終末のピクニック

@thinnthinn

一章

 人工光の無い、星と月明かりだけの夜。

 それを劈く遠吠えで私は目を覚ました。

 ハンモックでゆらゆらと吊るされている寝袋から、私は片腕を外に出してまさぐった。

 凍るような気温を指先で感じ取りながら、いつでも手を伸ばせる位置にあるアサルトライフルを触れて確かめる。窓から差し込む月明かりが白い息を照らした。

 遠吠えは数分ほど複数の方向から響き、連鎖し、それが終わると辺りは沈黙した。

 張り詰めていた緊迫感もやがて静寂とともに緩む。次第に睡魔に襲われ、私は寝袋から片腕がはみ出したまま、意識を手放した。

 

 かつて鮮麗だった繁華街を彩るネオン管も、もう二度とその光を発することはないのだろう。


 遺伝子を犯されたカラスの鳴き声と朝日で、もう一度目が覚める。悴んだ右手の甲を頬に当てた。その冷えた右手で頭を掻きむしり、ハンモックから伸ばした足を床に接地させる。

 周囲を見渡す。暗く冷え切った水底に似た室内、そこに舞う微細な塵は光をキラキラと乱反射し続けていた。

 光の筋を辿った先の窓の先。植物と灰に侵食されたアスファルト路面にいくつかのビルの影が伸びているのが見えた。


 残り少ないガソリンストーブで湯を沸かす。そのちょっとした待ち時間に、私はハンモックやシュラフなどを撤収した。

 人類という地球温暖化の諸悪の根源が居なくなったせいか、気温が地球規模で下がって来ている。滅亡前にタブロイド紙で話題になった、ミニ氷河期にでも突入したのだろうか。偉い学者はこの灰が原因だと仰っていたが。


 湯を沸かし終えると、その熱湯の入ったカップにインスタントスープの素と、口腔内全ての水分を掻き攫う凶悪なクラッカーを割って投入した。

 空いたストーブで昨日の残りの肉に適当に火を通しながら、環境に悪い使い捨てスプーンでスープを啜る。


 いつまでこういった食事が食べられるのだろうか。出来上がった食事を手短に済ませた。ビタミン錠剤を酸化し切ったインスタントコーヒーで無理やり流し込む。

 防水加工の施された地図が纏められた、冊子状のバインダーを開いてしばし思索に耽った。いつもの様に携帯ラジオの電源を入れて、アンテナを伸ばし指定の周波数に合わせる。ノイズ混じりのアナウンサーは天気予報と降灰予報を告げた。関東地方は連日、晴れが続いているせいで、局所的な砂嵐(灰嵐)が起こる可能性があると。

 そういった予報に続いて、本日予定されている配給を淡々と読み上げた。


 ラジオを聞きながら本日の予定はどうしようかと、しばらく思案にふける。

 地図を右から左へ舐め回して確認すると、現在地の近くに居住区が有ることに気がついた。丁度食料と弾薬が心細くなってきている。私はそこに向かう意外に選択肢がないように思えた。

 私はギトギトのフライパンや小さな鍋を洗わずに、新聞紙を使って汚れを拭き取り、荷物をバックパックに収納した。

 酷い隈の上にゴーグルを被せ、今はない球団のベースボールキャップを深く被ると、フィルター式の防塵マスクを首から掛け、それらを身に着けた。

 そして、くすんだ白色のレインウェアの襟首に手を伸ばす。手探りで掴んだフードで、帽子の上から頭部を包んだ。


 大事な荷物を背負い、小さな廃ビルを後にした。

 コンパスと地図を片手に、一歩ずつ静寂の街に足跡をつける。

 灰が侵入しないようズボンの裾を入れて、その上から脚絆を被せた登山靴。

 それに踏まれた敷積もるふかふかの灰は、きゅっきゅっと音を鳴らした。

 ビルや建物を沿う様に吹く乾燥した冷たい風。それに連れられた僅かな灰の粒は、地面をノミが跳ねるよう移動していく。数多の足跡の凹凸を、少しずつ、撫でるように均して。

 自分の呼吸音や、防水生地の衣擦れの音以外は全て無機質な風の音ばかりで、生という存在が感じられない。

 誰かが付けた足跡にすら、生への接点を見いだせなかった。数日前に此処を誰かが通過したと思われる痕跡。それは生きている人間が居ることの証左なのだが、そのイメージがどうにも沸かない。私も数日前に此処を通れば、痕跡の主と会話することも出来たはずだ。しかし、その数日が、数百年、数千年前の気がしてうまく想像ができない。洞窟の壁画を見ている気分だ。


