一章 白ウサギの探しもの

 その日の夜も、ラスター村の外れにある加工場からは低い研磨の音が響いていた。さほど広くもない室内で、卓上の研磨機に向かっているのは一人の青年。

 「………よし、こんなものかな…」

 といっても、ようやく20歳になったばかりのティアには、まだその表情にあどけなさも残る。研磨機を止めて磨いたばかりの石をライトにかざし、歪みがないか確認を終えると、ティアは満足気に微笑んだ。

 手のひらにコロンと転がるウサギの置物は、先日買い付けた屑石の山から、手頃な大きさの石を丹念に加工したものだった。鉱石の加工職人としてまだ修行中の身のため、練習代わりの手慰み程度に作り始めたのだが、今回もまずまずの出来だろう。先に完成していた一回り大きなウサギと並べると、ちょっとした親子が出来上がる。

「もう1匹くらい作ってやりたいけど、それはまた今度な」

 チラリと壁の時計を見やると、短針はとっくに日を跨いでいる。長時間に渡り、ずっと同じ体勢で集中していたせいか、すっかり身体が凝り固まっていた。ティアはうんと背伸びして筋肉を伸ばし、頭に巻いていたタオルを外す。背中まで伸びた長い金髪を邪魔そうに括り直し、大きなあくびをしながら電気を消した。

「髪もそろそろ切らなきゃな…」

 加工場を出ると、小さな菜園と庭があり、そこから数歩歩いた先にティアの居住区がある。雲一つない空の下、ぽっかりと浮かぶ月の光に自分の髪を透かしてみると、毛先がだいぶ傷んでいた。

 一つのことに集中してしまうと、周りのことが全く目に入らなくなるのは昔からの癖。自分のことはいつも後回しになってしまうせいで、散髪も随分ご無沙汰になっている。身なりに気を使う仕事のわけでもなし、作業中の外見など、それなりに見苦しくない程度で構わないというのがティアの考えだったが、ラスター村の世話役であり後見人でもあるマゴットには嘆かれていた。

「まったく、お前と来たら!せっかくルイズさん譲りの別嬪だってのに……宝の持ち腐れって言うのはお前みたいな奴のことを言うんだ!せめて食事ぐらいちゃんと摂れ!夜になったらきちんと寝ろ!集中力が高いのは知ってるが、若いうちからそんなんじゃ、いつか身体を壊すだろう。…ほんっとに、そういうところばっかりディーノに似やがって」

 夫婦揃って鉱物学者だった両親は、若い頃から世界中の鉱山を巡り歩いていたらしい。調査に没頭すると寝食がおろそかになるのは血筋だなとぼやくマゴットに、ティアは苦笑を返すしかなかった。




 その両親が亡くなったのは、ティアが8歳の時。今は家族写真の中でしか会えないが、父のディーノはオレンジ色の髪に、緑の瞳。母のルイズはブルネットの髪に、瞳はアンバー。そんな二人から生まれたのに、なぜかティアだけが、月の光のような金髪と透き通った青い瞳を持って生まれてきた。

 すっきりとした目元を含め、黙っていると気品さえ感じるような面立ちだけは母に似ていたせいか、親子三人でいると、ルイズの連れ子に間違えられることも多かったらしい。

 ティアの髪と瞳の色には両親も随分と驚いたようだが、ティアが二人の子供であることは間違いない。なにせ、ずっと二人きりで旅していたのだ。現地に着けば鉱山や採石場、鉱物の加工場に入り浸り、限りある時間を研究に費やしてきた。そんな日々の中で、どうやって別のパートナーと出会う暇があるだろう。それはお互いが十分理解しており、学者の端くれとして「隔世遺伝」という知識も備えていた二人は、ティアを大切な我が子として慈しんだ。

 マゴットとの付き合いは、この国ティストヴァルを訪れた直後に、母が産気づいた時から始まる。乳飲み子を抱えた長距離の移動は、母子ともに負担が大きい。そのため、ティアが長旅に耐えられる歳になるまではと、優秀な加工職人を多く排出しているこのラスター村に、仮の住処を構えたのだ。

 当時から世話役としていくつもの加工場を持ち、一見無骨でも面倒見のいいマゴットと、子供のような探究心溢れる父ディーノは、随分と気が合ったらしい。マゴット夫人もほがらかで優しく、突然現れた新参者の一家でも、この村に馴染むまでそう時間はかからなかった。

 ティアの授乳期が終わり、一人歩きができるようになると、両親はここぞとばかりにティストヴァル中の鉱山を訪れた。そんな時、ティアはいつもマゴット宅でお留守番。幼い子供を置いて研究に夢中になる二人に呆れ顔をしつつも、マゴット夫妻はティアを温かく迎え入れてくれた。

 その関係が今日まで崩れなかったのは、毎回土産を買ってくる両親の愛情が確かだったことと、マゴット夫妻に子供がいなかったこともあるのだろう。そのおかげで、ティアは別段寂しい思いをすることもなく、マゴットが管理する加工場で、馴染みの職人たちに可愛がられながら両親を待った。

 ティアが8歳になった1週間後、新たな採石場を訪れた2人が、地震による落石事故で命を落とすその時までは。




 当時のことをティアはあまり覚えていない。ただ、物言わぬ2人を弔った後も、昼間は加工場で屑石をいじって時間を潰し、夕方になると村の入り口でじっと両親を待つようになった。そんなティアを見て、マゴットや職人たち、一家を知る村人たちにも随分心配をかけたようだった。

「帰りましょう、ティア。こんなところにずっといたら、風邪をひいてしまうわ」

「……」

 日が沈みかけた頃、必ず迎えに来てくれるのは、マゴット夫人のレティシア。マゴット夫妻は孤児となってしまったティアを引き取り、1人で暮らしていけるようになるまではと、後見人を申し出てくれた。

「今日はシチューにしたのよ。ティアが好きだった木苺のパンもあるわ。みんなで食べましょうね」

「…」

 無言で頷くティアは、すっかり笑顔を忘れてしまったかのようで、必要以上に言葉を話さない。あの時は本当に人形のようだったと、今でも言われることがある。

 だが、そんなティアに現実と日常を取り戻させてくれたのは、ある1人の老職人だった。

「ティア、お前に見せたいものがあるんじゃ。ワシの家まで来てくれんかね」

「…見せたいもの…?」

 その日もティアは、マゴットの加工場で黙々と屑石を積み重ねていた。端から見れば積み木遊びをしているようにも見えたが、ティアにとって意味はない。ただ無心で手を動かしていただけなのだが、突然声をかけられて振り返ると、心配そうな表情を浮かべたマゴットと、熟練の加工技術を持つグルーナがいた。グルーナはその時、すでに齢70。多くの弟子を持ち、その技術の継承も終わりそうだということで、引退の噂も囁かれていた時だった。

「あぁ、ワシからお前にとっておきのプレゼントじゃ」

「プレゼント?なぁに?」

「それは見てからのお楽しみじゃ。さ、おいで」

 優しく微笑んでウィンクするグルーナは、歩み寄ったティアと手を繋ぐと、ゆっくりと村の外れにある自宅へ向かった。膝が悪く、杖を手放せないグルーナは、若い頃のように村の中心部まで通うことが難しい。そのため、自宅の庭に小さな加工場を建てており、そこで作業する生活を続けていた。妻もとうに亡く、衣食住の手伝いは、彼の元に通ってくる弟子たちが交代で請け負っている。

「さぁ、そこに座って。いま持ってくるから」

 無言でついてきたマゴットと一緒に、ティアを室内へ招くと、グルーナは再び外に出ていってしまう。恐らく、そのプレゼントとやらを取りに行ったのだろう。初めて訪れたグルーナの部屋をきょろきょろと見回していると、しばらく経って、グルーナが白い小さな箱を抱えて戻ってきた。

