大魔王降臨 ~降臨中に上半身がつっかえた~

宜野座

前編

 1999年7の月。快晴の東京上空に、突如暗雲が立ち込め始めた。

 稲妻を伴ったその分厚い雲は、見る見るうちに青空を塗り潰していく。

 異様な現象に人々は思わず足を止める。街中まちじゅうの視線が曇天に向けられていた。

「ついに、あのお方が復活する……!」

 漆黒のローブに身を包んだ男が、静かに歓喜の声を上げた。

 溢れかえる人混みの中でも異質の存在感を放つその男だったが、人々は彼のことを気にする様子もなく、ただ上空の変化を見つめている。

「さあ、今こそ現出げんしゅつの時!」

 男が諸手もろてを虚空に掲げた。

 呼応するように、曇天の直下へ強烈な光を帯びた巨大な魔法陣が現れる。五芒星の紋様の周りを、見慣れない文字が躍っている。

 その凄艶せいえんな魔法陣を目にし、人々の顔には驚愕と困惑の色が浮かんだ。

 何だ? 何が起こるんだ? 口々に湧き上がるその疑問の答えを知るのは、ローブの男ただ一人。

おののけ人間共! 貴様らの命運はここに尽きる!」

 街の至る所に雷が落ちた。

 多数の悲鳴が上がるがその声もすぐに、上空で回転を始めた魔法陣の轟音に掻き消される。猛烈な台風の暴風域に踏み込んだかのような音。

 程なくして、閃光が街を駆け抜けた。人々は思わず目を覆う。

 しばらくののちに轟音が止み、視界を取り戻した人々が上空を見やると、魔法陣は姿を消しており、代わりに街の一角をまるごと飲み込めそうなほど巨大な暗黒の穴が空を穿っていた。

 一時いっときの静寂が訪れる。街の全員が、固唾を飲んでその暗黒に視線を注いでいる。


 ――そして、それは現れた。

 巨大な足のようなものが、暗黒から生えてきたのだ。

 人間の足のようだが、それにしてはあまりにも大き過ぎる。東京の高層ビルも簡単に踏み潰せてしまいそうなほどの両足が、ゆっくりと暗黒から降りてくる。

 あまりの現実味の無さに、皆立ち尽くすしかなかった。理解しようとしても脳が追い付かず、人々は呆然とその光景を見守っている。

「ああ……! 大魔王さまだ……!」

 一人だけ恍惚の表情を浮かべるローブの男。彼は溢れ出さんばかりに目を潤ませている。

「大魔王さま! 大魔王さまあ!」

 呼び声に引き寄せられるように、上空のそれは降り続ける。

 足には何も纏われていないが、腰回りは純黒の、人間の衣服で例えるならば海パンのようなもので覆われており、股間は精力旺盛な人間男性の如く膨らんでいた。

 続いて、綺麗に六つに割れた腹筋が現れた。暗黒の穴一杯に広がる腹筋。

 人々はいよいよ自分が何を見ているのか分からなくなった。これはもしや夢なのかと、頬を思い切りつねる者も続出した。広がる痛みに、皆が一様に顔をしかめる。

 そして腹筋に続き胸筋がチラリと姿を見せた所で、巨大な肉体の降臨が止まった。

 再び静寂が街を包む。

「……ん? 大魔王さま?」

 ローブの男が諸手を掲げたまま首を傾げる。巨大な肉体は反応を見せない。

 しばらく待っても動きが無く、人々は次第にザワつき始めた。

「ど、どうしたんだ?」

「ていうかあれ何なの? 人?」

「あれじゃない? ほら、ノストラダム何とかの恐怖の大王」

「スぐらい覚えろよ」

「マジか、あの予言本当だったのか」

 そこからさらに時間が経ったが、上空の肉体が動く気配は一切ない。

 不審に思ったローブの男は人気ひとけの少ない所へ移動すると、自身の目の前に小さな魔法陣を展開し、その魔法陣に「大魔王さま? 聞こえますか?」と問いかけた。

「大魔王さま? 聞こえてますか? 大魔王さま?」

『つっかえた』

 魔法陣から低く、威厳のある声が返ってきた。

「は? 何ておっしゃいました?」

『つっかえた』

「つっかえた?」

『ああ』

「つっかえたって?」

『召喚サークルが小さ過ぎて、胸がつっかえた』

「…………嘘ぉん……」

 男は固まった。気まずい沈黙が二人の会話を支配する。

『……お前さ、ちゃんと魔法陣確認した?』

 大魔王が先に沈黙を破った。

「あ、当たり前じゃないですか! もしや私を疑っておられます!?」

『いや、だってそれしかないじゃん。お前昔からちょいちょい魔法陣の書式間違えるもんな』

「失敬な! 確かに昔は時折ミスすることもありましたが、今回の魔法陣は完璧です! むしろ大魔王さまが大きくなっただけなんじゃないですか!?」

『はあ? 何お前俺を疑ってんの? この歳でいまさら体が成長すると思う? どう考えてもお前のミスだろ。何が完璧ですだよ、完璧な魔法陣だったら体がつっかえるなんてありえないし、こんな変態みたいな恰好で召喚もされないだろ。何だよこの恰好ドレアムかよ』