 見渡す視界も灰色と濃緑色に支配され、生の気配はまるで最初から存在しなかったかのよう。

 空にはいくつかの小さな雲が水色に浮かぶばかりで、太陽を遮るものも無い。しかし、理想的な天気であるというのに、地上では暗雲が垂れ込めた如く、暗くどんよりしていた。

 建築物によって凸凹に切り取られた、暗い蒼色と透き通る青色の境界線は、天国と地獄のもどかしい国境線にも見える。

 その青の世界は、綺麗事だけの見ていて何処か清々しい、負の感情が全く沸き起こらない、そういった平穏な世界だった。少なくとも私はそう感じた。

 一方蒼の世界は、その綺麗事の歪が廻ってきたようで、怒りや失望、どうしようもない理不尽、満たされない欲求の渇きで埋め尽くされていた。

 だがしかし、そのモノトーンに色彩を加えるものも居た。

 乱れた足跡の先に、原色の赤、緑、黄色。

 散乱した荷物と登山用のカラフルな衣で包まれた死体。その屍は、細いアルミパイプで作られた背負子を担いでいた。私は死者への敬意を忘れ、背負子を物色し始める。

 背負子に積まれたプラスチック製のコンテナボックスには、小さな穴が複数穿たれ、箱のロック機構には赤い手形が付着していた。それに反して、此処にある死体の手のひらはどれも清潔だった。傷を弄る前に絶命したのだろう。ただ、一人の死体はフィルムケースを握っていた。指先の死後硬直に、それに対する執念を感じながら、私はケースを死体から剥ぎ取った。


 銃弾が貫通した箱の内部は、灰混じりの赤い指紋と、遺体から漏れ出したゼリー状の血餅だけで特に目ぼしいものはなかった。

 緑色の屍が生前記した手記を拾う。私はそれをパラパラめくった後、興味を失い、ぼとりとそれを落とした。

 私は安らかに眠れと一瞥し、墓も作らずその場所を後にした。


 歩き続けると、謎の苔でむしたビルや灰の重みで倒壊した建物など、似た景色が延々と続いた。いくら注意しようが、そういう場所では方向感覚を消失し、現在位置も見失うこともある。私は地図と地形を照らし合わせることに気を使った。

 現在位置を一度見失えば、どうしてもアナログ的な解決方法を強いられてしまう。なぜならば、GPS衛星の幾つかが落下して以来、そのGPS信号は一日3時間程度しか繋がらず、日本国内の携帯電話基地局は稼働すらしていないためだ。


 数百メートル先に幹線道路が見えた。

 その道路は渋滞の末乗り捨てられた車が歩道にまで押し寄せていた。所々、玉突き事故を起こした痕跡も伺える。そうした車の隙間を縫うように、私は道路を横断した。


 名もない道路をしばらく歩き続けると、私の肩を後ろから掠めるように、猛スピードでニホンジカが駆けていった。蹴り上げられた灰が舞う。

 咄嗟に肩に掛けていた銃を構えて、後ろを振り向いた。

 奥の曲がり角から何かが飛び出した。

 それは哺乳類とも爬虫類とも見分けがつかない4足歩行の肉食生物だった。


 やり過ごすには距離が近く不可能だった。ライフルの安全装置を外すまもなく、数mまで接近したそれは私を視界に捉える。肉食獣は私の首筋にかぶりつくため、口を大きく開けて突進した。

 すんでのところでそれ躱す。右肩に牙が刺さった。

 肉食獣が持つ慣性は、私と肉食獣が合体することで共有され、低摩擦の灰に2本の引きずった跡をつけた。

 

 覚悟していたほどの激痛は感じず、それがむしろ逆に私を不安にさせた。

 肉食獣は肩に噛み付きつつ、前足で私の胸に体重を掛けた。重心の位置が大きく後方に移動する。私は噛み付かれたまま、よろけるように足を後ろへ動かしバランスを取った。

 すると肉食獣は、後ろ足を使って器用に私の後ずさりに追従した。私は再びバランスを取り戻そうと後ろにもう片方の足を移動させる。それを繰り返した。

 それは不慣れな社交ダンスを思わせた。

 はたから見れば、仲良しな幼児が協力しあってよちよちと歩いている。そうとしか見えないはずだ。

 実際は、私が一瞬でも止まれば次の瞬間倒れ、美味しく頂かれてしまう。直線の歩きやすい路面にだって限界は存在し、躓かない保証もない。

 頭の中で何故か「気休めの絶体絶命」という文章が思い浮かんで消えた。

 