「待たせたの。…よっこらせっ、と」

 丸い椅子を引き寄せ、ティアの前に陣取るとゆっくりと腰をおろす。

「ほれ、これがプレゼントじゃ。開けてみるとよい。優しくそっとじゃぞ。壊れやすいからな」

「?」

 ティアは首をかしげたが、見上げたマゴットが頷いたのを確認すると、そっと箱を開けてみた。目に入ったのは柔らかい緩衝紙。幾重にも重なったそれを一枚ずつ剥がしてみる。

「わぁっ、きれい…!」

「これはっ…!!」

 そこにあったのは一輪の花だった。小さな薄紫色の花びらに、黄色い細かな花弁。一緒に覗き込んだマゴットも息を飲み、言葉が出てこないようだった。

「触ってみてもいい?」

「あぁ、もちろん」

 グルーナの許可をもらい、そっと花びらに触ってみると、指先を押し返す硬さがある。

「硬い…!本物のお花みたいなのに…」

 びっくりして指を引き戻すティアの反応に、グルーナは愉快そうに笑う。

「はっはっはっ、そりゃそうじゃ。鉱石で作った花じゃからなぁ」

「鉱石…?」

「これは……花びらはアメジストですか?」

「そうじゃ。花弁は黄色と橙のウルフェナイトを使っておる。まぁ、どれも屑石じゃがの」

「屑石!?これで?」

「当たり前じゃろ。商品になるような石など、ワシには高すぎて手も出んわ」

 呆れたように言い切るグルーナの言葉に、マゴットは開いた口が塞がらなかった。

 鉱石は磨いて初めて、人々を魅了するような輝きを放つ。その加工の過程において、『屑石』と呼ばれるものには実に様々な基準がある。研磨するほどの大きさがないもの、研磨に耐えられるほどの硬度がないもの、内包物が多く純度が低いもの等、発掘時から製品に近づける段階の中で、多くの基準からはみ出たものを総称して『屑石』と呼ぶ。

 また、加工時の基準をクリアした後でも、カットが甘くキズが多いものなどは仲買人からも同様に呼ばれてしまうため、いかに優秀な職人を抱えるかが鍵となるのだ。製品価値がぐっと下がった石たちは、庶民でも購入できる安価な装飾品になればいいほうで、それすらも満たないものは工業用に回される。いずれも必要な需要ではあるのだが、やはり自分たちの加工場から価値が高いものが生まれると、胸を熱く滾るものがあった。

 今回グルーナは、この花をその屑石から作ったという。アメジストやウルフェナイトは、ティストヴァルで取れる石ではないから、恐らく馴染みの仲買人から取り寄せたのであろう。使った石も、どの段階で屑石と判断されたものかは分からないが、それでもこの輝きを出せる精巧度の高さ。それは、グルーナがいかに卓越した技術を持っているかを証明しているようかのようだった。

「これ、本当にもらってもいいの?」

「あぁ、もちろん。お前のために作ったんじゃから、もらってもらわんと困る。……なぁ、ティア。お前さんはこの花が何の花か知っとるか?」

 無言で首を振るティアを見つめ、グルーナは箱を持ったその小さな手を静かに握った。

「花にはそれぞれ『花言葉』というものがある。この花はシオンといってな。花言葉は『君を忘れない』というんじゃ」

「きみを…忘れない…?」

「あぁ。……寂しいか、ティア。ご両親に会いたいか」

「っ!」

「突然いなくなってしまったからのぅ……さぞ驚いたじゃろう」

「……」

 ティアは何も言わずに俯く。それでもグルーナは優しく、だが、はっきりと言葉を続けた。

「だがなぁ、ティア。人の命は限りあるものなんじゃ。一度死んでしまった者は、どんなに願っても帰ってこない。病気だろうと、寿命だろうと、事故だろうとな。それが、現実じゃ」

「っ…!」

「グルーナさんっ…!」

 ビクリと震えて目を見開くティアに、マゴットは慌てて制止の声をかけた。それは、マゴットも早く伝えなければならないと思って、ずっと言えずにいた言葉。いつまでもこのままでいいと思っていたわけではない。だが、村の入り口で一人立ち尽くすティアを見ていると、どうしても言えなかった。あまりにも重い現実に、幼いティアの心が耐えられるのか判断することができなかったのだ。

「……」

 思わず制止の腕を持ち上げたマゴットに、グルーナは黙ったまま首を振る。

「ですがっ…!」

「……」

「ぅ…」

 やがて、グルーナの無言の眼差しに根負けしたマゴットは、静止しようとしていた腕を下げて溜息をついた。こんなに手の込んだ鉱石の花まで用意していたのだ。グルーナにも思うところがあったのだろう。マゴットはひとまずこの老職人に、この場とティアを任せることにした。

「…さて、ティア。いまお前は何を思っとる?何を考えとる?ありのままでいい。正直なお前の気持ちを聞かせてくれんかのぅ、この老いぼれに」

「……」

 俯いたまま全身にグッと力を入れ、何かを守るように固まったティアは身じろぎもしない。グルーナはそんなティアを抱き寄せると、自分の膝のうえに座らせ、優しく背中を撫で始めた。

「………」

 それからは静かだった。ティアはもちろん、グルーナもマゴットもしゃべらない。ただ、グルーナがティアの背中を撫でる衣擦れの音と、窓の外を羽ばたく鳥の声だけが響いていた。

「……っで……」

「!」

「…んでっ……ぱっ…パパとっ……まっ…ママっ、はっ……」

 どれくらい経ったころか、ようやくティアが絞り出すように声を出す。ハッと身じろぐマゴットを、グルーナが再び視線で黙らせる。

「…うん?」

「なっ、んでっ……パパっ…と…ママっ…はっ…」

 泣いてはいない。その頬に涙は流れていないのだが、ティアは言葉を吐き出す度に浅い呼吸を繰り返し、身体を少しずつ痙攣させていく。

「かえってっ……こなっ……!……ぼ、ぼくっ…まってっ……い、いい子っ…でまっ…まってるっ、のっ…に…!!」

「ティア…」

 そのあまりに痛々しい姿と叫びに、マゴットは胸が締めつけられるようだった。傷ついていないわけがない。悲しくて、苦しくて、寂しくて、つらくて。そんなどうしようもない気持ちを抱えたまま、ティアはずっと悲鳴を上げていたのだ。

 それでも、それを口にすることはできなかった。口にして確認して、現実を知ってしまえば、あとはもうそれを受け入れるしかない。

 だからティアは黙っていた。何も聞かずに、いつもと同じことを繰り返した。ただひたすらに繰り返していれば、両親がそのうち帰ってくる。そんな気がしていたから。

「……そうじゃな、ティアはいい子じゃ。それはワシもマゴットも、村中のみんながよぉーく知っとる。…だがな、ティア。つらいことじゃが、わしは何度でも言うぞ。ご両親は死んでしまった。亡くなってしまったのじゃ。だからもう、ティアのところには帰ってこない」

「…なんっ…で……?どぉっ……し、てっ…?」

 先ほどと同じことを繰り返すことで、ティアはようやくグルーナの顔を見た。だが、その目に光がない。しゃくり上げるように震える身体をしっかり支えてやりながら、グルーナは視線を合わせて話し続けた。

