第12話 ホタルと牛の乳


「なに?牛のちちが欲しい?」


江戸指折りの料亭「万七楼まんしちろう」のあるじでホタルの父の久右衛門きゅうえもんが驚いて聞き返した。ついに水戸徳川家の家老 朝比奈左近あさひなさこんから父宛に書状が届いたのだ。

そこには、殿様が直接ホタルに手料理を所望したのでどのような食材であっても希望にそうように、と書かれていた。そこでホタルに何が必要かと尋ねたところ「牛の乳が欲しいんだけど・・・」と言われて驚いたのだ。


「殿様から、お子様たちが喜ぶ料理をと言われたんだけど・・・」


少し不安そうに上目使いでホタルが答える。


「確かにこの書状には水戸様のご所望とあるが・・・いったいお前、何をする気なんだね?」

「そんなことより、驚いた!ほたる。お前、料理が作れるのかい?」


母ふじがびっくりしたように尋ねる。


「少しなら・・・」

「ま~あ!おまえさん。この子の器量で料理も上手となったら大変ですよ!」

「なんと言ってもほたるは江戸一番の料亭の跡取り娘だ。やっぱりわたしの血を引いているんだね」

「いいえ、それだけじゃありませんよ。江戸でも五本の指に入る俵物たわらもの商いの大店の娘である私の血も引いてるせいですよ。だから料理につかう材料の味の目利きができるんですよ!」


父と母はすっかり相好を崩しながら手を取りあって嬉しそうに言いあう。


「で、牛の乳で何を作る気なんだね?」

「クリームとバター、それとチーズかな・・・」


ふたりはキョトンとしてしまった。


「くりいむ? ばたあ? ちいず?」

「そりゃあいったい何だね?」

「えっと・・・洋食、違う、な、南蛮料理にはなくてはならないもので」

「ほお!」

「ほたる、お前。南蛮料理が作れるのかい?」


再び喜色満面声を弾ませて尋ねる。


「すこしだけど・・・でも、バターがなければ何も作れないし・・・」

「ばたあ、ったあなんだね?」

「牛の乳から脂肪・・・ええと、脂分を取り出したものなんだけど・・・」


父久右衛門が腕を組み首をかしげる。


「というと、白牛酪はくぎゅうらくのことかい?」


しばらく考えてから言った。


「白牛酪? それはどういうもの?」

「うむ。牛の乳を煮詰めて作るもので十一代の将軍様 家斉いえなり公が大層好まれたそうだ。なにしろ御台所みだいどころ様のほかに四十人の御側室、江戸城大奥のねやでお作りになったお子が男女合わせて五十と三人。そっちの方では精力がつく妙薬ということでそりゃあ珍重されているんだよ」


第11代将軍徳川家斉はわずか15歳で将軍となった。大御所となって息子に将軍職を譲るまでの在位50年は歴代将軍最長であり、69歳でこの世を去るまで54年間子作りに励み、正室を含む17人の妻との間に男子26人女子27人をもうけた。

たしかに将軍の大事な役目は跡継ぎとなる男子を残すことだが、幕政は老中たちに任っきりで、自分は高蛋白乳製品の白牛酪を常食しさらには漢方の強精剤オットセイの陰茎粉末を愛用して大奥に籠っていたという。

当然のことながら艶福家の家斉は精力絶倫という噂が立って江戸庶民からは“膃肭臍おっとせい将軍”と呼ばれていたという。


「まあ、おまえさん!ほたるの前で何というはしたない話を!」

「おっと!まあ、ほたるもいずれ近いうちには婿むこを取らなければならん身だからな」

「うっ・・・婿を取る・・・」


それを聞いてホタルはビクッと肩を震わせると青ざめた。それもそのはずで華奢で形のいい小顔をしていてもホタルは男なのだ。迷い込んだパラレルワールドで自分が女の子であったことを知り、なんとか女装して辻褄を合わせてはみたもののまさか花嫁にされるとは思ってもいなかったのだ。