 後退りしつつ、1mmも動かない右腕に代わり、左手を拳銃に手を伸ばした。しかし届かない。

 拳銃のホルスターは腰の右側にあり、背負い紐でぶら下がったライフルともたれ掛かる肉食獣が、左手の進路を塞いでいた。

 腰の後ろから、再度ホルスターに手を伸ばそうと試みる。しかし、大きなバックパックが邪魔して、触れることすら不可能だった。

 肉食獣の噛む力が更に強まった。予想を上回る激痛の波が遅れて、今更私を襲った。

 足がもつれる。

 心拍数は痛みと興奮で跳ね上がり、大音量の鼓動が周囲の音を上書きする。同時に、視界の端から徐々に影が落ちていった。

 体感の20秒後。視野の中心5分の1程度を、スポットライトあるいはのぞき窓のように残して、恐怖や緊張の不快な深い靄が私の周りを覆った。

 挙げ句、その視界の中心ですら焦点が定まらない。こうなるともはや痛みは忘れ、私は必死で回らない頭を回すことへ夢中になった。

 肉食獣が目をギラつかせたような気がした。


 私は死んだ視覚と聴覚に別れを告げると、触覚を頼りにああでもないこうでもないと、左腰の何処かに有ったナイフを鞘から引き抜いた。

 逆手で握ったナイフを肉食獣の脇腹辺りに数回突き刺した。嫌な感触がプラスチックとゴムの持ち手へ伝わる。

 肉食獣は怯み、なんとか私はその牙からの脱出に成功するが、その反動で私は灰の地面を倒れ転がった。粉塵の煙幕が舞い、咳き込む。

 

 段々と息を吹き返す視覚を頼りに体勢を立て直し、握力が死んだ震える左手で拳銃を抜く。

 安全装置を解除すると、引き金を引いた。

 発砲音は聞こえない。

 張り詰めた鼓動が、破裂する音の波を上回る。弾丸が発射されているか疑いたくなるような。

 しかし照星越しに見える銃口からの閃光と、ガシャガシャ動くオートマチック拳銃、右上に飛ぶ薬莢がそれを示していた。


 オートマチック拳銃のスライドは全弾撃ちきったことを伝えるが、弾は肉食獣の急所を突き抜けなかった。それをおぼろげな視覚から理解した。

 肉食獣はよろけながらも、また噛みつこうと飛びかかる。

 おぼろげな視界の時間軸は引き伸ばされ、元々不鮮明な画質が更に不鮮明にぼやけ始める。

 今度はそれを避けることに成功した。

 私は地面に両膝をつくと、ライフルの銃口を相手に向けて、その銃床を股で挟んだ。

 本来は銃の右側に有する安全装置を左手で解除し、レバーを手前に引いて、薬室に弾を込める。再び肉食獣が飛びつく前に、背負紐を左腕に巻き付け、銃を脇に挟み引き金を引いた。


 連続して飛ぶそれは、見当違いの空を貫いた。その反動と閃光、音は先程の拳銃と比べ物にならなく、肉食獣は怯む。

 次第に要領を掴み始めると着弾地点は収束し、最後には数十発放った内の一発が肉食獣を沈黙させた。

 肉食獣はゆっくりと倒れ、灰を暗い血で染めた。

 安らかに眠れ。

 私は一言呟き、肉食獣が動かないことの確認を取ると、ライフルの安全装置を掛ける。

 地面に落下した拳銃は軽く振って灰を落とし、元のホルスターに挿し込んだ。


 ぶらんとさせた右腕から、袖口を伝って流れる血が手袋を湿らせた。それを終えると、溢れ、こぼれ落ちた紅い雫は、水はけの良い灰に浸透し、模様を描いた。

 私はふと、空を見上げた。野蛮な空に見えた。


 傷の手当のため、路肩に放置された、灰の積もった無施錠のワンボックスカーに乗り込んだ。

 私は薄暗い車内の後部座席に腰掛け、片手で上着を脱いだ。

 その露出した右肩に、もぎ取ったバックミラーを当てる。血液で覆われた肩は、単四電池ほどの直径の穴がいくつか開いており、そこから血が溢れ出していた。

 幸い、バックパックや弾倉を収納するベストなど、肩に掛かるハーネスが重なって致命傷を避けることが出来た。

 ただそれでも傷が深い。私は水筒に入った水と歯ブラシを使い、傷口の灰や汚れを掻き出し、過度に化膿止め軟膏を塗り込んだ。

 バックパックから取り出した包帯状の止血剤を丁度良い大きさに切断し円筒状に丸め、傷口にねじ込む。ティッシュペーパーで鼻血を止めるように。

 食いしばった歯の隙間からうめき声がこぼれ落ちた。

 座席に挟んだバックミラーを頼りに、肩の裏まで及ぶ幾つかの穴をすべて塞ぎ終えると、なんとも言えぬ疲労と焦燥感に襲われ、しばらく手を止めて荒い呼吸と痛みで震える体を落ち着かせた。