「なんでじゃろうなぁ…わしも不思議でしょうがないんじゃよ、ティア。二人ともまだ若い。やりたいこともまだ沢山あったじゃろう」

「っ…ぅ…」

「それに、こんなに小さいお前を置いて逝かなければならないことは、あの二人にとっても随分心残りだったはずじゃ。本当に神様も残酷なことをなさる…」

「……えぇ、いい夫婦でした…」

 グルーナの言葉に、マゴットもやりきれない思いで項垂れる。頑固で変わり者なところもあったが、お互いが自分の家族を本当に大切に思っており、好感の持てる夫婦だった。

「か、みっ…さ、まっ……?……かみさっ、ま…のと……こ…?」

「そうじゃ、ティア。ご両親は神様のところに行ったのじゃ。…それが少し早すぎたがの…」

 切なげに顔を歪めるグルーナを見て、ティアは小さく首を降った。

「じゃ……い、く…」

「なに?」

「じゃ…あ、ぼくっ……も、い…く…!ぼっ…く、も……かみ…さっ…ま、の…」

「ティア!」

 その言葉の意味を知り、慌てるマゴットに対し、グルーナはティアの頭をグッと自分の胸元に抱き寄せた。

「それはいかん、ティア。お前はまだ神様のところには行けんのじゃ」

「なんっ…でっ…!なんっ…でっ、ぼ…くだ……けっ…!!」

 ティアはそこで初めて駄々をこねるように嫌々と身体を揺すった。子供とはいえ、本気になれば結構な力が入っているはずだが、グルーナはそんなティアの身体を決して離さない。この老人の身体に、どこにそんな力がというほどグッと強く抑え込み、言い聞かせるように耳元で告げた、

「お前はまだ神様に呼ばれていない。それにな、ティア。考えてもみぃ。お前がいつもマゴットのところで留守番しておったのは何でじゃと思う?何でご両親はお前を連れていかなかったんじゃろうなぁ。分かるか?ティア」

「っ…ぅ…」

 抗いつつもティアが小さく首を振ると、グルーナは自分が泣きそうな表情になりながら、その顔を覗き込んだ。

「それはな、他の誰よりも、お前をまだ神様に渡したくないと思っていたのはご両親だったからじゃ。安全なところで健やかに育ってほしいと、そう思っていたからお前を連れていかなかった。採掘場というのは、お前が思っている以上に危険な場所じゃからの。……どうじゃ?ティア。お前はそれでも神様のところに行くというのか。ご両親の気持ちを無視してまで」

「っ……で、もっ……でもっ……!!」

「分かっておる。…それでも寂しいものは寂しいのよな。大人でも、亡くなった者に無性に会いたくなる時がある。ましてや、まだ子供のお前が親を恋しがるのは当然のことであろう」

「グルーナさん…」

 顔を上げて棚を見つめるグルーナの視線の先には、亡き妻を飾った写真立てがあった。グルーナ夫人が鬼籍に入ったのは6年前。生前には妻のレティシアと共に、マゴットも随分と世話になった。いま、村の世話役として自分たちが在るのは、このグルーナ夫妻の教育の賜物といっても過言ではない。本当に仲の良い夫婦だったからこそ、グルーナにはティアの悲しみや苦しみが分かるのだ。決してただの同情からではない。

(お前は独りじゃないんだよ、ティア…)

 確かに血縁者は失ってしまったけれど、その身を案じる者がこの村には大勢いること。マゴットはその事実をティアに知ってほしかった。同じ痛みを知る者として、グルーナの言葉が現実を受け入れられずにいるティアに届くことを、強く切に願う。

「じ、じゃ…あっ…どうしっ……どうしたっ…らっ…いいっ…の…?どうっ、し、たっ…らっ…!」

 どんなに待っても、どんなに願っても、両親は帰ってこない。その後を追うことですら、許されることではないと言う。ティアは混乱の極みにあった。ではどうしたらいいのか。どうしたらこの悲しみは癒えるのか。苦しさ、寂しさ、この気持ちはどこに持っていったらいい―。

 ティアの呼吸がどんどん浅くなり、視線がうつろで本当に過呼吸を起こす手前になった、その時だった。

「聞かんかっ、ティア!!」

「っ…!!」

 グルーナが突然大きな声で一喝した。マゴットも思わずビクリと震えるほどの怒声にティアも驚き、呼吸を止めてグルーナを見る。

「わしの顔、そう、目を見て。わしの言っていることが分かるな?」

「っ…」

 ティアが小刻みに身体を震わせながら頷くと、グルーナは視線をずらさずにゆっくりと言い聞かせた。

「よし、そのままわしに合わせて、大きく深く呼吸するんじゃ。焦らずともよい。吸って…吐いて…吸って…吐いて…」

「…」

 一瞬で何も考えられなくなったティアは、グルーナの指示に合わせてただ何度も深呼吸を繰り返した。ヒヤヒヤとした表情でマゴットが見守る中、言われるがままに深呼吸していると、青白かったティアの顔に少しずつ血色が戻ってくる。痙攣も治まり、動揺も落ち着いてきたと判断したグルーナは、少しだけ表情を和らげてティアに聞いた。

「どうすればいいと言ったな、ティア。分からんか、自分がどうすべきなのか、何をすべきなのかを」

「…ぅん」

 小さく頷き、そのまま俯いてしまうティアの頭をグルーナは優しく何度も撫でた。

「そうか。ならば、わしが教えてやろう。まずはな、ティア。お前は泣くことじゃ」

「………泣く…?」

「そう、泣くこと。お前が心の底から本当に悲しんでいることはよく分かった。じゃが、まだ涙を流して悲しんでおらんな?声に出さず、ぐっとため込んでしまうから余計につらいんじゃ。…吐き出しなさい、ティア。家族を失って涙を流すことは間違いでも悪いことでもない。当然のことなんじゃから」

「…でも…」

 ぎゅっと唇を噛みしめ、再び身体を固くするティアに、グルーナは辛抱強く語り続けた。

「さっきも言った通り、死者はもう戻ってこない。もう二度とじゃ。…じゃから人は、涙を流してその別れを惜しむ。その死を悼む。よいか、ティア。死に別れた者のために泣くことは、その者を弔うということでもあるんじゃよ」

「とむら…う…?」

 まだ8歳になったばかりのティアには、グルーナの言っていることは難しかった。それに、両親との死別を認めたくないティアにとって、現実を突きつけてくる容赦のない刺のように感じる。

「そう。ご両親を亡くしてお前が悲しいのは、それだけご両親がお前を愛してくれたからじゃ。それをお前自身が一番よく分かっておる。だから尚更、認めたくないんじゃろ?ご両親の死を、受け入れることができずにおる」

「……」

 それなのに、耳を背けることができないのはなぜだろう。

「泣きなさい、ティア。お前はちゃんと泣いて、これまでの感謝と別れの悲しみを告げて、ご両親を弔ってやるべきじゃ」

「っ……」

 言っていることの意味が理解できなくても、心が揺れて、ジワジワと押しあがってくるものがあるのはなぜなのか。

「それがご両親にとっても、何よりの供養になる」

「…!」

 それは、限界まで追い詰められていた心が本当に必要としていたことだったから。

 それが正しい、と本能で知っていたから。

「……っ…ひっ、ぅ…うっ……う、ぁ…ぁああああっ!うぁああああっ…!!」

 せき止めていたダムが一度崩壊してしまうと、ティアにはもう自分で止めることができなかった。くしゃくしゃに歪んだ顔から涙が次から次へと溢れ、悲鳴のような泣き声が室内中にこだまする。

「ぱぱぁぁあっ…!ままぁあああっ…!!」

「あぁ、そうじゃ。しっかり泣いて、全部吐き出すんじゃ。お前はこれからも、ご両親の分まで生きていかねばならんのじゃからな…」

 グルーナはティアに胸を貸し、その背中を撫でてやりながら優しく告げる。  

「ティア…」

 マゴットも真っ赤になった目を拭っていたが、ティアが持ったままの箱から、鉱石の花が落ちそうになっていることに気づく。

「君を忘れない、か…。そうだな、ティア。あの二人との思い出も、悲しみも……全部忘れずに生きていくか…。俺も付き合うからよ」

 そっとティアの手から箱を受け取ると、落ちそうになっていた花を緩衝紙の中に戻す。綺麗な薄紫色の花びらに亡き友人夫妻の顔を思い浮かべて、マゴットは寂しげに微笑んだ。




 それからティアは、夕方に村の入り口で両親を待つことをピタリと止めた。減っていた口数も戻り、次第に笑顔を取り戻したティアの様子に、マゴット夫妻は心から安堵した。この先もこの村で暮らしていくのだからと、村内に設けられている小さな学校にも通わせることにしたのだが。

