夏祭りとりんご飴(3)
そうこうしているうちに、公園の真ん中で盆踊りの音楽が流れてくるのが聞こえてきた。今年の祭りももう終わりらしい。
「ね、行こう」
「え?」
「行かないの?」
確かにあの時は盆踊りは踊らなきゃいけないもんだと思っていたから行ったが、今となっては別にわざわざ踊りに行かなくていいだろという気持ちがある。だが、
「行こうよ、ね」
「うんじゃあ行くか」
そこまで強く誘われて断るほどではない。
今回は前と違って彼女は最初から楽しそうに踊っていた。その様子は随分無邪気で昔と変わってないなあと思ってしまった。
盆踊りはそんなに長い時間をやらない。ひらひらと翻る彼女の赤い浴衣を、髪の毛を、見ているうちにあっという間に終わってしまった。これで彼女と別れるのは惜しい。何とか連絡先を交換できないだろうかと、人が去りはじめる広場に立ち尽くした。
「来て」
彼女はふわりと笑い、俺の手を引いて、公園から道路を渡り神社の方へと入って行った。冷え症なのかその手は少し冷たかった。祭りが終わりだんだんと人が帰るために神社の外に向かって流れる中を俺達だけがそれに逆らうように奥に向かう。人の波の中に高校の時の同級生を見つけたが、すぐそばで擦れ違ったにも関わらず、彼はまるで知らない人に会ったかのようにすいと関心なく視線は流された。
おかしい。
確かにすごく仲の良い相手ではなかったが、俺が女の子と手を繋いで歩いているのだ、からかいの言葉が一つあるか、そうでなくても二度見されるだろうと思ったのに。
おかしい。
この時間になって神社の奥に向かっていく俺たちに不審の目を向ける人が誰一人としていないのだ。誰もが先程の同級生のように関心もなさそうに、路傍の石でも見るように目を逸らす。
「なあ」
言葉にできない不安に駆られて前で俺の手を引く彼女に声をかけた。しかし俺が言葉を続けるより早く彼女の方が口を開いた。
「約束。覚えてる?」
歩きながら振り向きざまにこちらを見た彼女の切れ長の目が、酷く婀娜っぽく見えた。
「約束……」
無意識に口に出して繰り返しながら思い出すのは、夢の中で繰り返し響いた言葉だ。
『待ってるわ、ずっと待ってるわ』
彼女は何を待ってると言ったのだった?
足を止めた彼女が振り返る。彼女の背後にはあの時と同じように奥社へと続く階段があった。
ふっと、祭りの明かりが遠のいた。祭りの会場とここはそんなに離れていなかったはずなのに、後ろを振り返っても遠く遠くに僅かにオレンジの明かりが見えるのみだ。まるで薄幕を一枚隔てたように酷くぼんやりとして見える。人々のざわめきもガラス窓の向こう声のように不鮮明だ。世界で彼女と二人きりになったようにすら思えた。
そうなると昔、こうして鳥居の前で二人向き合ったことが鮮明に思い出させた。
「……大人に、なるまで待ってる。……大人になったら君と一緒に行く」
「正解」
ふわりと満面の笑みが浮かんだ。興奮のためか赤く染まった目元や嬉しそうにつり上がった唇が可愛らしいが、異常な雰囲気がそれを素直に喜べない。
「行きましょう、大人になったら一緒に行ってくれるって言ったでしょ? あのね、ちゃんとお父さんやお母さんにも紹介するわ」
楽しげに嬉しげに言葉を紡ぐ彼女にとてもついていけない。彼女が何を言っているのかと考える思考は全く実を結ばずただ空転する。俺が引いている様子に彼女も気付いたのか不思議そうな顔をした。
「人間は確か、ウタガキで伴侶を探すのでしょう? ウタガキじゃなくてカガイだったかしら?」
『ウタガキ』『カガイ』
最初は何のことか分からなかった。だが、前期でたまたまとっていた民俗学の授業で聞いた内容が蘇る。
『
盆踊りはもともと踊念仏から始まったと言われるけど、それと同時にこの歌垣という古代に行われた未婚の男女が夜に集まって求婚しあうという儀式から始まったという説もあるらしい。そのことを言っている。けど、そんな文学部の俺でも講義で初めて聞いたような内容を引き合いに出してくるこの子は何者だ? それに『人間』なんて言い方は、まるで……、
「あ、お母さんたちだ」
彼女が鳥居の向こうの石段の上を振り返って嬉しげに声を上げた。そちらを見てぞっと背筋が凍った。