 その上から包帯を巻いて圧迫する。右肩の可動域が制限されるが、更に上からダクトテープを巻いた。

 処置を終えたときには、辺りは自身の血液で汚染されていた。手の指紋やしわの溝に溜まった血は既に固まり始めているが、ハサミやナイフ、ライフルから残りの包帯、ありとあらゆるものに赤黒い指先のスタンプが押されていた。同様に肩に穴の空いた白い上着にも朱殷の模様で染められている。

 右の手先の感覚が戻りつつあった。私は散乱した物の片付けを始めた。

 それを終えて、消費した拳銃とライフルの最後の弾薬を、手元にあった汚れた歯ブラシの柄で弾倉に押し込んだ。


 「なにか」の物音で手が止まる。


 私は前部座席と後部座席の間の床にゆっくりと体を滑らせ、もぎ取ったバックミラーで車外を確認した。

 血の匂いに惹かれたのだろうか。サイやゾウを思わせる黒い生物が、数十m先で先程の肉食獣の死骸を啄んでいた。


 息を殺し、体勢を低くして、鏡越しに観察する。

 毛の無いひび割れた灰色の皮膚。そのひびからは、ピンク色の体液が漏れ出していた。体型はダチョウに似ているが、図体は先程の肉食獣の10倍以上はある。体高は今隠れている車の全長ほどあった。

 大きさだけならばアフリカゾウと同等かそれ以上だった。

 アフリカゾウ自体、対人用ライフルの口径では、よほどの運と知識がない限り殺せないだろう。もっと大きい銃が必要だ。

 そして私には、知識もなければ、運が悪く、ツキもない。現に今、負傷しているように。

 つまるところ、生物は一方的な存在だった。

 生物は、死骸を使って遊んでいた。

 今まさに目をニヤつかせて、四股を切り取り、内蔵をぐちゃぐちゃにして遊ぶその姿は、善悪のつかない子供特有の残酷さに似ている。

 だがここで隠れてさえいれば、いずれ生物は飽きて何処かへ行く。

 生物の目的が捕食か享楽かは定かではないが、飽く迄楽しんだ後、退屈な人形を丸呑みにして、また新しい玩具を探すため街をさまようはずだ。


 だがしかし、鳴り響く甲高い音が、私の意識を現実世界に連れ戻した。

 驚きのあまり私は体をビクつかせた。手にしたバックミラーは重力に従う。私はその音が車内から発せられたと気づくまでに数秒の時間を要した。それは、立て掛けていたライフルが倒れ、ワンボックスカーのハンドルの中心に衝撃を与えた所為だった。


 息を殺して、私は落としたミラーに手を伸ばした。

 自分の体が震えていることに気づいた。

 私は今、片側のドアに内側からもたれかかっている。その生物の居た方向に背を向ける形で。

 そしてゆっくりと慎重に、バックミラーを頭の上まで動かし、震える像に注視した。


 生物は、新しい玩具を見つけていた。

 わずか背後のそれは、目の後ろまで裂けた半開きの口。悪意に満ちた目ヤニだらけの大きな目は、ニヤついているように見えた。後ろに手を伸ばせばその生物と触れ合うことができそうだ。

 生物は側面についた眼球で車内を確認するために、その腐臭漂う大きな横顔をピタリとウィンドウにくっつけた。

 おおよその物を切り裂く凶悪な嘴と、ドアを隔てた私の脆弱な後頭部は、たった15cmと離れていない。ドア越しに振動が伝わった。それは今私が、車のドアにもたれ掛かっているのではなく、生物にもたれ掛かっていることと同義だった。