 ここ最近、その授業が終わっても、ティアの帰りが他の子供たちと比べて随分と遅い。心配したレティシアが夕飯前の軽いおやつを出しながらティアに聞くと、焼き菓子を口に運んでいた手をピタリと止めて俯いた。

「どうしたの?ティア。まさか、一人で危ないところに行ってるんじゃ…」

「違うよ!違うけど……」

「なら教えてちょうだい。あなたに何かあったら、亡くなったご両親にも顔向けできないわ。あらかじめ居場所さえ知っていれば、私たちも口うるさく言うつもりはないのよ」

「……」

「ティーアー?」

 レティシアが両手を腰にあて、少し強めに促すと、ティアはおずおずと上目づかいで確認した。

「……マゴットさんには言わない?」

「え…?」

 首を傾げたレティシアがひとまず約束して話を聞くと、ティアは学校帰りにいつもグルーナの工房にいると言う。それがどうしてマゴットには秘密なのか、レティシアは何度もティアに聞いたが、ティアは『マゴットさんは僕が工房にいるのを嫌がるから』としか言わなかった。

 その日の晩、ティアが眠った後にレティシアから話を聞いたマゴットは随分驚き、首を傾げた。自分が管理している加工場に出入りすることも止めたことがないのだ。ティアの言い分には全く心当たりがない。

 結局次の日、ティアが学校に行っている午前中に、レティシアが焼いたパンを土産に工房を訪ねると、グルーナは愉快そうに笑ってお茶を出してくれた。

「なーに、そんなに大げさなことではない。ティアはな、気づいておるのじゃよ。お前さんがティアを跡取りにしたがっていることをな」

「え?…そ、それは確かにそうですが、だからといってなんで工房の出入りまで…」

「職人になりたいんじゃと」

「職人?」

「あぁ。加工場の管理人じゃなく、わしみたいな加工職人になりたいそうじゃ。ほれ、この間、ティアにやったシオンの花があるじゃろう?」

「え、えぇ。今も大切に飾ってありますよ、あの子の部屋に」

「貴族が身に着けるような装飾品…宝石もいいが、自分はああいうものが作りたいと言ってなぁ。あれから毎日通ってきよるんじゃ」

「通ってって……まさか、研磨を!?」

 マゴットが慌てて詰め寄るには訳がある。物にも寄るが、鉱石を加工する研磨機には、大体が高速で回転する円盤の刃が付いていた。細かいダイヤモンドの欠片が仕込まれたその刃は、硬い鉱石を加工できるだけあって、子供が手を触れたらあっというまに指を無くしてしまう。

「わしがそんなことさせるわけなかろう。やってせいぜい、屑石を紙や棒やすりで削る程度のもんじゃ」

 呆れたように否定するグルーナの言葉に、マゴットはホッとため息をついた。

「じゃが、なかなか筋はいいぞ。あの子は手先が器用なんじゃな」

 湯飲みを置いたグルーナが作業机の引き出しから取り出し、マゴットに手渡したのは、小ぶりなガラス瓶だった。

「これは…?」

 中を覗くと、底には白と水糸の砂が敷かれ、中央には先が尖った青い六角柱が立っている。

「サファイアの屑石ですね?」

「そうじゃ。底の砂も、スライスはわしがやってやったが、ティアが同じ色味の屑石を集めて、金槌で砕いたもんじゃ。蝶は作業場からもらってきたらしい」

「蝶?……あっ!!」

 瓶を回して反対側を確認すると、六角柱の上部に、小さな銀色の蝶が鎮座していた。驚くマゴットに、グルーナは満足そうに笑う。

「でも、どうしてこんなものを?」

「おまえさんとこの連れ合いが、そろそろ誕生日なんじゃろ?それまでに間に合わせたいそうでな。あぁでもないこうでもないと言いながら、ずっとそればっかり作っとるわい」

「そうですか…ティアが……レティシアに…」

 蝶の装飾品は、レティシアが好んで身につけるものだ。だが、直接石を加工したものは、まだ作らせてもらえない。それならばと、いろいろ知恵を働かせたのだろう。よく見れば、小瓶は元々ジャムが入っていたものだった。

 ラスター村では、石の加工が男たちの仕事なら、それを様々な装飾品に仕上げるのが女たちの仕事でもある。そのため、加工場とは別に、村の中央に用意された作業場には、その際に使用するパーツや手芸用品が山のように置かれていた。この蝶も、普段は加工された石と共に、ブローチやネックレスに使用されるパーツの1つだった。昔からレティシアにくっついて、そこにもよく出入りしていたティアは、何がどこに置かれているのかも知っていたのだろう。

 瓶の底に敷かれた砂も、薄くスライスした屑石を砕いたものだというが、ティストヴァルの名産でもあるサファイアは、ダイヤモンドの次に硬い鉱石だ。子供の小さな手と力で、ここまで細かく砕くのは相当骨が折れたはず。これを、あのティアが自分で考えて作ったのだと思うと、マゴットにはいろいろと感慨深いものがあった。

(あの子のやりたいようにやらせるか…) 

 マゴットがそう決心したのはこの時だった。自分の跡取りとして仕事を学び、いずれはこの村の世話役を継いでくれればと思っていたのも事実。だが、幼いながらもこんな才能の片鱗を見せられたのでは、自分の希望だけで摘んでしまうのはもったいない。 

 マゴットはグルーナに礼を告げて瓶を返し、自分が全てを知っていることはティアに黙っているよう口止めを頼んだ。 

 帰宅後、心配そうに待っていたレティシアにも

「あの子は俺たちの信頼を裏切っていない。だから、俺たちも信じて待っててやろうじゃないか。あの子が自分から話してくるまで」 

 とだけ告げる。それだけでは何がなんだから分からないレティシアは不満そうだったが、どこか楽しげなマゴットの様子に、やがて苦笑交じりのため息をついた。



 

 その1週間後、ティアが試行錯誤して作った蝶と鉱石の置物は、白いかすみ草のドライフラワーも追加されて、レティシアを大いに喜ばせた。 

 彼女の城であるキッチンの窓辺に飾られることになったが、数年後、研磨機に触ることを許されたティアが、何度作り直してやると言っても決して頷かない。ティアにしてみると、いくら子供だったとはいえ、自分の拙い技術で作られたその作品が気になってしょうがなかった。六角柱はグルーナが削ってくれたものだから、当然文句のつけようはない。だが、蝶を止めた箇所からは接着剤がはみ出ているし、ガラス瓶ももっと良いものを使ってやれる。底に敷いた砂も、砕石機を使えば、大きさを揃えた粒度の細かいものに変えることができるのだ。 

 こっそり持ち出そうとすれば本気で怒るレティシアに対し、毎年繰り広げられる恒例の押し問答となったが、きっと今年も同じやり取りをするだろう。

 まだ半年ほど先のその日を思いながら、ティアは翌日も研磨機に向かった。マゴットから渡されたスケジュールを確認し、指定された石を持ってスイッチを入れる。

「……」 

 作動音が響く中、オーダー表のカットを頭に描きながら、研磨する箇所と量を見極めていく。この瞬間に、ティアの思考スイッチも入るのだ。 

 今回ティアに任された分は、カット自体はさほど難しいものではない。だが、数がかなり多かった。それもそのはずで、2週間後にはイアスト市で開かれる感謝祭が控えている。 

 首都ヴェルターゴの次に大きいイアスト市は、海に面していることもあり、普段から大型船が行き交う貿易都市だった。そのため、この時期に開催される感謝祭には、毎年多くの人々が押し寄せる。一日を通してかなりの賑わいがあり、それが1週間に渡って続くのだ。 

