深夜営業、図書喫茶(2)
次の日、いつもより少し遅い時間に文香ちゃんはやって来た。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
文香ちゃんはぎこちなく微笑んだ。
「あの、昨日読みかけだった更紗さんが貸してくれた本は……」
「あぁ、はいはい」
実体化できるのは店内だけ。自然と借りた本もここで読むことになる。文香ちゃんが来てすぐ、別のお客さんが来たので喋るのはそれきりとなった。
働いている途中、お客さんの波がようやく途切れた頃、ふと窓際の隅っこの席を見ると文香ちゃんが荷物ごと消えていた。あの子、本を探す時はいつも荷物は置きっぱなしなのに、もう帰るのかな?
「あの、この本ありますか?」
きょろきょろと文香ちゃんを目で探していると、お客さんに本のタイトルの書いたメモを渡された。
「少々お待ちください」
そう答えて本棚の間に入りすぐに本をお客さんに手渡す。その時、本棚の間に立つ文香ちゃんの姿が見えた。
「ふみ……」
声をかけようとしたのだが、私の言葉はそこで止まってしまう。文香ちゃんの真剣な、思いつめたような、表情を見て。深淵を覗き込むような怯えた、それでいて覚悟を決めたような複雑な表情。私はその姿に気圧されて、声をかけるのも忘れ、ただ文香ちゃんの手元を隠れて見ていた。その手元には昨日話題になった深緑色の表紙の本が握られている。
文香ちゃんはしばらくその表紙を見つめていたが、やがて鋭く息を吸い込むと、素早くその本を自分の持っていた鞄に放り込んだ。
――万引き。
その言葉が脳裏に浮かんだと同時に私は目の前が真っ暗になった。そして、ほんの一瞬で自分の対応を二つシミュレーションした。その場で呼び止めてこっそりと言うか。店長のところまで引っ張っていくか。
だけど……そのどちらもできなかった。私は立ち竦んだまま、第三の選択をしてしまったのだ。
黙って、見過ごす。
文香ちゃんは何食わぬ顔で、そのくせ少し頼りない足取りでカウンターまで行き、お金を払って店を出てしまった。
私は慌ててその後を追う。実体化していられるのはこの店の中だけ。当然物に触っていられるのも中だけだ。なので本は店の入り口のところに落ちているはずである。なのに……
そこには何もなかった。
「おい、更紗。何してんだ?」
私が本棚の間で膝を抱えて蹲っていると、その肩が突然揺すられた。柱時計が四時少し過ぎをさしている。あの後閉店まで、店長を一人で働かせてしまったらしい。
「熱でもあんのか?」
「そんなわけないでしょう」
「じゃあ、どうしたんだよ?」
店長も私の隣に腰を下ろし、煙草に火をつける。普段なら本が傷むと言って実力行使ででも止めるのだが、今日はその気力もない。
「………万引きなんです」
散々ためらった末、ようやくそれだけの言葉を吐き出した。
「ふぅん。だけどお前確か、本屋のバイトも掛け持ってんだろ? じゃあ、そんなの何回も経験してるだろ?」
「ええ。でも……先日も言った通りここではそんなことはないと思い込んでいました」
「ん。確かに今までなかったな」
「止めなきゃって思ったんですけど、その子の気持ちも痛いほどに分かってしまって。本って、どこか麻薬に似ているんです。どうしても、その本が欲しくなることがあるんです。我慢しても我慢しきれない。だから……もうここ以外で本を触れられないあの子は、欲しいがために盗むしかなかったんです。でも……」
喋っているうちに涙が溢れてきた。
「その子は本当に楽しんでその本が読めるんでしょうか。見るたびに罪を思い出して本当に本が楽しめないんじゃないでしょうか。どうしても欲しかった本なのに、結果として読みもせずに目に触れないようなところに置いたとしたら」
