2 かけだす男

 彼女が突然消えて、もう三ヶ月が過ぎた。


 今のところ、何も連絡はこない。かわりに、と言ってはなんだが、突如現れた謎の三毛猫と暮らし始めて僕は夏を予感させるうっとうしい梅雨を迎えた。

 動物厳禁のこのマンションに一日じゅう閉じこめておくのはミケが可哀相だから、大学の講義が早く終わる日などは外に出してやることにした。不思議とこの猫は僕が帰ってくる時刻にはきちんと駐車場の隅に隠れて待っている。まるで忠犬ハチ公のようなので名前をハチに変えようかとも思ったが、そう呼んでも反応しないのでやめた。



 大学の休憩時間に煙草をふかしていると、同じゼミの男連中が話しかけてきた。

「最近、お前に変な噂が流れてるよ」

「はぁ」

「なんか恋人が失踪してから、猫のために毎日早く帰るようになったって。あんなにしょっちゅうオールしまくりだったお前がさ」

 まるでそれでは僕が悲しみのあまり動物愛に逃げた変態みたいではないか。少しムッとしながら

「別に……何度追い払ってもついてくるから仕方なく面倒見てるだけ」

と煙草の灰を落としながら答えた。何だ、つまんないのとさも味気ないような返事がきた。

「じゃあさ、今日六本木に行かないか」

「はぁ? 何、急に」

「お前も相手してくれるのが猫だけじゃつまらないだろ。たまにはさ、人間のキレイドコロと遊んでみるのも良いじゃん」

「ふざけんな俺は別に」

「まぁまぁ、お前の恋人に対する一途な気持ちも分かるけど。たまには息抜きも必要だろ。それにぶっちゃけメンツが足りないんだよ。頼むよぉ可愛い娘揃えたから、来るだけ来て」

 息抜き……端から見たら僕はそんなに切羽詰まって見えるのだろうか。そんなに心配になるくらい、俺は落ち込んで見えるのか。だとしたら、周りの人間に気を使わせるくらい僕にとって嫌なことはない。幸い今日はミケも部屋の中にいるし、そんなに遅くまで外出しなければ大丈夫だろう。分かった、一回だけだぞと答えると

「よし、それでこそお前だ。じゃあ七時に六本木ヒルズの前で集合だから。じゃあな」

 なにがそれでこそお前だ、だ。まるで人を合コン族みたいな言いぐさしやがって。まぁいい。これ一回きりなのだから。


 その夜は終電ぎりぎりで帰宅した。久しぶりにビールをジョッキ五、六杯は飲んだから胃がぐるぐるおかしな音をたてている。帰宅ラッシュでピークな満員電車もさらにそれに拍車をかけた。最悪な気分だ。家に入るなりトイレに直行した僕を見て、ミケは不思議そうにミャアと鳴いた。

 合コン終了後の男子会議で僕を誘った連中が、いやぁ女のコ達がお前の事をかなり気に入ったみたいだぞ、憎いねこの色男! 隣にいたユミコちゃんなんか、お前が来るなら次もセッティングするってさ。もてる男はつらいねぇ、と調子はずれに言った。そして次も頼むぞ、と一言だけ残してカラオケオールコースへと旅立っていった。

 知るかそんなもん。勝手にしろ。

 トイレから出ても顔色が真っ青な僕を見てミケは訝しげに寄ってきた。少しご機嫌ななめのようだ。酒臭さを感じてか、すぐに離れてテレビの前に奴は座り直した。



 一週間後、また例の連中がやってきた。講義が早く終わって真っ先に帰宅しようとしていたところを捕まった。

「今日もさ、六本木で飲みがあるんだよ」連中の一人が肩に手を置いて言う。

「もう行かないよ。一回きりだって言ったろ」

 いやそうもいかないよ。もう一人のやつが違う肩に手を置いて言った。

「ほら、ユミコちゃんっていただろ、あの子が幹事でさ、お前が来ないならもう合コンのセッティングしないって言うんだ」

 だんだん掴んでいる手の力が強くなってきて、肩が痛くなってきた。

「な、頼むよ、一生のお願い。せっかく上手くいきかけているんだ。もちろん奢るし」

 最後は大の男三人が殆どしがみつくような形で僕に懇願していた。そのあまりに哀れな姿に同情し、一時間だけで帰らせて貰うことを条件で行くことにした。外は小雨が降り出していた。



