彼女は首を横に振った。
やっぱりどこか寂しそうな表情をしている。
まったく見覚えのない顔と、どこかで見たことがある表情。彼女を見ていると不思議な気持ちになる。
でも、どんなに必死になって記憶を辿ってみても、彼女の姿が見つかることはなかった。
ふと疑問に思う。
なぜ彼女は僕をここに連れ戻したのだろう。そもそもなぜ彼女は僕をじっと見つめていたのだろう。
真っ先に出てくるはずの疑問が、次々と遅れてやってきた。
いろいろ考えたけど、何て訊いていいのか分からなかった。だから単純な質問をしてみた。
「君は僕のことを知ってるの?」
今度は、彼女は首を縦に振った。
そして、僕の腕から手を離すと、彼女は僕の方に身体を向け直した。
「お弁当」
たった一言それだけ呟くと、彼女はバッグから袋を取り出した。
ガサガサと音を立てて、袋の中身を僕に差し出す。
「……シート?」
彼女が渡したのは綺麗に折り畳まれたシートだった。
シートを見つめる僕を、何も言わずに見つめる彼女。
広げろということだろうか?
そう言われた訳じゃないけど、すぐ横に僕はシートを広げてみせた。
彼女は靴を脱いでそこに座ると、再びバッグを漁り出す。
その様子を棒立ちで眺めていた僕に気がついたのか、彼女はシートをぽんぽんと叩く。無口で分かりづらいけれど、きっと座れと言われたのだろう。
僕も靴を脱いで彼女の向かいに座る。
「はい」
ごく自然と包みを渡され、僕は当たり前のようにそれを受け取った。
結び方と形を見れば分かる。これはお弁当だ。
彼女が自分の分のお弁当を開け始めたのを見て、僕は彼女に訊いた。
「これ、貰ってもいいの?」
無言で頷く彼女。
「ありがとう」
お礼を言うと、彼女は軽く微笑んだ。これは本当の笑顔だと直感的に感じた。
『なぜ』とか『どうして』とか、あらゆる疑問を投げ捨てて、何も疑わずに貰ったお弁当のふたを開ける。
「おお、すごい! もしかして君の手作り?」
「うん」
相変わらずの短い返事だけど、喜んでいるのが分かる。
半分はふりかけご飯で、もう半分には卵焼きに唐揚げにハンバーグが入っている。僕の好きなものだけが入ったお弁当は、正午直前で空腹の僕には嬉しいものだった。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
ちゃんと二人で手を合わせてから、僕たちはお弁当を食べ始めた。
まず真っ先にハンバーグにかぶりつくと、お弁当とは思えないジューシーな食感と味に驚く。続けて卵焼き、唐揚げと食べていくが、どれもこれも僕好みの味付けでとても美味しかった。
「なんだか懐かしいな」
半分くらい食べ終わったところで、桜の木を見上げて言った。
僕の言葉に、彼女は食い入るように僕を見つめた。
「随分と昔もさ、こうやってお弁当を食べたんだよ」
「やっぱり覚えててーー」
「あの時は一人だったんだけどね」
つい勢い余って彼女の言葉をかき消してしまった。
「あ、ごめん。今なにか言おうとしなかった?」
「……ううん」
一瞬だけパッと明るい顔になった気がしたが、気のせいだったのだろうか。
あまり気にはせずに、僕は話を続けた。
「昔、ここの公園でよく遊んでたんだ。ブランコ乗ったり木登りしたり、こうやってシート広げてお弁当食べたりしてた」
今はもう遊具も新しいものに変わっているけれど、昔と変わらない場所も多い。この桜の木だって、昔と何ひとつ変わっていない。
むしろ、一番変わってしまったのは僕だ。
僕だけが、あの頃とは何もかも違う。
……僕は自分に嘘をついている。
きっと、今こうして話している彼女にも嘘をついてしまっているだろう。
僕はこの公園での想い出を、鮮明に、なんて言えるほど覚えてはいない。
いや、何も覚えてないって言えるほどに記憶は曖昧だ。
ほんの少しだけ分かるのは、ここで遊んでいたと言うことだけ。
断片的に蘇る記憶はそのどれもが不正確不鮮明でいて、なにか大事な部品が抜け落ちている気がする。
想い出の場所を訪れる度に感じる多少の違和感は、きっと僕の記憶が曖昧模糊として、もはや想像としか言えないからなのだろう。
僕はたまに思う。
全部なかったことにしてもいいんじゃないか。
昔は昔、今は今。
想い出は消えて無くなって、僕は新しい日々を生き続ける。
それでもいいんじゃないか、と。
でも、それは違う。違うのだ。
