無辜の時間
柚木呂高
無辜の時間
夜が私の腹を鈍く押し込む。私は吐き気に襲われて暗い家の中を手探りで進む。こんな夜中に起きている人間なんか自分以外にはいないと思って窓を開けると、そこにはポツポツと明かりの灯る集合住宅の姿がぼんやりと見えた。私はベランダに出て急いで煙草に火を点ける。それを深く吸い込んで、目を閉じる。チカチカと目の奥が発火する感覚に集中する。薄く開いた口から煙を吐くと、外へ向かって激しく嘔吐する。マンションの4階から綺麗に弧を描いて落下していく吐瀉物が、街灯の光を反射してひととききらりと光る。それを見て私は笑ってしまった。孤独とはこうだ。胸に疼くかさぶたを優しく引っ掻くような痛痒い快さを貪り私は沈湎する。水を飲むと少し気分が落ち着いてきた。PCのディスプレイの明かりだけが部屋の中を照らしている。闇に目の慣れた私には眩しく、頭に刺さるようだ。私は床に置きっぱなしのコートを羽織ると、その光から逃げるように家を飛び出す。街灯のない暗い川沿いの道を早足に歩いて、広い公園に辿り着いた。遊具が物言わず佇んでいる。ふと、園内に一本だけ立つ大きな桜の木の方から物音がする。見上げると和服の女がひとり、木の枝の上に座っている。
「夜にこんな場所で遊びに来たの?朝まで待てば良いのに。」
「それはこちらのセリフだ。夜中に木に登る女なんざ気色が悪い。どうせ碌でもない自意識を抱えてるやつだろう。」
女は私の言葉を歯牙にも掛けずにただ足をぶらぶらを揺らしている。よく見るとその枝には首を吊る為と思われる縄が吊るされており、彼女の足の動きに合わせて踊っていた。夜中に見る縄はもっと不気味かと思われたが、それはまるでサーカスの小道具のようにちゃちで、朧げな夜の光と相俟って、いっそ美しかった。
「それ、使わないのかい?」
「あはは、動かない遊具を見てたら怖くなっちゃって。」
「朝になったら誰かがぶら下がったりして遊んでくれるかも知れない。」
「それはありがたい。」
女は木から飛び降りると私の側まで寄ってくる。近くで見る女はまだ20歳かそれよりも若いくらいの年齢に見えた。黒い真っ直ぐな髪と大きいが切れ長の瞳は美しく、特徴的なのは、彼女には右手がないことだった。手がないのに木に登るとは器用なことをするものだ。服が揺れるたびに微かにSANTAL 33の香りがする。年齢のわりに高い香水を付けている。母親のものか、それとも家が金持ちなのか。気に食わない女だ、裕福なのに死のうと思ったのか。私が不機嫌な顔をしていると女は私の顎を左手で掴み、自分の方に引き寄せた。唇が合わさる。柔らかさと冷たさが静電気のように体を駆ける。暫くそうしたあと、女は嫣然と私を石で殴り付けた。頭から血が一筋出ると、彼女はそれを指で拭って、自分のデコルテに沿って塗り言った。
「私はね、茉莉。」
これが彼女との出会いだった。
それから彼女との逢瀬はそんなに頻繁なものではなく、その時間の殆どが褥を共にするだけであったが、たまに一緒に海外に旅行に行くことなどもあった。ある年のインド旅行では、彼女は売り物ではない少年を買い、私とともに泊まっている宿に引き篭もり、その少年を相手に様々な退廃的な快楽を貪った。私は数晩に渡り行く宛もなく外に放り出され、仕方なく現地で知り合った旅行中の青年とバングラッシーを飲んで過ごした。遠く海外の夜はよそよそしく、マリファナの煙は優しく、それが私の人生の輪郭をハッキリと持たせるように滲んで心の淵を柔らかく撫でた。茉莉は毒婦だ。それは間違いがなかった。私は彼女の恥知らずで人の心を乱すような痴態を目の当たりにするたびに、心が痛痒い快さと憎しみに満たされた。いつも彼女を打ちのめしたいと考えていた。これが我々の十数年続いた関係だ。
ある日の夜、彼女は私の家に直接来た。私の口づけに彼女は無反応で返し、口は固く閉ざされていた。どうしたのかと尋ねると、にやにやと笑いながら友人が死んでしまったと言う。友人とは彼女が精神病院に入院しているときに知り合った人で、音楽を好み、明るく人当たりのよい子だった。少なくとも外見は。それが茉莉の用意した粗悪なMDMAで遊んでいる間に死んでしまったのだと言う。私はぎょっとして、彼女を家に入れると、何をしているんだと窘めた。しかし彼女は平気な顔をして言う。
「しましょう。」
私は問題の大小の判断がつかなくなり、いつものただ彼女を打ちのめしたいという感情に支配される。それは私の矮小で卑屈な魂が、自分の生存を賭けて生贄を求めているからだ。私は彼女といると孤独と嫉妬と憎しみで身が割かれそうになる。その感覚こそが、私の虚ろな日々で唯一生命力を生産する営みだったのだ。ただ相手の肉体を求める。
「出会ったあの日、私が18歳のとき、今の私を想像することが出来たかしら。あなたも私ももう30歳。思ったよりも人生と言うのは何も変わらないのね。」
夜、異臭で目を覚ますと全裸でヘッドフォンを付けてご機嫌にガンジャを吸う彼女が、自分の糞を私の体に塗りつけていた。私は直ちに吐き気に襲われて、その場で嘔吐した。茉莉はそれを見てけらけらと笑うと、糞の付着した手のない右腕で私の頭を優しく撫でた。私も何だか可笑しくなってしまい、釣られてげらげらと笑った。それは今までで唯一彼女に愛されていると感じられた瞬間であった。
やがて彼女は結婚して子供を生んだ。旦那はいい男で、彼女の性格や精神状態を慮り、彼女の気紛れを中心に行動してくれた。私は完全にお払い箱になり、連絡も年に一回か二回かする程度になった。会うこともなくなり、私の日常は十数年ぶりに凪いだ日々に戻った。何も起きず、ただ眠れぬ夜があり、ただ嘔吐をする日々。彼女は私などいなかったかのように、そしてあの浅ましい日々などなかったかのように、普通で優しい母親になった。私は彼女が作っていった日常の外に心が取り残されて、それなのに時間は凪ぎ、ただ自分が老いて醜くなっていくのだけが鮮明に感ぜられる。「深い印象は、煽情的なものか、暗く痛ましいものかどちらかだ。」とシオランは言った。PCのディスプレイの明かりだけが部屋の中を照らしている。私はその前に座って目を閉じる。私はようやく十数年間ずっと失恋し続けていたのだと知った。
無辜の時間 柚木呂高 @yuzukiroko
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