「聞いたんだけど、お付き合いしている人が失踪しちゃったんですってね」

 ぼんやりと考え事をしながら飲んでいたら甘ったるい声で我に返った。いつの間にかユミコちゃんが隣に座っている。曖昧に頷きながらも、やはり心ここにあらずだった。外はさっきまでの雨が更に激しくなっている。

……ミケは大丈夫だろうか。今日は外に出してやる日だった。本来ならとっくに帰って部屋に入れてやる時間を過ぎている。

「彼氏の君に何も言わないで消えちゃうなんて酷いよね」

 ユミコちゃんが何か言ったが僕にはよく聞こえない。開始三十分でもう宴会の席は混乱を極めていた。向こうの席ではイマオが俺は柔道四段なんだよ、とシャツを脱ぎだして筋肉自慢をし始めている。


 そういえばちょうどこんな雨の日に彼女が家の外で待っていたことがあった。その日僕はバイトで帰宅が遅かったのだが、駐車場の隅でうずくまって待っている彼女を見つけたときは本当に驚いた。

「どうしたんだよずぶ濡れじゃん」

 急いで駆け寄って着ていた上着を被せてあげた。すると彼女は

「なんでもない。ただ、逢いたくなったの。ここで待ってれば、驚くかなって」

 そりゃ有無を言わずに驚いたけど。……ただ逢いたくなっただけで大雨の中役に立たない傘をさして待てるものなのか。記念日でも何でもない日に待っていた彼女は、本当は一体何がしたかったのだろう。何が言いたかったのだろう。結局僕にはそれが何だったのか未だに分からずじまいだ。そんなことを考えていたら、見る見るうちに心の中でミケの顔が浮かんできた。そしていつか駐輪場でうずくまる彼女とミケの姿が重なった。途端に不安になった。

「ねぇ、聞いてるの」

「ごめん、俺帰る」

 気づくとユミコちゃんが止める声も空しく僕はその場を後にしていた。酔っ払いたちの罵声が僕の背中めがけて投げられた。が、それらに僕を引き止める力などすでに皆無だった。

 

 駅前に止めてあった自転車にまたがり、大急ぎで傘もささずに漕いだ。大粒の雨が顔面にぶつかって痛い。だけどそんなことは言っていられない。この大雨の中ミケが待っているのだから、今は一目散に家に帰らなくては。しかしなんで俺はこんなに急いでいるのだろう。何でこんなに必死なのだろう。猫一匹のために。でも、あの日彼女が雨の中ひたすらに待っていてくれたように、僕も今ひたすらに駆けてゆく。

 そうか、きっとこういうことなのだ。今になって何となくあの日の彼女の気持ちが分かった気がした。好きなひとに逢いたいという気持ちに、理屈など元から無いのだ。いや、無くても良いのだそんなもの。大切なのは、逢いたいという気持ちが人を動かすことなんだろう。

 今の僕はミケに会いたい。でもあの日の君にも、もう一度逢いたい。


 マンションの駐輪場の隅には、案の定ミケが雨の降りかかる中ちょこんと座っていた。それまで寒そうに震えていたが、僕の自転車に気づくと嬉しそうにニャアと鳴いて足元に擦り寄ってきた。

「良かったぁ……ミケぇ」

 またも僕は不覚にも泣きながらミケを抱き締めた。

「ごめんなぁ。ごめんなぁ」

 いつからこんなに涙もろい男になったんだろう。

ミケはまたミャァと鳴いて、僕の頬につたるもはや雨だか涙か分からないものを舐めた。ふっと、あの日の彼女の目に光るものを、ミケに舐められながら思い出した。

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