後編

「えー、ジーナさん、とおっしゃいましたね。初めまして、私は大魔王さまの側近として古くからお仕えしている者です」

 童貞です、という言葉は飲み込んだ。

『あ、そうだったんですか。こちらこそ初めまして。大事なお仕事の話の途中だったんでしょう? 水を差してしまって申し訳ありません』

「いえ、気になさらないでください。ところでジーナさん、大魔王さまの仕事ぶりというものを実際に見てみたくはないですか?」

『おい、お前何を言って……』

『ああ、そうですね。お会いするのはいつもオフの日ばかりでしたし、アドラメレクさまの大魔王としてのお姿は見たことがないので、凄く興味があります』

「でしょう? 実は私達、今地球という星の征服に取り掛かろうとしているのですが、どうです、良ければジーナさんも今から大魔王さまが地球を支配下に置く瞬間を見に来ませんか?」

『おい、いい加減にしろ! ジーナちゃんごめん、ちょっと待ってて!』

 大魔王がジーナとの通信を保留状態にする。

『てめークソ童貞この野郎、何考えてんだ! 今ジーナちゃんを地球に呼んだら俺がパンイチで下半身晒してる痴態を見られちまうだろうが!』

「だからこそですよ。それが嫌ならさっさと彼女との通信を切って、地球の征服に集中してください」

『チッ、可愛げのない奴だな……。わーったよ、ちゃんとジーナちゃんに事情を説明して、会うのはまた後日に……いててててて!! あああ!!』

「え、大魔王さま? どうしました?」

 突然魔法陣から大魔王の張りつめた叫びが飛んできた。

 ローブの男の声色こわいろにも動揺が浮かぶ。

『し、召喚サークルが……! 痛え、痛えええ!!』

「サークルがどうしたんです!?」

『し、収縮を始めた……!』

「ええ!? あっ……!」

 思い出したようにローブの男が声を漏らした。

「そうか、あのサークルは一定の時間が経つと自動で収縮して消滅するんだった……!」

 男は大魔王の下半身が見える場所まで戻り、空に顔を向けた。

 露出した大魔王の肉体に召喚サークルが食い込み、そこから少しづつ血液が溢れ出し始めていた。

「大丈夫ですか大魔王さま!」

『だ、大丈夫じゃない!! 滅茶苦茶痛い! クソ、身動きが取れねえ……! 早く、早く何とかしてくれ!』

 大魔王は巨大な足をバタつかせている。

「そ、そう仰られましても、こんなシチュエーションは初めてで、一体どうすればいいのか……!」

『やばい、これは本格的にやばいぞ! シャレにならねえ! 死ぬ! マジで死ぬ!』

「あわわわわ、えーっと、えーっとえーっと! ……あっ!」

『何か思いついたのか!?』

「申し訳ありません大魔王さま、私の召喚魔法陣は完璧だと言いましたが、そういえば一文字書き忘れがありました! 今気付きました、本当に申し訳ありません!」

『だから言っただろ! じゃなくて、今はそんなことどうだっていいんだよ! このままじゃ俺の体が真っ二つになっちまう! がああ、熱い、熱いいいぃ!』

