4 夜を駆ける
恋人が失踪して、もうすぐ一年。
僕は寒い東京の冬を迎えた。同時に、ぎらぎらした中性脂肪まで一緒くたに迎え入れてしまったようだ。ことの起こりは先週。テレビで某健康番組を見ていたらメタボリック症候群についてコメンテイターが熱く語っていたのだ。彼女が失踪してすぐに現れた三毛猫のミケとそれを僕は食い入るようにして観ていた。
腹の周りが八十八センチ以上ある人はメタボリック症候群である可能性が高いとそのコメンテイターは神妙な顔つきで言った。僕とミケは同時に僕の腹部に目をやる。明らかにそれくらいはありそうだ。ミケが軽く猫パンチをする。ふくふくな腹部。洒落を言っている場合じゃない。
番組が終わっても、僕は目の前のテレビに映るコント番組を集中して観ることが出来ないでいた。デブイコールオタクの固定観念がある僕にとって、これは一大事である。不安なので洗面所に置いてあった体重計に乗ってみることにした。
体重計はいともあっさりとその針を振り切らし、挙句の果てに真ん中の板が割れた。ぴしりという音が僕の頭の中でリフレインする。ミケはその様子を見たせいかどうかは知らないが、何だかにっこりとしているように思えた。
ぷぷ、あいつ太りすぎ、と笑われた気がした。
しばらくショックから立ち直れないまま、僕はベランダに出て煙草を吸った。冬の空は透き通っていて遠くまでよく見える。北極星も、北斗七星も、何から何まで。逆にあの月はきっと僕のことを見ているのだろう。月のうさぎまでふてくされて煙草を吸う僕を見て笑っているような気がした。
そういえば、去年の今頃も彼女とこんなことをやっていた。二人で中華料理食べ放題のバイキングでたらふく食べた後体重計に乗りあったな。ふとそのときの彼女の笑顔が浮かんだ。今はどこで、何をやっているのだろう。痩せ型の彼女は太った男を苦手としていた。近づいたら自分がその肉厚で撥ねられてしまうように感じるためらしい。その話を聞いたときは大笑いして終わったが、今はそんな悠長なことは言っていられない。実に深刻な事態である。
部屋に戻りながら、あぁダイエットでもしようかな、と呟いた僕を見てミケはキキキッといった感じで口を横に広げた。
次の朝から僕は早朝ランニングに出かけることにした。運動不足を痛切に感じながら、僕は駅伝選手並みに走った。酒も控えるようになった。これも彼女が帰ってきたときのための我慢だと自分に言い聞かせた。悔しいが今の僕にはそんなことしか出来ないのである。
新しい体重計も購入した。しかも体脂肪率まで量れる高性能のやつを。家でも腹筋や腕立て伏せなど筋トレに勤しむ僕を見て、ミケはさも詰まらなそうにしている。最近体重を落とすことばかりに気を取られていたため、ろくに構ってやれないでいた。そのうち僕は夜もランニングするようになった。
そんなある夜のこと。夜のランニングから帰ってくると、ミケが床にうずくまっている。はじめは寝ているのかとも思ったがどうも違うようだ。小刻みに痙攣している。そのうちに激しく吐きだした。ミケのそんな様子を見て僕は汗が噴き出すほど動揺し、急いでミケを抱き上げ家を飛び出した。
「しっかりしろ! ミケ!」
走りながら呼びかけた。ミケはぐったりとしている。こんな時間では動物病院はおろか人間の病院だってやっていないであろう。そのくらい街は深い眠りについていた。僕は我も忘れて近所中を走り回った。ほぼ半泣きだった。お前にまで去られたら、僕はどうしたら良いのだ。そればかりが頭の中によぎっては消えなかった。もっと早くミケの異変に気づいてやれれば……。自分の体重だけじゃなくて、もっとミケを構ってやっていれば、こんなことにはならなかったかも知れないのに。いつの間にか僕は泣きながら走っていた。
気がつくと彼女の実家の前に来ていた。僕は非常識だと知りながら、呼び出しボタンを押しまくっていた。しばらくして明かりが付き、中から人が出てきた。
「どうしたの? こんな夜中に」
お姉さんのカナさんだった。
「ミケ……が……僕の猫が……死にそうなんです」
弾む息を必死で抑えかろうじてやっとそれだけ伝えた。カナさんは驚いた様子でかしてみてと言ってミケに手を伸ばした。錯乱していた僕はミケが奪われるのではないかと思い、その手を払いのけた。
「ミケをどうする気ですか!」
「落ち着いて、深夜でもやっている獣医さんに診せましょう」
「嫌だ……死んだら……どうすれば、僕」
カナさんが僕の頬を張った。そこで我に返った。
「いいから、行きましょう。さぁ乗って」
そういうとカナさんは車に乗り込みエンジンを入れた。慌てて僕も助手席に乗り込んだ。
深夜の病院は、恐ろしく不気味だ。薄暗い待合室の中で僕とカナさんは無言でミケの様態の知らせを待っていた。
「僕のせいなんです。僕がつまらないことに気を取られて、ミケを放ってなんかいたから、こんなことに」
下を向いて、唇を噛み締める。カナさんは無言で、カップに入ったお茶を傍に置き、一口含んだ。
「ミケのお陰で、だいぶ救われていたんです。寂しくても、彼女が傍にいてくれているような気がして。猫なのに、可笑しいですけど。……俺、あいつにまでいなくなられたら、どうしたらいいんだ」
カナさんはカップを両手で抱えて、話し出した。
「いつかね……あの娘が大熱を出したことがあるの。そう、今日みたいに冬の深夜だったな」
僕は顔を上げてカナさんを見た。
「それで、母も祖母もみんなパニックになっちゃって。こんな深夜なのにどうしようって泣き出しちゃったの。そう、まるで今の貴方みたいに。でも、父はね、父だけは冷静だった。あの娘を抱えて、暗い夜にひとり隣街の救急専門の病院まで走っていったの」
そんなことがあったのか。彼女を抱えて深夜の街道を駆けていくお父さんの姿を想像してみた。
「今思えば、救急車を呼べば良かったのにね。だからさっきの貴方の姿を見て、一瞬あの時のことを思い出したの。凄いわね、貴方のお家からうちまで走ってきたなんて。普通なら諦めて引き返すわよ」
カナさんはくすりと笑った。
「大丈夫よ。戻れる場所がある人は絶対に死んだりなんかしない。きっと、ミケちゃんも、……あの娘も貴方の元に帰ってくるわ」
カナさんが言い終わると同時に担当の獣医さんが現れた。食あたりだったみたいです。薬を飲めば二、三日で治りますよとだけ言ってまた去っていった。僕は安心して、そのままその場にうずくまり、深い眠りに落ちてしまった。
ミケは相変わらず、テレビにスガシカオが映ると飛びついている。今はまるで何事も無かったかのようにピンピンしている。かく言う僕も、あの深夜の爆走から体重がすっかり落ちてしまい、今は使わなくなったあの高機能性体重計をどうしようか悩む毎日である。
世間はもうすぐクリスマス。今年はあまりかまってやれなかったミケへのお詫びにまぐろでもご馳走してやろうかと思う。
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