 ラスター村でも、そんな稼ぎ時を見逃す手はない。感謝祭が近づくにつれ、研磨機を連日フル稼働させて準備している。

 ティアが研磨しているのは、一般用の露店に出す石だった。ベテランの男たちが特別に研磨した石は、マゴットの親戚筋にあたる宝石商の店で、各国の商人相手に売買される。だが、この石はさほどランクも高くない。研磨が終われば、女たちが待ち構える作業場へと運ばれていき、そこで手ごろな値段で購入できる装飾品や雑貨などに生まれ変わるのだ。

 職人としては、高値で取引されるであろう商人たち向けの石を扱ってこそかもしれない。だがティアは、こうした安価な石でも、誰かにとって宝物になるかもしれないと思うと、それだけで十分やりがいを感じた。自分の手の中でどんどん形を変えていくこの石が、女たちの手によって、髪飾りや置物など、ちょっとした小物になっていく。それは誰の手に渡り、どんな風に使用されるのか。

 感謝祭の当日には、露店横に小さな研磨機を設置し、ちょっとしたオーダー受けや研磨体験などもできるようにする。その担当も任されたことで、今回初めて同行することになったティアは、その日を今からとても楽しみにしていた。 

 黙々と作業を進めていく中、窓からの日差しが一瞬遮られたことで、ティアはふと顔を上げた。目線を向けると、見慣れた後ろ姿が通り過ぎていくのが見える。

「入るぞ、ティア。…おぅ、やってたか。仕上がりはどうだ?」 

 その数秒後、ノックというには随分と乱暴な音が響き、のしのしと入室してきたのはマゴットだった。

「順調だよ。明日には渡せると思う」

「明日?そんなに早くか。……さてはお前、また寝ずに作業してたんじゃないだろうな?」 

 ティアの没頭癖を知っているだけに、毎度疑ってくるのもしょうがないが、今回ばかりは濡れ衣だ。

「違うよ、ちゃんと寝てます」

「本当かぁ?また痩せたんじゃないか?ちゃんと飯も食ってるのか?」

「食べてる食べてる。こないだ、ハミスさんに全部メンテナンスしてもらったんだよ。そしたら調子がよくってさ。ただそれだけの話。それより、今日はどうしたの?」

 ジロジロと疑り深い眼差しでティアを観察するマゴットに、ティアは研磨機を止めて立ち上がった。

「レティシアがパイを焼いたんだ。早くお前のところに持っていけってうるさくてな」

「そうなんだ、ありがとう。ちょうどいいから、俺もこのまま休憩にするよ」

 マゴットから受け取った籠を覗くと、香ばしいパイと甘いジャムの香りがふわりと漂った。そのまま連れ立って加工場を出ると、居住区のリビングでお茶を入れる準備をする。

 元々はグルーナが住んでいたこの加工場付き住居で、ティアは4年前から一人暮らしをしていた。本格的な加工職人の修行を始めた時、グルーナはすでに引退していたので、ティアが直接指導を受けたことはない。だが、引退後も職人たちの相談役としてマゴットをサポートしていたため、定期的に足を運ぶことが多かった。修行の話からたわいのない日常のことまで、いつもニコニコと話を聞いてくれたグルーナは、ティアが漠然と抱いていた将来の不安にも気づいていたらしい。自身亡き後、この家の土地を、全てティアに譲ると遺言書を残しておいてくれた。それを知った時は大層驚いたが、ティアは残された手紙を読んで、全てを見通していた老職人に心から感謝し、その死を悼んだ。

 人間は、いつかこうして必ず死が訪れる生き物だ。それが大切な人であればあるほど、残された者にとって、失った後の悲しみは大きい。マゴット夫妻という後見人はいたものの、それを早くから知っていたティアには、いつも潜在的な不安がつきまとっていた。彼らが自分を我が子同然に思ってくれているのは分かっている。だが、だからこそ、いつか訪れる彼らとの別れがティアは怖い。その喪失感から、自分は立ち上がれるのか。幼いあの頃のように、感情を吐き出すことを忘れてしまうのではないか。

 そんな状態を繰り返さないためにも、ティアは自分の中で確固とした支えになるものが欲しかった。その一つが鉱石の加工だと思ったから、一心不乱に修行を積んだ。やりがいもあるし、収入にも繋がるのであれば、生活を安定させることができる。ティアの没頭癖が直らないのは、そういった心理面の影響もあると見抜いていたグルーナは、『自分だけの家』という形で新たな居場所を残してくれた。

 これは本当にありがたく、ティアの精神面を大いに安定させた。一人暮らしを始める時には、心配するレティシアに随分と渋られたが、マゴットは定期的に顔を見せることを条件に、何も言わず許してくれた。

「男なら、遅かれ早かれ、いつかは独り立ちするものさ」 

 そう言って笑っていたが、もしかしたらグルーナに何か言われていたのかもしれない。二人の関係を考えればそれも想像に容易かったが、ティアは深く追求することもせず、少ない荷物を持って家を出た。それから4年も経てば、もはや勝手知ったるもの。基本的な家具はすでに揃っていたので、足りない調度品は少しずつ自分で揃えていったのだが、随分と住み心地が良くなった室内には、ティアも満足している。

「ギンダスはどうだった?」

 専用となったお決まりのカップに紅茶を入れ、切り分けたパイと一緒にテーブルへ運ぶと、マゴットが砂糖を入れながらティアに聞いた。

「いつもどおり、特に変わりなかったよ。けど、やっぱり少し寂れたように見えた」

「そうか…まぁ、元々鉱山で栄えた町だからな。しょうがないのかもしれん」

「うん」

 レティシアのパイに合うのはミルクティーだ。ポットから注いだミルクが紅茶の色を変えていくのを見つめていると、1週間前に訪れたギンダスの街並みが思い出される。

 昔から大きな鉱山があったギンダスは、そこに勤める鉱夫やその家族、卸業者によって発展した町だった。だが、ティアの両親も亡くなった落盤事故をきっかけに、現在その鉱山は閉鎖されている。長年の採掘により鉱脈も細くなり、岩盤の脆さも以前から指摘されていたことが状況を加速させた。町自体はまだ残っているが、全盛期に比べると、住人もかなり減少しているらしい。

「そうだ、そういえばそのギンダスで、珍しいものを見つけたんだよ」

「珍しいもの?」

「うん。見つけたっていうか、もらったっていうか……ほんと、偶然なんだけどね」

 ティアはマゴットに見せるため、リビングにあるチェストを開けた。あまりに綺麗だったので、鉱石用のコレクションボックスに入れておいたのだが、それを持ってテーブルに戻る。

「見て。すごく綺麗だよね」

「これは……水晶クラスターか?」

「うん、多分。最初はもっと白っぽくて濁ってたんだ。だからデザートローズかと思ったんだけど、指にやたら岩粉がつくし。おかしいなと思って洗ってみたら、透明になったから吃驚した」

 ティアがマゴットに見せたのは、手のひらの半分にも満たない大きさの水晶クラスターだった。通常であれば、六角柱の単結晶が集まったものなので、歪な形をしているものも多い。だが、ティアが見せたクラスターは、水晶同士の角が取れて丸みを帯びており、それが絶妙な形で寄り添い合っているので、まるで薔薇のようにも見える。