無数に連なる朱色の鳥居を背景に、そこにいたのは白銀の毛並みの二匹の狐だった。闇夜の中で月の光がその姿を浮かび上がらせる。ギョッとして彼女に目を戻すと、彼女の背後にも美しい白銀の毛皮が見えた。美しい毛並みの、さらさらとした、尻尾。
人間じゃない。
まるで現実味のない美しい光景に、ザッと音を立てるように血の気が引く。
「あのね、私あの頃はまだ小さかったからびっくりしたけど、でも嬉しかったの。まさか人間に求婚されると思ってなかったけど、でも貴方優しかったし」
頬を染めて言う彼女は愛らしいが、とても喜んでいられない。
歌垣になぞらえて、彼女を盆踊りに誘ったことで俺が彼女に求婚して、そして成人するまで待っててくれと言ったと勘違いしているらしい。しかも両親同伴である。さらには祭りの明かりが随分遠くなってしまったこと、それからここに来るまで誰にも注目されなかった辺り、すでに現実から一歩外に踏み出してしまっているような気がした。
焦りながら言葉を考える。
「でも俺達、歌を交わさなかっただろう?」
本来歌垣はただ単に求婚するわけじゃなくて、和歌のような歌を詠みあってたはずだ。
「だってそんなのほんの昔だけで、どんどんしなくなったでしょう?」
その通りである。時代が下がるにつれて盆踊りは歌を介さないでという形になっていく。
「それに、色々くれたでしょう。綿菓子も、リンゴ飴も」
今朝の動物もののテレビで見た、オスがメスに食べ物をやるっていう求婚行動のことか……。
「でも、」
何とか逃げる言い訳を考えながら、後ろを振り返る。祭りの明かりはますます遠のいている。同時に現実が、日常が遠ざかっていくような気がした。いっそ繋がれた手を振りほどいて走れば逃げられないだろうかと考えた途端、それが分かったかのように、ぐっと両手が引かれた。いきなり引っ張られてバランスを崩しながら顔を正面に戻すと同時に、唇に柔らかいものが触れた。ゆっくりと彼女の顔が離れていき、淡く開いた唇が微かに濡れているのが見えた。先程まで浮かべられていたふわふわと嬉しげな表情ではなく、すとんと表情が抜け落ちた顔は、美人なだけに、また人間じゃないと知ってしまっただけに妙な凄味があった。
風が吹き、神社の境内や裏山の木々を轟々と揺らす。まるで大きな化け物が呻いているようで不気味だった。
「嫌?」
その音にかき消されそうな、囁くような声を紡ぐ唇は微かに震えていた。
平坦な表情と思ったが、それは違った。少し強張った、泣くのを堪える表情だった。
それに気付いてしまうともう駄目だった。今まで強固に拒否していた俺の心が揺らいでしまった。一度揺らいでしまうと傾いて行く心を止められなかった。
「歌垣に誘ってくれたのに」
耳鳴りがして祭りの音が聞こえなくなる。
「食べ物もくれたのに」
眩暈がして目の前の彼女しか視界に映らなくなる。
「約束、したのに」
切れ長の目尻からほろりと涙が一粒零れたのが止めだった。フワフワと地に足がつかないように思考が落ち着かない。ただ初めて会った時と全く同じで、この子が泣くのは嫌だと思った。
「ねえ行こうよ」
「……うん」
霞がかる思考の中で操られるように頷いてしまった。途端に彼女にふうわりと花が咲くような笑顔が舞い戻ってきて、これでよかったのだと酷く安堵した。
「行きましょう」
彼女が手を引くと、抵抗なく足が動く。握られていない左手から力が抜けて、袋に入ったりんご飴が石畳に落ちてカツンと音を立てた。鳥居をくぐった先でその音を聞いて振り返った。
もう、祭りの明かりは見えなかった。
* * * *
「待ってたの、ずっと待ってたの、やっと来てくれた、会いたかったわ」
* * * *
夏祭りの翌朝、町内会の役員達は神社の掃除にやってきていた。そこで女性が一人、神社の奥で袋に入ったりんご飴を見つける。
「まったく、食べ物を粗末にして」
そう文句を言ってゴミ袋に放り込んだりんご飴には大きくひびが入っていた。
了
夏祭りとりんご飴 小鳥遊 慧 @takanashi-kei
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