 衝撃が走り、体が数cm浮く。

 天井の高いワンボックスカーは、生物の追突で、起き上がり小法師のごとく2度大きく揺れ、その後横転した。

 私は狭い車内を転がり、体を打ちつける。数分も経てば全身に痣が浮かび上がる程度に。

 嫌な匂いが漂った。

 タンクから腐ったガソリンが漏れ出す。その黒い液体はシートをわずかに湿らせた。

 生物は横になった車体へ、ニワトリが地面を突っついてミミズを探すように、黄ばんだ嘴でガラスを貫いた。

 破片が無理な体勢の身体に降りかかる。

 このままではその長い首を使って、身をほじくられてしまうだろう。サザエの身を串で取り出すように。

 私はリアウィンドウに銃痕を数発空けた。熱を持った拳銃の薬莢が車内を飛び回る。座席に跳ね返った薬莢が、服の裾から侵入して私の皮膚を焼いた。

 私はそれに構いもせず、脱出用の穴を広げるため、ガラスを蹴った。

 そうこうしている間に、雁に似た黒い頭部が車内に侵入し、貧弱な貝の中身を見つける。

 私は牽制のために拳銃を生物に向け、祈った。


 すると生物は意外にも、車に潜り込む頭部を引き抜いた。

 銃という存在に恐れ戦いたのだろうか。

 途端、辺りは闇に包まれた。比喩でもなく、暗く冷たく。私は呼吸と同時に何かを吸い込み、大きくむせて咳き込んだ。

 灰だった。

 ガラスの穴隙からガラス質の灰が流入し、車内で渦を巻いている。やがて目が暗闇に慣れると、車外はほんのりとピンクの色を纏っていた。

 砂嵐だ。

 灰が空気中を舞い、太陽光を錯乱させ、波長の長い赤色の光で辺りを染め上げる。車内は既に真っ暗闇だ。私はこれ以上肺を灰で傷めないために、粉塵マスクで口元を塞ぎ、手探りで探し当てたヘッドライトで車内を照らした。

 頼りない明かりで、横転時に散乱した荷物をまとめ終える。しかし地図とコンパスだけが見当たらなかった。


 私は地図とコンパスに関連づいた記憶をたどった。あの肉食獣に襲われる前までは、確かにこの手で持っていた。ということは、肉食獣に襲われたその時、紛失してしまったのかも知れない。

 一応、予備のコンパスと地図は持っている。だが、亡失した側のみに書き込まれた情報を、無くすのは惜しかった。


 〇〇橋が崩壊した、〇〇トンネルが崩落、〇〇タワーが…… そういった類の情報と”縄張り”の情報。

 その縄張りは危険な野生動物のものではなく、人間のそれだ。

 終末世界だというのに愚かなる人間は争いを求めている。宗教、政治、利己主義。己の信念に突き動かされ、領土を主張し支配する。逆らうものには苦痛を与える。

 世界が崩壊する前と大して変わらないが。

 そして日本は災害も多い。一度に地形が変わるほどの災害は稀だが、治水が行われていない今、堤防が決壊し、街の道路が河川へと変化していることも珍しくはない。


 勢力は常に拡大し、分裂し、消滅する。地形だって結構変わる。だからどうせ地図も買い換える必要に迫られる。

 とは言っても、あの地図の価値は貴重であることに変わりなく、値段も胃が痛くなるほど高価だ。早々簡単には諦めきれない。

 そういった情報が記されていない予備の地図を暫し眺めた。

 地図を取りに戻る。そう決断するのに時間はかからなかった。もとより砂嵐の中、穴だらけの車の中で過ごすつもりもない。

 少ない銃弾で開けた穴の意味が問われるが、ガラスの割れた頭上のスライドドアへ目一杯力を掛けた。車の骨組みが歪んでいるようで、ドアは金属の擦れる鈍い音を発した。

 そうして開いた脱出口をよじ登り、横転した車の上に立って辺りを見渡した。


 空は赤から黒へ移り変わり、ヘッドライトの光線は僅か数mで途切れている。

 完全な暗闇。

 音は浮遊する灰が全て吸収しているのか、呼吸音と、体にぶつかって出来た風の音以外は何も聞こえない。

 聞こえなければ、見えない。

 頭がおかしくなりそうな闇だ。パニックでも起こせば楽になるだろうか。その闇を見つめるだけで、正気を維持することに疲れを覚える。

 しかしこの砂嵐では、たとえ何かを叫んだとしても暗闇に吸収され、何も、誰も伝わらない。

 目を見開いているのに見えないというのは中々にもストレスで、距離感のないそれは、黒い壁が鼻の先にあるのではないかと錯覚させる。まっすぐ前に伸ばした腕ですら、灰に光が阻まれてぼやけて見えた。