「随分綺麗な形だが…研磨もしていないのか?」

「俺は何も。余計な母岩は削ったけど、最初からほぼこの状態だったんだよ」

 手にとってまじまじと観察するマゴットに、ティアは入手するに至った、詳細な経緯を説明した。

 ティアがギンダスに向かったのは、落盤事故の慰霊祭に参加するためだった。両親の墓は、村の近くの共同墓地にある。だが、ギンダスでの慰霊祭は、二人の命日に、その事故現場である鉱山の入り口で開催される。そのため、ティアは毎年参加するようにしていた。ラスター村からギンダスまでは、大人でも一日がかりの旅路。子供の頃はマゴットや村の大人たちが付き添ってくれていたが、自立してからは一人で訪れていた。その帰宅時、以前から顔馴染みになっていた卸業者の男に、ティアは声をかけられたのだ。

「店じまいして、田舎に帰るらしくてさ。売れ残りで処分するだけだから、好きなだけ持っていけって、倉庫に連れてってくれたんだ」

 少しずつこなせるオーダーは増えてきたものの、加工職人としては、まだまだ修行中の身。収入も心許ないので、毎日腕を磨いていかなければならないが、その研磨の練習に、屑石の加工はぴったりだった。ティアは男の申し出に喜び、好意に甘えて、倉庫に眠っていた屑石の山から一箱もらってきたのだという。

「…で、その中にこれが入っていたというわけか」

「うん。まさかこんな珍しいものが入ってるなんて思ってもみなかったし。……返したほうがいいと思う?」

「ふーむ…その業者の連絡先は分かるのか?」

「それが、分からないんだよね。慰霊祭で会えば、軽く挨拶する程度だったし」

「まぁ、卸業者なら、引退してても俺のほうで調べれば分かるかもしれないが………いいんじゃないか、そのままで。確かに珍しいものだが、お前がもらってこなければどのみち処分されるものだったんだろう?母岩付きだったなら尚更、今ここにあるのも偶然の産物だ。気にしなくていい」

 マゴットはそう言うと、クラスターをティアに返した。

「そうかな…?」

「あぁ。それに、もしかしたら、いつか高く売れる時が来るかもしれないぞ?」

「まさか。だとしても、こんなに綺麗なんだもん。もったいなくて売れないよ」

 ニヤリと笑うマゴットにティアは苦笑を返し、クラスターをしまった。

「まぁ、それは冗談にしてもだ。職人が人生を変えるような石と出会うには、運も必要なんだよ。そのクラスターがそうだとは限らないが、お前と縁があったから、見つけられたんだろう。珍しいものであることは確かだから、大切にしなさい」

「うん、そうする」

 マゴットと話して安心したのか、ティアはホッと肩の力を抜いて頷いた。

「だが、ギンダスで採れたのは、確かアズライトだろ?現地の屑石じゃないのかもしれないな」

「閉山してから随分経ってるしね。どこか別で仕入れた石なのかも」

 アズライトは青い鉱石の一種として有名な鉱石だ。実際に調べてみなければ、この薔薇のクラスターが本当に水晶なのかは分からないが、ギンダス産であることの可能性は低い。そんな予想から最近の鉱石の質にまで話は広がり、ああでもないこうでもないと話しているうちに、その日はあっという間に過ぎていった。




 それから黙々とオーダーをこなし、迎えた感謝祭当日。ティアの姿は予定通り、イアスト市のメイン通りにある路面店にあった。

 女たちが飾り付けた装飾品も売れ行きは順調で、その隣で作業するティアの研磨をみな興味津々で眺めていく。宣伝用に小さな看板を立てた効果もあり、修理の依頼もぽつぽつと入るようになっていた。

「ティアー、キリのいいところで休憩に入るんだよ!パレードが始まればさらに混むから、今のうちにお昼ご飯でも食べといで!」

「はーい!」

 今回のまとめ役であるリンジーに声をかけられ、ティアは手を止めて頷いた。研磨機の周りには、見学者に欠けらや石粉が飛ばないよう、防護ガラスを設置している。その前に、屑石で作っていた犬の置物を置くと、ちょうど興味津々に覗き込んでいた男の子の瞳が輝いた。

「わんわん!」

「そうだよ、よく分かったね」

「わんわんいるの、おうちにも」

「そうなんだ。わんわん好き?」

「うんっ、だいすき!」

「じゃあ、あげるよ。大切にしてくれる?」

 4、5歳くらいだろうか。ティアが手招くと、ガラスを回り込んでそばにやってくる。布で軽く拭いて石粉を取り、その小さな手のひらにそっと載せてやると、男の子の表情がさらに輝いた。

「いいの?」

「うん」

「たいせつにする!ありがとう!!」

 男の子は嬉しそうにニッコリと笑い、店を覗いていた母親の元に駆け寄っていった。スカートを引いて犬を見せると、驚いた表情の母親が申し訳なさそうに頭を下げてくる。少し離れていたので声は聞こえなかったが、ティアが気にしなくてもいいと笑顔で首を振ると、親子は嬉しそうに店を出て行った。

 あんなに喜んでくれるなら、子供や親子向けに、もう少し作ってみてもいいかもしれない。期間中に数が溜まったら、店頭に出してみようか。あとでリンジーに聞いてみようと思いながら、ティアは頭のタオルを取った。身体の筋を伸ばしながら財布を持つと、店の外に出て広場に向かう。飲食系の路面店は、椅子やテーブルが設置されている広場方面に多かった。そこをぶらついて、いくつか気になった料理を買うと、花壇横にあるベンチに座る。

「うまそう〜」

 買ったのはイアストの海で獲れた魚のフライをパンに挟んだものと、特産の果物を使ったジュース。一口齧ると甘辛いタレが熱々のフライに馴染んでいて、とても美味しかった。がつがつ食べているとあっという間になくなり、もう少し何か食べようかとジュースを飲む。

「気持ちいいな…」

 ふと空を見上げれば晴天にも恵まれ、行き交う人々も皆一様に笑顔だった。賑やかな客引きの声や美味しそうな食べ物の匂いも満ちていて、自然と笑顔が浮かんでくる。

「さてっと、もう一踏ん張り!……の前に〜」

 やはり、もう少し腹ごしらえが必要だ。ティアは空になった容器をゴミ箱に投げ捨て、再び路面店へと向かった。




「へぇ〜、器用なもんだなぁ」

 その客がやってきたのは、ティアが昼休憩から戻ってきて、しばらく経ったころだった。感心する声と同時に影が射したので、顔を上げると、真っ赤な短髪の青年がガラス越しにティアの手元を覗き込んでいる。

「いらっしゃい。修理や注文なんかも受け付けてますよ。入り用でしたら、いつでもどうぞ」

 ティアがそう声をかけると、青年はニコッと笑ってしゃがみ込んだ。

「そうなんだ。こういうの、研磨っていうんだろ?俺、初めて見たよ」

「えぇ、そういう方も多いかなと思って、今回初めて持ってきたんです」

 話しながらさり気なく青年を見ると、黒のパンツに白の軍服と、なかなか見かけない格好をしている。

(軍人…?俺より若そうだけど…)

 袖を捲って着崩した軍服からは、程よく日に焼けた両腕が見えている。肩には白い薔薇とハートの階級章がついており、それも珍しいなと目をこらした時だった。

「……」

 視線を感じたのか、青年が顔を上げ、ティアとばっちり目があってしまう。

(やばっ…!)