「おや?ほたる、顔色が悪いよ?」

「だ、大丈夫。ちょっと、びっくりしただけだから・・・」

「おまえさんがそんな話をするからですよ!」

「すまんすまん。若い娘にはみだらが過ぎたか」


胸に手を当て呼吸を整えるホタルの様子を心配そうに見ている。


「・・・その白牛酪って手に入るの?」

「おやおや、ほたる。おまえ、男に精をつける薬に気が向いたのかい?」


気を取り直し話の流れを変えようと尋ねると、また混ぜっ返されてしまった。結構下ネタが好きな母親かもしれない。


「そ、そうじゃなくって白牛酪がバターと同じものなのかなって思ったの」

「なんだ、そうなのかい。ほかにもいろいろ精をつける薬はあるから、いまの内から教えとこうかと思ったのに」


少し残念そうだ。


「そ、それはまだいいって・・・で、手に入るのかな?」

「うちにあるよ」

「え?」

「いや、な、私も齢だろ?母さんと、ナニする時にはナニなもんでな。といっても毎日ではないぞ?せいぜいふた月に一度、それも一晩一回こっきりのことだがな」

「いやだねえ、おまえさん。娘の前でなにを言い出すんだよ!」


母ふじが真っ赤になって袖で顔を隠す。


「そ、それはともかく白牛酪がたまたま手元にあるのだよ」

「と、言うことは・・・今晩あたりが、ふた月に一度の日なんだ・・・」

「そ、そんなことはどうでもいい!と、ともかくお前に見せてやろう」


父久右衛門は奥から小さな桐箱を取り出してきた。ふたを開けると油紙に包まれたものが収められている。ハシバミ色の紙を開くと中から白いかたまりが現れた。まるで石鹸のようだ。


「バターというよりはチーズみたい・・・少し食べてみてもいい?」

「若い男ならえらいことになるが、お前は女だからな。いいよ、試してごらん」


ホタルは、黒文字くろもじで少し端を削り取ると口に含んでみた。


「ん・・・甘い」

「な?癖のある味だろ?だから甘味をつけて飲み込みやすくしてあるのさ」

「脂肪分はしっかりある・・・だけど・・・」


楊枝を口先にくわえたまま小首を傾げた。


「どうだね?お前の言っている“ばたあ”だったかい?」

「脂分は同じようだけど違う。バターはしょっぱいの」

「塩ょっぱい?塩っ辛いわけか。となると白牛酪ではお前の料理には使えないか」


するとホタルがパッと明るい表情になった。


「そうだ!これが作れるんだったら牛の乳だって手に入るはず!この白牛酪はどこで手に入れたの?」

「これか?これは馴染みの店で購ったものだ。店の由来書きによると八代将軍吉宗公の御世みよに江戸に参府した阿蘭陀おらんだ商館の医師が牛の乳から作る白牛酪が大層滋養によいと進言したのだそうだ。そこで吉宗公は商館長かぴたんに命令してわざわざ天竺てんじくから白牛三頭を運ばせ房州の嶺岡牧みねおかまきで飼育し、白牛酪を作らせたのがはじまりだそうだ」

「・・・そういえば江戸時代にはオランダ商館があるんだっけ!」


ホタルは鎖国している江戸時代でも唯一西洋との窓口として長崎の出島にオランダ商館があったことを思い出した。もともと貿易のための存在だから、西洋食材も日持ちのする加工品であれば手に入るかもしれない。


「次のオランダ商館の江戸参府はいつなの?」


普段は出島という閉鎖された埋立地に押し込められているのだが、何年かに1度貿易を認めてくれていることの御礼言上おんれいごんじょうのため、オランダ商館長が時の将軍に拝謁する決まりとなっていた。その際に江戸市中に滞在するオランダ商館の人に相談すれば食材もどうにかなるかもと思って、尋ねてみる。


「それが、久しく阿蘭陀商館の江戸参府は行われていないのだよ」

「どうして・・・」

「それはな、阿蘭陀船が来ないからなのだ」

「え?」


思わぬ展開にホタルは絶句してしまった。


「かれこれ阿蘭陀船が長崎に来なくなって十七年になるかな。長崎の阿蘭陀商館は入ってくる荷もなく出島の中の菜園や家畜小屋で食い扶持を作りなんとかしのいでいるのだそうだよ。長崎口から入る物産と言えば支那の国からのものだけだ」

「じゃあ、オランダ商館からの品物も江戸には入ってこないんだ」

「ああ。そうなんだよ」

「だとすると、やっぱり自分で作るしかないか・・・ね、房州で育った白牛の子孫って江戸の近くにはいないの?」

「ふむ。家斉公の御世に、乳の出のよい十頭を江戸城内の御厩おうまやに移したという話だが、その後の将軍様方はお好みにならなかったようで、今は御厩に白牛はいないそうだ。江戸に連れて来た白牛をまた房州に戻したのか、それとも城の外の御厩に移したのか・・・はて?」


牛乳が手に入らなければ何も作れない。房州っていったら安房の国。千葉県南部だ・・・乳製品は日持ちしないから、そこまで行って作るのでは江戸に持ってくるのは難しい・・・でも、この白牛酪は割と新鮮な感じだ・・・江戸で作っているにちがいない!


「じゃあ、この白牛酪をそこの店ではどうやって手に入れたの?」

「私が懇意にしているのは薬種問屋の玉屋さんなのだが」

「薬の問屋さんなら、店で作っているのでは?」

「そうか!玉屋さんに頼めば牛の乳を分けてもらえるか!よし、さっそく相談してみることにしよう」


と言うことで、ホタルの西洋料理作りにはぜったい欠かせない牛乳を手に入れる目途がたったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

銀河のかなたの江戸時代 びんが @karyobinga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