「うぐぐ……」

 早口の捲し立てへの反論が思い浮かばず、男が歯ぎしりをする。

「……分かりましたよ、じゃあその魔法陣閉じて書き換えるんで、一旦戻ってください」

『戻れないから問題なんだよ。さっきからずっと試してるが、どうやっても暗黒次元に戻れない。身動きが取れないんだ。これも恐らく書式ミスのせいだろうな。あーあ、お前のせいであーあ』

「じゃあ、どうしろって言うんですか! 召喚サークルの大きさを変えるには魔法陣を書き換えるしかないし、それができないんであればもう手詰まりですよ!」

『逆ギレすんなよ。まあ落ち着け、確かに上半身はつっかえてしまったが、人間共に俺の存在を知らしめることはできた。後は口でテキトーに脅し文句言っておけば勝手にひれ伏すだろ』

「……確かに、巨大な下半身が脅し文句言ってくるのもなかなか恐ろしい光景ではありますけど」

『だろ? 俺の体をどうするかは奴らを屈服させてから考えればいい。だからとりあえずお前は急いで俺の声を人間に聞かせるための魔法陣を書け。それくらいはできるだろ?』

「……承知しました。では、少々お待ちを」


 ◇


『できたか?』

「はい」

 答えると、ローブの男は上空に向けて小さな魔法陣を放った。淡い光を帯びたそれは一直線に大魔王の元へ向かう。

 そして大魔王の足元に触れた魔法陣は粒子状に分解すると、彼の体へ吸い込まれるように消えていった。

『よし。これで人間共に声を届けられるな。まあ、なんだかんだご苦労だった。後はゆっくり見てろ』

「はっ」

 男は通信用の魔法陣を消滅させ、再び人混みの中へ戻った。

 喧騒の中には「下半身」「大王」「もっこり」などの言葉が飛び交っている。

 そして人々にならうように、ローブの男は上空の大魔王の下半身へ顔を向けた。

 曇天に穿たれた暗黒から生える下半身の周りを、ヘリコプターが飛び交っている。

 好奇心旺盛なメディアが、他社に負けじと一早く飛び出してきたようだ。

『無力で矮小わいしょうな人間共よ……我は混沌より出でし大魔王なり……』

 冷徹で荘厳な大魔王の声が、街中の空気を震わせた。 

「さすが大魔王さま。一気に街の空気が変わった……」

 ローブの男が感嘆の声を漏らした。

 大魔王の声に対し、街の人々も反応を見せる。

「下半身が喋ったぞ……」

「大魔王だって……。やっぱり、あれがノストラダム何とかの恐怖の大王なのか……」

「だからスぐらい覚えろって」

「ママー! チンチンが喋ったよ!」

「こら! チンチンじゃなくてイチモツって言いなさい!」

『我はチンチンではない……。ノスなんとかかんとかラモスでもない……。我が名は大魔王アドラメレク。全ての次元を束ね、掌握する者なり――。愚かな人間共に命ずる。……ひざまずけ。そして崇め、讃えよ。貴様らの新たなる支配者を。今この時より、地球は我の所有物となるのだ!』

 大魔王の宣告が轟く。共鳴するように稲妻が分厚い黒雲こくうんの中でほとばしった。

 人間達は互いに顔を見合わせながら、時折目をパチクリとしばたたかせている。

「ふふ……。人間共め、恐怖のあまり言葉を失いおった!」

 ローブの男が腹を抱えた。

「くっくっく……、やはり恐怖に打ち震える弱者の姿は笑えるなあ!」

 おかしくてたまらないというように笑みを零す男。

 そこにまた大魔王の声が響いた。

『間違っても我に抗おうなどと考えるな。仇なす者は業火によって骨片一つ残さぬほどに焼き尽くされると肝に銘じよ。改めて告げる。我が名は大魔王アドラメレク。弱き人間共よ、我のもとに跪くのだ!』

 その声を聞き届けて、ローブの男が拳を握る。

 ――よし。完璧だ。この威厳、この威光。

 これで人間共は皆大魔王さまにひれ伏すだろう。上半身がつっかえながらも、大魔王さまはやり遂げた。さすがは我らが魔族の頂点に君臨されるお方だ!

 さあ人間共、跪くがいい。こうべを垂れ、大魔王さまに忠誠を誓うのだ!