 この状況では地図を探すことは無謀だった。地図を見つける前に、自分を見失うだろう。

 この砂嵐はただの砂嵐ではなく、何か形容し難い魔力を有していた。長時間それに身を晒せば精神を壊すような、オカルト的存在の。

 

「シェルターを探さなくては」

 どこかこの灰をしのげる場所を探し、スープでも沸かせば、この恐怖から逃れ、失った幾つかの正気を取り戻せるのかも知れない。

 私は横転した車のダッシュボード下を物色し、見つけた発炎筒に火を灯した。ストロンチウムの炎色反応が野蛮に煌めいた。音を立て赤色の火花吐き出すその筒をテープで車のドアに固定した。

 最悪の時、半径15m程度の近さならこの車に戻って来られるはずだ。暗闇の中、真っ直ぐ歩く道標にもなる、とも信じたい。自分を信じられない今、その光は唯一信じられるものだった。

 

 つまずくことを恐れ、ゆっくりと、足先を擦り、一歩、また一歩と歩く。常に光を背後に置くため、何度も振り向きながら。


 数m先から筒本体の視認が難しくなり、その音ですら瀕死だった。

 9歩目では電池の切れかけた懐中電灯を思わせ、息を止めて聴覚を集中すると、微かな筒の呼吸が聞こえた。

 17歩目、何も喋らない夜空の星の如く、淡くゆらゆらと明滅を繰り返していた。背中に悪寒と焦りが走る。


 20歩目でようやく、暗闇から一台のセダン車が出現した。

 背中の光は目を凝らしてなんとか確認できる程度で、心のなかに安堵が立ち込めた。

 だがその期待を裏切るように、セダンには鍵がかかっていた。割って侵入することも出来なくは無いが、そうすると横転した車内とさほど変わらない。

 途方に暮れて、後ろを振り向いた。


 発炎筒は砂嵐のせいで、濡れた紙へ、薄い絵の具の雫を落とした如く、淡く滲んでいる。その滲んだ円の上部から、徐々に消えていった。消える瞬間、人型になって。


 私は原因不明の現象を前に硬直した。時計を確認すると点火から2分半も経っていなく、筒の中の燃料が尽きるには些か早い。かといって風やなんかで消えるほど軟弱でもない。

 私は網膜にわずか焼き付いた残像をたどり走った。チープでホラーな想像が頭を駆け巡る。それを否定したいがために、音も光もない世界を私は走った。

 50歩ほど走った頃、青白いライトの光が車の輪郭を鮮明に捉えた。

 横転した車。その見覚えのある車体の上に、見覚えのないブリキのバケツが置いてあった。

 私はそのバケツを手に取った。バケツには水が張ってあるらしく、それを感覚で理解した。

 ゆっくりと暗いバケツを覗き込むと、その中にはテープの纏わり付く発炎筒が水の中に浸かっていた。

「誰だ!」

 声は暗闇に響くだけだった。


 意図のわからない事象に、苛立ちを覚え、倒れた車のルーフを蹴った。そして都合の良い解釈を始めようとした。

 しかし解釈の受け付けない幾つかの矛盾に私は気づき、その場を走り去った。

 頭の中で私は叫んだ。「アノマリーだ!」と。



 息が上がり、歩幅が小さくなる頃。興奮は覚め、残った後味の悪い不安で私は酷く酩酊した。

 そして薄明かり灯る1台のバンと遭遇した。バンには配達業者のデカールが貼り付けられている。

 そのバンはオレンジ色の揺れる光を窓から漏らしていた。私は左手で拳銃を握った。腰を屈め、顔だけを出すように内部を覗く。

 座席のない車内では、一人の男がうずくまってランタンを見つめていた。

 私は拳銃の薬室に弾薬が装填されている事を再度確認し、その拳銃でガンガンとドアをノックした。

 物音に気づいた男がこちらに振り返る。

「誰だ…… ?」

 ドア越しのくぐもった声が聞こえる。

「怪しいモノじゃない、砂嵐のシェルターを探している。どうか入れてくれないか」

「……」

 男は沈黙した。

「別に野盗なんかじゃない」

 男は「野盗」という言葉に一瞬反応した。私は彼を説得しようと、「肉食獣を見かけた、一人より二人の方が心強いだろう」という旨の言葉を投げかけた。


「わかった、入ってくれ」

 彼は車のロックを解錠して私を招き入れた。

 拳銃をホルスターに差し、灰嵐のため素早く扉を開閉しバンに乗り込んだ。

 安堵とともに、全身が灰でジャリジャリとした不快な感覚に気がつく。

「あんた一人か?」

 男は言った。 