「……」

「……」

 じぃっと凝視してくる青年に気まずさを感じ、ティアは愛想笑いを浮かべて研磨に戻ろうとした。

「…なぁ、あんた」

「はっ、はい?」

「すげー綺麗な目してんだな」

「………へ?目?」

 てっきり文句か注意をされるかと思ったが、青年の突拍子もない言葉にティアはぽかんとした。

「そう、目。すげー綺麗な青い目してる。なぁ、悪いんだけど、ちょっとその頭のタオル取ってくんねぇ?一瞬!ちょっとだけでいいから!頼む!!」

「は…はぁ…?」

 なぜか急に前のめりになり、両手を合わせて拝んでくる勢いに負け、ティアはたじろぎながらタオルを外した。途端、バサリと出てくるのはいつもの長髪。

「……金だ……」

「え?…あぁ…そう、ですけど…」

「金髪だぁっ!!金っ、金髪に青い目!!ほんとにいた!!」

「は…?」

 突然立ち上がり、ティアを指差して大興奮する青年の様子に、行き交う客や店の女たちも何事かと顔を覗かせる。

「あの、お客さん?ちょっと静かに…」

 さすがに恥ずかしくなって注意しようと腰を浮かせると、青年はティアの手首を掴んで引き寄せた。

「なぁっ、あんた悪いんだけど、ちょっと俺と一緒に来てくんねぇ?あんたをずっと探してたんだよ!あんたに会わせたい奴がいるんだ!!」

「えっ?はっ?あ、あのっ…ちょっと…!!」

 何がなんだか分からないうちに引っ張られ、青年はティアと一緒に店を出ようとする。

「ティア!?どうしたんだいっ!?」

「リンジーさんっ…!俺も何がなんだかっ!」

「おばちゃん悪いっ、こいつ借りるなー!?」

「借りるって、ちょっとっ!ウチの子をどうしようってんだいーーっ!!」

 青年の力は強く、手を振り解こうとしてもなかなか解けなかった。そうこうしているうちに、あっという間に店の外へ連れ出され、慌てて追いかけるリンジーやオロオロしている他の女たちを他所に、ぐんぐんと走り出してしまう。

「ちょっ…!ほんとに…ちょっと待って…!」

「へーきへーきっ、すぐ着くから!」

(そうじゃなくて!!)

 普段から座り仕事で、滅多にない身体を動かすこともないティアは、猛ダッシュする青年の脚力についていけない。だが、青年が速度を落とす様子はなく、息も切れ切れで、引きずられるようにイアストの街を走る。

(もうっ、なんなんだよっ…!)

 なかば焼けくそになってついていくと、向かった先はイアスト市の商工会議所だった。普段はイアスト市に登録されている業者や貿易の管理を行っているが、感謝祭では運営本部にもなっている。

「アヴィ、見つけたっ!!見つけたぞーっ!!」

 廊下を行き交う職員の注目を浴びながら、手を引かれて飛び込んだのは会議室。両開きのドアをノックすることもなく、豪快に開けて登場した二人に、室内は一斉に静まりかえった。だが、ようやく止まった青年の背後でぜぃぜぃと息を整えるティアは、もう注目を気にするどころではない。

「ぐ、ユラン隊長?」

「ユラン、お前、ドアはもうちょっと静かに…」

「だって見つけたんだって!ほら、こいつだよ!絶対こいつがそうだよ!」

「わっ!」

 せかせかと歩き出した青年に再び引っ張られると、ティアは会議室の中央にあるデスク前に立たされた。

「ほらっ、金髪に青い目!ローが探してるのって、こいつだろ?」

 背中を押されると、椅子に座っていた人物とようやく目が合う。

「君は…」 

「え…?」

 そこに座っていたのは、がっしりとした体格の偉丈夫だった。年齢は30歳を超えているのか、ユランと呼ばれた青年にはない渋みがあり、彼と同じく、白い軍服を着ている。

「あの…」

 状況を掴めないティアがおずおずと声を出すと、ブラウンの髪の下、藍色の瞳が大きく見開かれた。

「確かに、可能性は高いが…」

「なっ!?そうだろ!?」

「お前、この子と一体どこで…」

「やっぱりなー!だと思ったんだよ。俺、早速ローのとこに連れてくわー!!」

「は?…って、おいっ!ちょっと待てっ!!」

「え?ちょ、またっ…!?」

 自分の勘が認められて嬉しかったのか、青年は偉丈夫の話も聞かずにティアの手を引いた。驚く二人を他所に、また一目散に廊下へと飛び出していく。

「待てユランっ!だ〜〜〜っ、もうっ!!お前らも早く追えっ、とにかく一旦、あいつを止めろーー!!」

 ぐんぐんと遠ざかる会議室から、偉丈夫が叫ぶ声が聞こえる。だが、青年は足を止める気配が全くない。

(も〜〜なんなのっ!マゴットさん助けて!!)

 振り解こうにも、青年の力は強く、ティアは必死についていくしかない。息を切らして半泣き状態で走り続けると、青年は建物を突っ切って、階段を上り、やがて広い屋上に出た。

「っ…」

 太陽の眩しさに目を細めていると、すぐに何かの影に入る。

「ここでちょっと待っててくれよ。すぐ準備するからさ!」

「え…?」

 息を整えながら、ようやく外の明るさに目が慣れてくると、ティアは目の前の光景に呆然となった。

「なに…?これ……」

「飛空挺だよ。コイツは俺の愛機なんだ」

「ひくう…てい…?」

 知識だけでは知っていた。飛行船が交通手段に用いられている国もあると、学校の授業で習ったからだ。だが、普段は馬車での移動が当たり前の生活である。海上を走る船ですら、イアストに来て初めて見たティアは、空を飛ぶ乗り物を間近で見るのもこれが初めてだった。

 真っ白に塗られたその機体は、ティアが想像していた飛行船よりも随分小さい。操縦席も1つしかなく、恐らく小型艇なのだろう。だが、綺麗な流線型を描いているボディは美しく、同じ機体が周りに何台も横付けされている光景はちょっとしたものだった。口を開けて、まじまじと観察していると、両サイドの翼にハートとAの字が描かれていることに気づく。

(確か、あの人の階級章はダイヤだったな…)

 一瞬のことだったからよくは見えなかったが、会議室で会った偉丈夫のことを思い出していると、ボディに梯子を寄せて、操縦席で作業をしていた青年が顔を上げた。

「よし!これでなんとか行けるっしょ。あんた、飛行艇は初めて?」

「う、うん…そうだけど…」

「そっか。まぁ、今回はそんなに高く飛ばないから大丈夫だよ。これ付けて」

 青年は梯子を降りてくると、ティアにゴーグルを渡した。

「え…?え…?」

 そのまま戸惑うティアの背後に周り、背中を押して梯子を登るように促す。

「はいはい、乗った乗った!」

「え?え?待って、だって、これ一人乗りでしょ!?」

 ティアは梯子に手をかけて抗議するが、青年は無邪気な笑顔でぐいぐいと押し切る。

「だーいじょうぶだって!いらないモーター外して、少し広くしたし!あんた、見た目細っこいし、あんた一人ぐらいなら、俺が後ろから抱いて座れば、操縦できるからさ!」

「ほ、細っこいって、ちょっと!押さないでよ!!」

 確かに、年下のように見えて、確かに体格は青年のほうが大きい。その力にも敵わず、ティアはぶつぶつと文句を言いながら梯子を登るしかなかった。

「もうっ!俺をどこに連れてくつもりなんだよ…!」

 周りの機器に触れぬよう、恐る恐る操縦席に立つと、後ろから登ってきた青年が声をかける。

「あ、そこで待って。俺が先に座るから。…あんたのその髪…ゴムとか持ってる?」

 上着には入れていたが、突然連れ出されたから店に置いたままだ。ティアが首を振ると、青年は軽く頷き、上部の引き出しを開いた。

「じゃあ、メット被ろう。俺のだけど、一回も使ってないやつだから。そんなにスピードは出さないけど、風で髪が流されると、操縦の邪魔になるんだよね」

「……」

 結局、どこに向かうのかも教えてくれない。だが、ここまで来たらもう、青年の言うとおりにするしかないのだろう。ティアはため息を付き、髪を軽く束ねて右肩に寄せると、手渡されたヘルメットを被った。その上から遮光ゴーグルを付けると、初めて見る視界に緊張が高まる。

(マゴットさん…レティシアさん…みんな…)

 そろそろ、業者との交渉に向かっていたマゴットにも連絡がいっただろう。ティアがいなくなって、随分と心配しているはず。イアストの商工会議所にいるくらいだから、青年も偉丈夫も、身元は確かなのだろう。悪いようにはされないはずと信じたいが、やはり逃げ出すべきだったか。

 ゴーグルのせいで視界が狭まり、ふらつくティアの手を取って、先に座っていた青年が誘導してくれた。ゆっくり腰を下ろして、その足の間に収まると、すっぽりと青年の身体に包まれてしまう。

「よーし、発進するよ。初フライトで緊張するだろうけど、全身の力を抜いて、俺に寄りかかって。今からそんなんじゃ、向こうに着いた頃には相当疲れるよ?」

(できるか…!)

