3 セブンスター

 恋人が失踪して、六ヶ月が経った。


 大学では一応休学扱いとし、彼女の御両親が出した捜索届けは、今のところ役に立っていない。そんな状況下でとうの彼氏の僕はと言うと、入れ違いのように現れた謎の三毛猫と大家さんに内緒の共同生活を始めた。

 同じゼミの男連中は僕のことを女に去られた悲しみから動物愛に逃げた哀れな男だと勘違いし、同情から合コンに無理矢理呼んだりした。しかしそれもミケのために抜け出したから無駄に終わった。自分ではよく分からないが、彼らが言うことはあながち間違ってはいないかもしれない。実際、ミケといると心が落ち着く。容姿や仕草など、どことなく彼女に似ているミケは僕に悲しみではなく安らぎを与えてくれる。彼女には申し訳ないが、間違いなく今の僕にとってミケは無くてはならない存在になっていた。

 大学が終わってバイトが無い今日みたいな日はまっすぐに家に帰る。動物厳禁のこのマンションにろくに鳴くこともせず閉じ込められていたミケは、待っていましたと言わんばかりに僕に飛びついた。明日は土曜日だし、遊んでやるかとミケを抱き上げながら僕は思った。テレビをつけて本を読んでいると、いつの間にかゴールデンタイムでやっている音楽番組が流れ出した。相変わらず派手なオープニングだ、なんて思っていると、彼女が好きだったアーティストであるスガシカオの顔が映った。案の定、ミケは当然のように僕の膝からテレビの前に飛び移った。つくづく思うが、こんなところまでびっくりするほど似ている。

 スガシカオの歌詞って死のイメージがたくさん盛り込まれているけど、それを重く感じさせないところが良いのよね。

 そんなことを言っていた彼女の横顔を思い出した。でもサングラス外したら普通の人よね、と後に続いていつも言う。

 僕は少しだけ胸が苦しくなって煙草を片手にベランダに出た。秋の風はまだ少しだけ、暖かい。ミケはまだ、夢中でテレビに見入っている。

 ライターで火を着け、ゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと細く長く吐き出す。秋の夜は優しく煙草の煙を受け止め、その暗さをぼやかした。澄んだ空気が少しでも異物を和らげようとしているみたいだ。

 その行為が面白くて何度も繰り返していると、僕の携帯が鳴った。メールだ。宛先表示にカナさんと出ている。

「お久し振りです。返し忘れていた本を返したいと思ってメールしました。お元気ですか? 明日貴方のおうちの近くに行くので、その時にほんのちょっとだけ寄っても良いですか」

 メールの内容はこうだった。急なことに一瞬戸惑ったが、断る理由も別に無い。良いですよとだけ返信して、携帯を閉じた。

カナさんは、失踪した僕の恋人のお姉さんだ。恋人の家に遊びに行くと必ずカナさんがいた。毎回オレンジティーとショートケーキを部屋に運んで来てくれて、ごゆっくり、とだけ言って去っていく。ただ、それだけの人。今の僕にとっては。

 六本目の煙草に着火して、深く吸う。少しだけヤニクラがして、いい加減部屋の中に戻った。ミケは僕をちらりと一瞥して、ぴょんとベッドの上に飛び乗った。スガシカオの登場が終わって拗ねているのか。それともメスとしての鋭い勘で僕の動揺を見抜いたのだろうか。ミケのご機嫌を取るために、僕はテレビを消してスガシカオのアルバムをステレオに入れた。

 

 カナさんは次の日の夜に僕の家に来た。手にはいつものショートケーキが持たれていた。気を使わなくてもいいのに、と言うと、つい癖でね、買ってしまうのとカナさんは気恥ずかしそうに答えた。来客のときは事前にミケを押入れかベランダの外に非難させるのだが、いつもは渋るのに今回だけは自分からベッドの下に隠れてくれた。どういう風の吹き回しだろう。

「これありがとう。返すのが長引いてごめんなさい。面白かった」

 カナさんが持っていた袋を差し出した。この本は今年の夏、娘の失踪で傷心の御両親を心配し僕が挨拶に行ったときにカナさんに貸したものだ。その時に、僕はカナさんに告白された。ずっと好きだったの。こんな時に言うのはなんだけど。彼女の言葉がリフレインして止まない。年上の女性であるカナさんに、一時期彼女には内緒で憧れていたことがあった。もちろん浮気なんて大層なものでは無いが、カナさんにも大手広告企業に勤める恋人がいたので僕のほのかな恋のようなものはいつの間にか消えた。

 だから、そう言われたときに最初はピンと来なかった。何を言っているのだろうと思った。そして何て返せばいいのか分からなくて、ゼミの課題を理由に帰ってきてしまった。それから昨夜のメールまで、カナさんとは音信不通だった。

「じゃあ、私はこれで」

 気まずいのか、カナさんはお茶を一口だけ飲んで帰ろうとした。駅まで送っていきますと言うと、悪いわね、と言って笑った。ミケはそんなやりとりをベッドの下から見ていた。

 外はもう人通りも少ない。軽めのコートのみを羽織ってポケットにセブンスターとライターを突っ込んで、表通りを歩く。少し後ろにカナさんがいる。茶色のトレンチコートに黒皮のブーツを合わせている。こうして見ると、彼女に似ていなくも無い。だけど、やはり違う人なのだ。

「あの、この前私が言ったこと、覚えてる、かな……」

 カナさんが冷たい雰囲気を払うように口を開いた。僕はとっさに煙草に火を着ける。人はストレスを感じると煙草を吸いたくなる。僕は今、緊張している。

「貴方の気持ちを聞きたいの」

「カナさん」

 煙草を吸いながら考え、少しずつ吐きながら、丁寧に、尚且つ言葉を選んで、答えた。

「僕は、彼女がたとえ一生帰ってこないとしても、帰ってくる日を待っています。一生かけて、待ちます」

 これが、今の僕に言える、精一杯の言葉だった。だけどここには一ミリの嘘もハッタリも無い。文字通り僕の気持ちそのままだ。カナさんはそれを聞いて

「良かった。やっぱり貴方って、良い子ね」と笑った。そして下を向いた後に、安心したと続けた。僕は内心で試されたのかとも思ったが、敢えて深くは考えないようにした。

 向こうに駅が見えてきた。

「じゃあ、ここで良いわ。ありがとう」

 そう言っていつの間にか前を歩いていたカナさんが振り返った。

「猫ちゃん、今度はあんな狭いところに隠さないであげなさいね」

 どうやらバレバレだったらしい。

「はい、気をつけます」

「よろしい」

 僕らは同時に笑いあった。じゃあ、またねと言ってカナさんはホームに消えていった。僕らは改札越しにしばらく手を振り合っていた。

「隠さないであげて、か」

 靴の裏で煙草を揉み消して携帯灰皿にフィルターをしまうと、僕はスガシカオの新曲を買うために駅ビルの中へと向かった。

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