 男は足に怪我を負っているようで、添え木と包帯に血が滲んでいる。

「お互い様だろ」

 拳銃のホルスターを気にかけながら当たり障りのない言葉で適当に返す。

「この街には自分一人しか居ないと思っていた。あんた、歩荷…… には見えないな」

 男は孤独から開放されたようで、安堵した表情を浮かべた。

「環境調査のアルバイトだ」私は荷物をおろし、マスクとゴーグルを外した。

「一人で?」

「仲間が死んだからな。そっちは?」

「元歩荷だ。手負いになって、歩荷隊から置いてかれちまったがな」

 男は空の背負子を見つめて、「あいつら荷物は持って行くくせに人間は置いてきやがる」と一言ぼやいた。


「しかし、この火山灰には参るな。これさえなければ俺達は今も平然と暮らしていただろうに」

 男は私のフードに積もった灰を指差す。

「だな」

 私は一言つぶやくと、鉄の床板に腰掛けた。灰が内部まで侵入したバックパックから、ファスナー付きポリ袋に包まれたガスストーブを取り出した。彼に一杯いるかと聞き、2杯分の湯を沸かす。水筒は空になった。

 男は肉食生物に足をやられたらしく、鎮痛剤が効かないとぼやいた。

「鎮痛剤は持ち合わせていないが、麻薬なら持っているよ」私はフィルムケースを手渡すと男は困惑した。

 男はオレンジの光を半透明のケースに透かし、振ったりして、褐色の中身を確かめている。「あんた、それ吸うのか?」男は顔を引きつかせながら訪ねた。

 私は想像に任せると一言だけ答えた。

 ブクブク音を鳴らす熱湯をコップに注ぎ、粉末状コーンポタージュの素をかき混ぜた。彼はその間、刻まれた葉を前になにか葛藤しているようだった。男の前にスープの入ったコップをかざすと、男は名残惜しそうにそれと交換した。返却されたそれを私は貴重品入れ仕舞い込むと、もう片方のスープを啜る。

 そのまましばらく、沈黙が続いた。

「なあ、度重ねてすまないが、なにか面白い話でもしてくれないか」

 どうして。そう聞くと男は「痛みが限界だ、しかも目まで霞んでくる。それにこんな砂嵐では気が滅入ってしまうだろ。何より暇だ」そう言って、話を振った。

「くだらない話で良ければ」

 私は語りだした。


 それは私が初めてのアルバイトをした時だった。日銭のために狩猟をしていた頃。猟友会からある男と一緒に狩猟をしてくれないかと頼まれた。

 その男は元々単独猟を行っていたが、流石に一人では何か有時の際困ると会から揶揄されていた。

 だが男は少々変わり者で、誰も彼とは組みたがらない。そこで当時、同じくして単独猟をしていた私に声がかかった。

 私も気が乗らなかったが、仕方なく彼と組むことにした。


 彼が変人扱いされる理由は、所構わず生物を殺そうとする欲求…… そういった癖によるものだった。そして彼は、キリスト教徒でもないのに必ず、殺す行為の前後に「安らかに眠れ」とつぶやくことを欠かさなかった。

 それ以外は案外普通に見えるが、故に異常性を引き立てていた。


 意外にも、彼との狩猟はうまく行っていた。猟の成果もそれなりで、なおかつ彼は銃の名手だった。

 だがおかしなことに、彼は罠猟を好んだ。そしてできるだけ、罠にかかった獲物を銃以外の方法で殺害した。弾薬の節約だと彼は言った。


 ある日、私は彼にその癖のことについて聞いた。

 なぜ無意味やたらに事を為すのか。


 彼はこう答えた。

 この崩壊した世界では、全ての人が常に怯えている。いつ死ぬかわからない、いつだめになるかわからない。それはたとえ女を抱こうが、賭博をしようが、常に脳裏から離れることはない。ただ、自分は何かを殺す時だけ。ほんの一瞬だけ、そいつが頭から居なくなる。

 その一瞬の安息のために、自分は殺してしまうと。

 彼は私に「お前は俺が悪だと思うか?」と聞いた。私は「わからない」と答えた。

 彼は言う。

「自分ではいたずらに殺している訳じゃない、と言い切れる。だが殺される側は、快楽のためだろうが、食料、自衛のためだとしても、だから何だという話だ」

「動物に『あなたは人間のために死んでください。私達も心苦しいのですが……』と言った所で、動物なんかに言葉が理解できないだろ? その上死ぬ時は、人間が死ぬ時と対して変わらない苦痛と恐怖を味わう訳だ。理不尽だ」