 召喚サークルの食い込みが着実に深まっていく。

 上空の大魔王の異変に街の人々が気付き、再びその行き交う足を止める。

「どうしたんだ? 下半身が急に暴れ出したぞ」

「あれ……血が出てねえか?」

「ママ。あのイチモツ野郎に何があったんだい」

「そんな急に大人ぶらなくてもいいのよ。そうねえ、誰かが懲らしめてくれてるんじゃない?」

『だから俺はチンチンじゃねえ! てめえクソガキ、後で殺すからな! マジで殺す!』

「落ち着いてください大魔王さま! あの子供には私が後で教育を施しますから、今はご自身の心配を!」

『あ。やべえわ。痛すぎてもう逆に痛くなくなってきたわ。大魔王ズ・ハイだわこれ。あは! あは! あっはははははは!』

「まずい、大魔王さまはもう限界だ……! 何か、何か策は……!」

 ローブの男はおろおろとその場を回り続けている。

「……くそっ、ダメだ。何も思いつかない……!」

 男はとうとう膝をついた。瞳からは諦めの涙が零れ始めている。

「申し訳ありません大魔王さま。私が無能なばかりに、こんなことになってしまって……! 申し訳ありません、本当に申し訳ありません……!」

 男は悔しそうに何度も地面へ頭を打ち付けた。

『童貞……』

 その様子を見て思うところがあったのか、大魔王は次第に落ち着きを取り戻し、そして深く溜め息をつく。


『…………ったく。顔を上げろ、童貞。それでも俺の部下か』

 大魔王の静かな声が響いた。通信用魔法陣からではなく、上空の下半身からローブの男に直接語り掛けている。

「大魔王さま……?」

 男がゆっくり首を上方へ向ける。平静を取り戻し、再び威厳を放つ下半身がそこにあった。

『……思えば、俺は昔からお前に何かと負担をいていたな。厳しい言葉も多く投げかけてきた。内心苦しい思いもさせてしまっていただろう。おそらくこれはその報いが来たんだ』

「大魔王さま……そんな……」

『今、お前の涙を見て気付かされたよ。こんな俺にずっと従い続けてくれて、俺のために涙まで流してくれる。俺は、本当に良い部下に恵まれていたんだな』

 召喚サークルの縮小は止まらない。

 大魔王の肉体はすでにかなり深くまでえぐれてしまっている。しかし、大魔王はもう痛がる素振りを見せなかった。

『最期にせめて、一言謝らせてくれ。……本当にすまなかった』

「大魔王さま……。最期なんて言わないでください! 私が、私が何とかしてみせますから!」

『いや、もういいんだ。俺は大魔王の器じゃない。もっと周囲のことをおもんばかれる者が上に立つべきだ。俺は、このまま死を受け入れよう』

「何を仰るんですか……!」

『一つだけ、頼みがある。お前は俺のようにはなるな。女に溺れ、部下に強く当たり、人間共の前で醜態をさらすような魔王にはなるな。俺の後を継ぐ上で、それだけは約束してくれ』