食べかけのお弁当を見つめると懐かしい気持ちになるのも、新しく変わっていく僕や公園に寂しさを感じるのも、今日僕がここを訪れたのも、すべて僕が失った何かを取り戻そうとしているからだ。
僕は諦めてなんかいない。抜け落ちた大切な大切なカケラを見つけ出して、記憶のパズルを完成させることを。
「優くん、変わってないね」
「え?」
突然名前を呼ばれて我にかえる。
「私はちゃんと覚えてるよ」
彼女が普通に話し始めたことに少し驚いたけど、優しく柔らかな声はすんなりと耳に入ってきた。
「優くんは一人じゃなかった。私と一緒に、ここで二人でお弁当を食べた」
「違う、僕は一人で……」
「ううん、一人じゃない。私がいた」
「だって僕は君のことなんて……なにも……」
覚えてない、と続くはずの言葉が喉で止まる。
何かが記憶の底から込み上げてきたのだ。
桜の木と僕とお弁当しか居なかった記憶の景色に、まるでそこに何かが居たように靄が形を作っていった。
でも、まだそれが何かは分からない。
「あの日は優くんの誕生日の前の日だった。九歳になるんだってとても喜んでた」
時おり微笑み、また時おり寂しさを見せながら、彼女は淡々と僕との過去を語る。
「誕生日会に私も誘ってくれて、他にも一緒にお弁当を食べたり、一緒に砂場で山を作ったり、一緒に逆上がりの練習をしたり、楽しかったし嬉しかった」
まったく記憶にないのに、彼女の言葉が僕の不完全な記憶に色と動きを付け足していった。
僕の側に映る『何か』。靄で包まれたそれは、明らかに僕と一緒にいる。お弁当を片付けて、シートをたたむ僕。別れを告げて、帰ろうと走る僕。
「でも……誕生日会はなかった」
「……え?」
「優くんは事故に遭ったの」
少しの間を空けて言い放たれた言葉が、記憶の景色にかかった靄を払い、途切れた記憶を最後まで繋いだ。
あの頃、僕は毎日この公園で彼女と一緒に遊んでいた。
きっかけは僕がこの町に引っ越してきたこと。
まだ友達のいなかった僕は、この公園で彼女と出会った。僕と同じで、彼女も一人で遊んでいたのだ。
何を思ったのか、僕は彼女に声をかけた。たぶんろくな話はしてないと思うけど、彼女と話すのが楽しくて、それから僕は毎日のように彼女と遊ぶようになった。
そうして過ごした一年余りの日々。
ついにあの日が来た。
九歳の誕生日を翌日に控えた僕は、その日も彼女と遊んでいた。いつも通り遊んで、誕生日会にも誘って、僕はいつも以上に楽しさと喜びを感じていた。
でも、そのすぐあとにそれは起こった。
いざ帰ろうと、僕は振り返って彼女に手を振りながら、前も見ずに走り出した。そこは横断歩道だった。
突然道路に飛び出した僕に、止まりきれなかった車がぶつかった。
たった一瞬のうちに感じた恐怖が、記憶と共に蘇る。
自然と涙が頬を伝った。
それが事故の恐怖からなのか、すべて思い出せた喜びからなのかは分からない。でも、少なからず悲しいからではなかった。
「はい」
彼女がハンカチを差し出す。
僕は涙を拭い去り、彼女に微笑んだ。
「久しぶり、でいいのかな。日菜ちゃん」
「うん。久しぶり、優くん」
彼女の笑顔は昔と変わっていない。口数が少ないのも、小柄な見た目も髪型も、何も変わっていない。
「ごめん、ずっと忘れてて」
「ううん、私もお見舞いもできなかった」
彼女は僕の家を知らないし、学校も違った。この公園に来れば会えると信じて毎日ここに通っていただけだ。
だから、会いに来ることも、連絡を取ることさえもできなかったのだ。
「あれから毎年、この日は必ずここに来てるの。優くんが来てくれたらなって思って」
咲きかけの桜を見上げながら、彼女は言う。
「それで、もしも来てくれたらまた誘って欲しいなって思ってたの」
もう一度僕の方を見て、彼女は今日一番の顔で笑った。
「明日は、優くんの誕生日だもんね」
声が出ず、代わりに溢れてきた涙を僕はハンカチで拭き続ける。
どんなに拭っても流れ続ける涙は止まらなかった。
最後のひとカケラがはまり、十年の時を経てようやく完成した僕の記憶のパズル。
再び抜け落ちないようにそっと心にしまい込むと、お弁当のご飯の上に小さな桜の花びらが一枚、暖かな春の訪れを感じさせた。
記憶のパズル しましま @hawk_tana
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