「あいにく俺は菜食主義者ではない、むしろその正反対だ。だから悪かも知れない」


「だが俺がこうなったのも、全てあの糞アノマリーの所為だ」

 そういった事を、酒の回った口で彼は並べた。


 男は最初から単独猟にこだわっていた訳では無く、巻き狩りのグループに所属していた。

 ある日男は仲間と共に猟へ向かうと、野盗とアノマリーに遭遇した。

 野盗はアノマリーに気づいておらず、アノマリーはただこちらを見つめるだけで危害を加える素振りは見せなかった。

 野盗は銃を猟師たちに突きつけ、金銭食料弾薬を要求した。

 本来、野盗はわざわざ脅すという面倒な行為はしない。男は脅されても命があるだけ温情なのだろうと、その時呑気に考えていた。

 しかしある猟師と、野盗の一人が揉めた。

 二人は罵倒を浴びせ合い、胸ぐらをつかむ。

 取っ組み合った末、猟師が衝動的に相手を殺してしまった。


 そこから戦闘が始まった。

 野盗にしてみれば、仲間を一人殺されてそのまま逃げ帰るわけにもいけない。

 猟師からすれば金品を奪う野盗は悪であり、正当性はこちらにある。戦闘が始まって仲間が一人死んだ事で引き返すことは出来ない。互いに、相手を殲滅するまで。


 仲間が一人死ぬたびに、その必要性は高まる。報復、成果、そして興奮。そういった物が醜く混ざり、引き金に掛った指先を動かす。

 男はこんな状況でふと、あのアノマリーはどうしているのか気になった。銃声と叫び声の中、それが居た方向に注意を向ける。すると、あいも変わらずアノマリーはこちらを見つめていた。


 それ以降の記憶は曖昧だった。結論的には、野蛮な女神は嘲笑ったのだ。猟師たちに。

 そして次の日から、生き残った猟師達は癖を発症した。神に中指突き立てたような癖を。


 男は話題を先程の「自分は悪なのか」という話に戻した。

 男と同じ癖を発症した別の猟師の話。


 猟師は正義感の強い人柄だった。彼の猟には理念が有った。

 食べるために殺すこと。獲物の食べられる部分は極力全て食べること。食べ物を残さず食材に感謝と敬意を忘れないこと。

 彼は食べるために家畜を殺すことは仕方なくて、富豪が娯楽でキリンやシマウマを打つのは許せない。そういった珍しくもない、至極一般的な価値観の持ち主だった。


 猟師はその日からぶくぶくと肥始めた。

 そして数カ月後、その猟師は身ぐるみを剥がされて路地裏で見つかった。


 男は言った。

 遊びで殺されることも、生きるために殺されることも、殺されるのには変わりがない。上でどうこう議論したって無意味だ。

 食べるために殺すことは悲しいけど仕方ない。動物を遊びで殺すのは悪。不快なだけの虫を殺すのは良。今更誰が差別主義者を差別できようか。

 それはただの自己満足に過ぎないのだ。

 善も悪も評論家様が決めることで、実際はただの事象、現象でしか無い。


 だからこそ男は、男自身が悪であると断言した。自分の正義感と行動が乖離しているのだ、それは紛れもない悪人だろうと。


「それで、どうしたんだ」

 足に包帯を巻いた男が私に問いかける。

「どうなったと思う」

「全く検討もつかないね」

 困惑する男の瞳を私は見つめた。瞳孔の開きかけた、焦点の定まらない黒い目を。

 私は語りを続ける。


 彼は死んだ。

 彼の最後は、ある日の夜だった。

 彼が盛り上がった布団を前に、片手に銃を握っていた時だった。

 彼は盛り上がった布団を前に、一言呟いた。


 彼は驚愕した。

 彼が呟いた数秒後に、後ろのクローゼットの影から誰かが声を立てたからだ。

 彼が最後に聞いたのは、「安らかに眠れ」その一言だった。


「どういう事だ?」

 そう疑問する男に拳銃を向けた。

「……」

「安らかに、眠れ」

 男は沈黙の末、なぜそうするか理由を聞いた。


 安心の為に殺す。

 生きるために殺す。

 遊ぶために殺す。

 私は。

 もう一つ、別の言葉を呟くと、私は引き金を引いた。

 灰の噛んだ拳銃は、その撃発を終えると、音を立てて故障した。


 撃たれた男の背後に、顔が浮かんだ。ひび割れた顔が醜く笑っていた。

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終末のピクニック @thinnthinn

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