「後を継ぐ……? それはどういう……」

『言葉の通りだ。これからはお前が魔族を率い、世界を掌握しろ。地球征服はその第一段階だ』

 大魔王が小さく笑った。

 ローブの男は膝をついたまま、ブンブンとかぶりを振る。

「嫌です! 私は大魔王さまの側近、あなたに尽くすために生まれてきた。私こそ大魔王の器ではありません! 玉座にふさわしい大魔王は、あなたをおいて他にいない!」

『おいおい、あまり俺を困らせるな。大丈夫だ、お前ならやれる。……頼んだぞ。大魔王アドラメレク』

「待ってください! 大魔王さま!」

 大魔王の肉体に沈み込んだ召喚サークルは、ついに収縮を終え、大魔王の下半身を上半身から完全に分断した。

 おびただしい量の血液と共に、その下半身が東京の街へちる。

「大魔王さまあーー!!」

 複数の高層ビルが下半身に巻き込まれて崩落し、人々の悲鳴と叫び声が街を包んだ。

「そんな……そんな……!」

 ローブの男は茫然自失に陥った。腰を上げられないまま、延々と涙を流し続ける。


 自身のミスのせいで大魔王が命を落とした。

 悠久とも呼べる時間を大魔王のために捧げてきた男にとって、その事実はあまりにも重たく、残酷だった。

 男は絶望し、体を震わせる。


 そんな折だった。突然、曇天の直下に轟音を伴って巨大な魔法陣が出現したのは。

 大魔王の召喚魔法陣とは異なる、ローブの男も見たことのない魔法陣だった。

 街の視線がまた上空に集まる。

「なん、だ……?」

 ローブの男が呟いた。

 そして彼の疑問に答えるように、巨大な魔法陣から何者かが姿を現す。

 きめの細かく、淡雪のように白い足。しかしその足もまた、東京の建物群など造作もなく潰し回れそうなほどに大きかった。

 優雅に、妖艶に、そして圧倒的な存在感を纏って彼女は降臨する。

 体は露出の多い、しかし禍々まがまがしさを漂わせる鎧に包まれている。

 ほむらを思わせる色合いの長髪が、吹き抜ける突風になびいた。

『……ここが地球か』

 つやのある声音こわねが降り注ぐ。

 ローブの男を含めた街の全員が、彼女に目を奪われていた。

「ジーナ、さん……?」

 男は戸惑いを隠せない。

 ジーナは彼の魔力を察知し、その姿を目視すると、キッと引き締まった表情で問い詰めた。

『あの粗チンはどこ』

「えっ? そ、そちん、とは?」

『このわたしとの通信を保留にしたままいつまでも戻ってこない、あの粗チンよ! どこにいるの!』

 あっ。

 ローブの男は全てを察した。

 高飛車たかびしゃな本性を隠していた女が、自分のことをすっぽかした男に腹を立て、その男の元に押し掛ける。その構図だった。

『我慢して耳障りな音楽をずーっと聞きながら待ってたのに、いつまでも戻ってこないんだから! ほら、そこの童貞! あいつはどこ。早く教えなさいよ! この星にいるんでしょ』

「あ、えっと、その、誠に申し上げにくいのですが、実は色々ありまして」

『まどろっこしい! どこにいるか、それだけをさっさと答えなさい!』

 ジーナがローブの男の周囲に文字通り雷を落とした。

「ひいい! だ、大魔王さまは亡くなりました!」

 男が反射的に背筋を伸ばしながら答える。

『亡くなった? どういうこと?』

「実は……」

 男はジーナに事のいきさつを話した。


『……はあ? 何それ。クソマヌケな死に方じゃない、マジありえないんだけど。ていうかもはやあんたが殺したようなものでしょ』

 その言葉が男の心臓に突き刺さる。また涙が零れてしまいそうだった。

『で? 死体はどこにあるの?』

 ジーナの問いを受けて、男は大魔王の下半身が墜ちた方角を指した。

『……ほんと無様な死に方ね。一瞬でもあいつに心奪われた自分が恥ずかしいわ』

 ジーナが大きく溜め息をついた。

『それで、あんたが大魔王の後継者になるっていうの?』

「ま、まあそうなるみたいですが……」

『みたいって何よ。あんたが大魔王になったら、わたしも形式上はあんたの部下になるってことでしょ? ありえない。童貞の部下になるとかマジでありえない。マジで』

 ジーナが汚物を見るように顔をゆがめる。

 男のメンタルはもはやズタボロだった。

『……しょうがないわね。ちょうど平凡な毎日に飽きてたところだし、わたしが大魔王になってあげるわ』

「え?」

『何? 不満でもある?』

「い、いえ。滅相もございません」

『よろしい。じゃあ、早速この星の征服に取り掛かるわよ』

「あ、あの」

『ん?』

「ジーナさん……いえ、ジーナさまが大魔王になるということは、お名前も大魔王アドラメレクさまに改められるということですか?」

『そんなわけないでしょ。なんでこのわたしがあんな粗チンの名前を継がなきゃいけないの。……その名前はあんたがあいつから託されたんでしょ。どうせあんたも粗チンなんだろうし、お似合いじゃない。……あんたが名乗ればいいんじゃないの』

 ジーナは特に興味なさげな風を装って言った。

「……分かりました。ありがとうございます、大魔王さま」

『どっちに言ってんのよ』

 ジーナはわずかに口角を上げた。

『ほら、満足したんなら早く立って! さて、忙しくなるわ』

 男は涙を拭いて立ち上がった。

 ――今度こそ、完璧にやり遂げる。二度とあるじの顔に泥を塗るような真似はしない。

 そしてローブの男――アドラメレクは、新たなる大魔王、ジーナの降臨を見届けた。

『無力で矮小わいしょうな人間共よ! 我は大魔王ジーナなり!』

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大魔王降臨 ~降臨中に上半身がつっかえた~ 宜野座 @ginoza

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