 男が人々に目を向ける。

 期待とは裏腹に、ついさっきまで上空の下半身に興味津々だった人々は、何事もなかったかのように再び街を行き交い始めていた。

「……えっ、ウソウソ何で? おかしくない? ねえちょっ、そこのお兄さん! 止まって!」

「な、なんすか」

 男に声を掛けられた青年が、怪訝けげんそうな表情を携えながら答える。

「何で、どうして跪かないの? 今の言葉、聞こえてたよね?」

「いや、だって、所詮下半身にあんなこと言われてもねえ。初めはちょっとビックリしたけど、あの状態で話し始めたってことは多分あれ以上降りてくることができないんだろうし、そんなマヌケの言葉なら別に気にしなくてもいいかな、って……」

 青年はそこまで言うと小さく会釈をし、そそくさとその場を離れていった。

 男は彼を呼び止めようと手を伸ばしたが、青年はすぐ人混みに紛れてしまった。

 溜め息をつく男。あるじをマヌケ呼ばわりされたことに憤りを覚えたが、その感情をぶつけたい相手はすでに視界から消え去ってしまった。

 クルリと振り返ってから、首を大魔王の下半身へ向ける。見事に人々からスルーされたその下半身には、何とも言えない哀愁が漂っていた。

 それから男は再度人目につかない場所へ移動すると、大魔王との通信用魔法陣を展開させた。

「あー、えーっと、大魔王さま、聞こえますか?」

『許せねえわ』

「は、はい?」

 大魔王の声には怒気が滲んでいた。

『あいつら、俺をチンチン呼ばわりした上に無視しやがって……。許せねえ』

「チンチンは子供の発言だったので致し方ないところもありますが、まあおおむね同意見です」

『同意見って、なんか他人事みたいな言い方だな。言っとくけどお前のせいでこんな状況になってるんだからな? お前がちゃんとした魔法陣書いて、俺が万全の状態で降臨できてたら今頃あいつら低頭全裸ていとうぜんらでひれ伏してたはずなんだよ』

「謎の四字熟語は取り敢えず置いときますが、そんなこと仰られても困りますよ。もう過ぎてしまったことですし。というか大魔王さまともあろう方が体のサイズくらい自由に変えられないのが悪いんじゃないですか?」

『なに開き直ってんだよ、無茶言うな。……ったく、こんな言い争い続けても時間の無駄だ。それより人間共を屈服させるすべを考えないと』

「うーん。こうなったらもう、実力行使しかないかもしれませんね。大魔王さまのお力を目の当たりにすれば、愚かな人間共も考えを改めるでしょう。手始めに小規模破壊魔法陣を展開してみては?」

 男の提案を、大魔王は『無駄だ』と一蹴した。

『俺の上半身は今次元の狭間にあるんだぞ。もちろん両手もだ。千里眼で地上の様子は見えているが、ここで魔法陣を展開したところで、その効果はこの次元の狭間の中に留まってしまう。地上には何の影響も与えられない』

「……むう、ではやはり今は潔く諦めて、大魔王さまの召喚魔法陣を書き換える方法を探すしか……」

『いや、確実に人間共を征服するには悠長なことは言ってられない。俺もずっと暗黒次元から人類を観察していたが、奴らの進化の度合いは加速度的で想像を超えている。手に負えなくなる前に俺が――待て、キャッチが入った』

「え、この通信キャッチとかあるの?」

『一体誰だこんな時に。悪いが少し待っててくれ。大事な話の途中だから邪魔しないようにキツく言いつける』

「分かりました」

 そして、通信用魔法陣から大魔王の声の代わりに保留用BGM(大魔王アドラメレク作曲「たんぽぽ」)が流れ始めた。

 男はジッと待機している。

 



 ……。





 …………。





 ……………………長くね?


 延々と流れ続けるBGMに痺れを切らした男は、通信用魔法陣の横に一回り小さな魔法陣を展開した。

 密かに修練を重ねた、暗黒通信を盗聴するための魔法。これを使用することで、大魔王の通信を傍受することができる。

『あーもうジーナちゃん好き好きー! うん、もう体はバッチリだよ! え、今から会いたい? 奇遇だね、ちょうど俺も今からジーナちゃんに会いに行こうと思ってたんだ! 以心伝心、やっぱり俺達はずっと繋がってるんだね! 今夜はベッドで文字通り繋がろ「大魔王さま!?」なー!? お前、どうやってこの通信に!? 待ってろと言っただろ!』

「待ちましたよ! かなり待ちましたよ! 『たんぽぽ』をフル尺で10回以上聞く程度には待ちましたよ! でもなかなか戻ってこないから盗聴魔法陣で傍受してみたら、どういうことですかこれは!」

『アドラメレクさま、これは誰の声ですの?』

 つやのある声が大魔王に問いかけた。

『あ、ジーナちゃん今のは俺の部下で童貞でマジウケる奴なんだけど、どうやら通信が混線してるみたいだね。大丈夫、童貞はすぐに追い出すから少し待っててね』

「ちょ、大魔王さま!? さっきキャッチが入った時、大事な話の途中だから邪魔しないようにキツく言いつけるって仰ってましたよね? なのに私を追い出すっておかしくないですか!?」 

『はー!? そんなこと言った覚えありませんけど!? 妄言もうげんで場を搔き乱すのマジキモイからやめてもらえるかな童貞くん!』

『え……アドラメレクさま、もしかしてわたくし、アドラメレクさまのお仕事を邪魔してしまいました……?』

『いやいやいやジーナちゃん邪魔だなんてそんないやいやいや! おい童貞、お前のせいでジーナちゃんに余計な心配かけちゃっただろ! 謝れよ!』

「……ほおー。そうですか。仕事より女性の方が大切ですか。……分かりました。では私にも考えがあります」

 ローブの男のトーンが少し下がった。

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