 エンジンが起動し、その振動音を直接身体に感じると、ティアは心の中でつっこむのが精一杯だった。青年の操作に応じて、機体が上昇する。

「隊長!待ってくださいっ、ユラン隊長っ!!」

「待てっユラン!!勝手に動くんじゃない!!」

 地上からの声が聞こえたのは、その時だった。機体はすでに3mほど地上から離れており、追いついた偉丈夫たちに青年が手を振る。

「先に行ってる!アヴィたちも早く来いよ!?」

「だから、まだ行くなっつーの!!」

 さらに高度を上げると、偉丈夫たちの声もやがて聞こえなくなった。操縦席から見えるのは、青い空と遠くに広がるイアストの海。

(こ、怖い…!)

 ティアが思わず目を瞑った瞬間、全身にグッと重力がかかり、後ろに押される。

「ちっ……あの馬鹿っ…!」

 地上では、加速して飛び去った飛空挺を見送る偉丈夫の舌打ちだけが、虚しく取り残されていた。




 室内では、連れてきた複数の隊員たちがひたすら紙をめくる音だけが響いていた。時折、カチカチと機械質な音が響くのは、ベリダに任せた記録機器の操作音だろう。

「……」

 ローイは手元のファイルが最後のページまで終わったのを確認すると、表紙を閉じて深くため息をついた。

 ティストヴァルに入国したのが1週間前。そこから首都のヴェルターゴに入り、国民全員の戸籍を調べることにしたのはいいものの、予想以上に膨大な量で、なかなか手がかりを得られずにいる。

(あのいかれ帽子屋め…本当にこの国にいるんだろうな…)

 なかなか進展しない状況に思わず舌打ちしそうになるが、参謀役でもあるベリダに注意されるのも今は煩わしい。諦めて次のファイルに手を伸ばした時、室内にドアをノックする新たな音が響いた。

「船長!イアスト市に向かっていたダイヤから緊急連絡です!」

「入れ」

 ローイが入室を許可すると、別室で本船と伝令役を務めていた隊員が小走りで駆け寄ってくる。他の隊員たちも手を止めて注目する中、ベリダが立ち上がって、ローイの横に立った。

「報告を」

「はっ!ダイヤのアヴィル隊長より、アリスと思われる人物をイアスト市で発見、接触に成功したそうです」

「そうか…イアストで…」

 待ち望んだ報告に、ローイは思わず息を飲んだ。他の隊員たちも「おぉっ!」と安堵の声を上げ、室内の空気がざわざわと動き出す。

「それで?確証は取れたのか?」

 ベリダが報告の続きを促すと、伝令役の隊員は一気に戸惑いの表情を浮かべた。報告書の内容をそのまま伝えてもいいものかどうか、ローイの顔をチラチラと伺う。

「いい。アリスの発見は第一優先事項だ。そのまま報告しろ」

 ローイが頷くと、伝令役の隊員は意を決したように読み上げた。

「では…アヴィル隊長からの報告によると、見つけたのはハートのユラン隊長だったそうです。ユラン隊長はイアスト市中の探索を単独で行っていたらしく、どこで発見および、接触したのかは不明。

 待機所に連れてきたものの、アヴィル隊長に軽く報告をしただけで、船長の元に行ってくると一緒に飛び立ってしまったとのことで…」

 報告を続けていく内に、シーンと静まり返っていく室内に、伝令役の隊員も気まずそうだった。どんどん声が小さくなり、呆然と報告を聞くローイの顔を、再びチラリと伺う。

「…一緒に飛び立ったって?ユランが?確認もしないで?大体、トランプは一人乗りだろう。どうやって二人で乗ってくるんだ」

「それが、操縦席のモーターを外して、無理やり二人で乗り込んだようだと……そう報告が入っております…」

 深いため息をついたローイは、額に青筋を浮かべながら右のこめかみを揉んだ。

(たくっ……あいつは事の重大さを分かっているのか!!)

 ユランの猪突猛進な性格を考えれば、無理もない。彼のやりそうなことだ。

 だが、今回は通常の探索業務と訳が違う。アリスだ。この国、いや、この世界の命運がかかっていると言っても過言ではない。その重要人物の探索任務なのに、確証も取っていないとは。

「ベリダ、すぐ船に戻る。ユランが来るなら、此処より向こうだろう」

「分かった、私も同行しよう。」

 ローイが立ち上がると、ベリダは頷き、自分の副官を呼んで指示を出した。

「ゼナ、他の者も待機と同行班に分けなさい。先に行くから、同行班は後からついてくるように」

「はっ!」

 その声を聞きながら、ローイは椅子にかけていた軍服を取り、シャツの上から羽織りながら廊下に出る。

「ユランがイアストを出たのは何時だ?」

「14時過ぎとのことです。それからすぐに報告がありました」

 後ろをついてくる伝令役の報告に、ローイは懐中時計を出して時間を確かめた。それが正しければ、まだ10分ほどしか経ってない。イアスト市からヴェルターゴの距離を考えると、通常ではまだ2時間ほどかかるはずだ。

(あいつのトランプなら1時間だな…)

 「トランプ」と呼ばれる小型の飛空挺は、どの隊も、AからJまで全員に支給されている。

 だが、ハートのAであるユランの愛機には「バレット(弾丸)号」という異名があった。読んで字の如く、とにかく早いのである。一体どんな操縦をすればそんなにスピードが出るのか、本船の機関士たちも首を傾げるのだが、スピードを上げれば上げるだけかかるであろう重力にも、当の本人はあっけらかんとしている。

「待てよ…」

 ローイはふと思い立って足を止めた。

「どうした?ロー」

 急に振り返ったローイに、少し遅れてついてきたベリダが伝令役と一緒に首を傾げる。

「確証が取れてないと言ったな。ユランがどこで見つけたのかも分かっていないと」

「は、はい…」

 緊迫した表情で詰め寄るローイに、伝令係は及び腰になって頷いた。

「では、そのアリスと思われる人物が、フライトの経験もあるかも分からないということだよな?」

「お、おそらく…」

「…ではつまり、飛行経験もないのに、初めてのフライトがユランの操縦ということになる…?」

 ローイの呟きに、伝令係とベリダは、はっと顔を合わせた。

「……」

「……」

「……急ごう。まだアリスか分からないが、どちらにしてもその身が危ない」


 1時間後、ユランが運転するバレット号は、ローイが待つ本船「ホワイトローズ号」の元に帰還を果たした。ローイが心配したとおり、ヘルメットを付けたまま、気絶したティアを乗せて。

 その身体を抱き抱え、困り顔で降りてきた部下にローイがしたことは、思い切り振り落とした拳骨と、渾々と続く説教だった。

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七つの空と薔薇の物語 ―始まりの青― 山本 皐月 @k-satsuki

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