しゃくりあげながら言葉を紡ぐが、自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。それでも、これだけは確かな最後の一言を言い切る。
「その子も本も、救われないじゃないですか」
それだけを言って、立てていた膝に突っ伏した。
「まるで、実際経験してたみたいな言い方だな」
「そんなこともあったかもしれません」
頭の上に暖かくて大きな掌がのる。
「その子って、文香ちゃんって奴だろ? そいつなら帰って来るさ」
「帰ってこないかもしれません。私が見てきた人たちはそうでした」
「文香ちゃんってのは、そういう奴か?」
私はゆっくりと泣き腫らした顔を店長に向けた。決していつものようにふざけた表情ではない。きっと、昼間の心霊相談ではこんな顔をしているのだろう。
「……かもしれません」
店長の言うことも、文香ちゃんが返しに来てくれることも信じたい。でも、信じられない。
「まぁ、明日になれば分かるだろ。それより片付けんの手伝ってくれよ。俺じゃどこに何を置けばいいのか分からなくって」
* * * *
結局次の日の営業時間中に文香ちゃんは来なかった。その事にがっかりしながら、私は閉店作業をしていた。折り畳み式の長机を片付けて、テーブルクロスを畳み、パイプ椅子を運ぶ。花瓶を店の奥に運ぼうと手に取ったら、
「わっ、更紗ちょっと待て」
と、店長の慌てた声が聞こえてきた。
「え? 何ですか?」
そう振り返った時には私はすでに花瓶を手に取っていて……
「ひゃっ」
手の中で花瓶が崩れる感触と、自分の悲鳴、床で花瓶が砕ける音が重なった。
「ごめんなさい、すみませんっ。っていうか何でいきなり花瓶が破れるんですか? 私、そんなに力強くないですよ?!」
「慌てた言動もかなり面白いんだが、ちょい落ち着け。さっきちゃんと『その花瓶破っちまって、ボンドでくっつけたとこだから触んなよ』って言っただろ」
それに対して私はしばし沈黙する。
「……記憶にさっぱりありません」
「だろうな。ぼーっとしてて、いかにも聞いてなさそうだったし」
店長は深ぁく溜息をつく。
「すみません、業務中だったのに」
「いや、どうせボンドでくっつけても使えなかっただろうし。金ないんだよなぁ、どうするかなぁ」
「……すみません」
店長の未練がましい台詞を聞きながら、花瓶の破片を拾う。ほとんどの破れた面にボンドが着いている。店長の言う通り、これでは再利用は不可能だっただろう。
「お前なんか今日変だな。熱でもあるのか?」
などと言い、額に手を当ててくる。その、人の様子の変化に敏感なくせに、見当違いな行動を振り払って立ち上がった。
「だから、それは有り得ないって店長も分かってるでしょう」
「まぁそうがっかりするな。あの子だって毎日来てるわけじゃないだろう? 二、三日中に来るさ」
珍しく店長が後片付けを手伝ってくれている。私が不安なのがはたからも明らかに分かるらしい。
「何でもいいけどよ、そのあからさまに思ってること顔にだすのはなんとかしてくれ。たまにしか来ないばあさんですら心配してたぞ。『あんた今度は何やらかしたんだい』って。まるで俺が更紗に迷惑かけまくってるみたいじゃねぇか」
「事実でしょう? まだ今月のお給料もらってませんし」
「……忘れてた」
まぁ、そんなとこだろう。でも情けない表情の店長に思わずクスリと笑いがこぼれた。少し気分が浮上する。
半分ほどのテーブルを片付け終わった頃、突然ドアのベルが鳴った。文香ちゃんかと思いぱっと振り返ったが、予想に反してそこにいたのは先日人探しを頼んできたおじいさんだった。
「あの、今日はもうお店閉めちゃうんですけど……」
「すまない。すぐに帰るから、人探しの件についてだけ聞かせてくれ」
「あ……」
私は思わず間抜けな声を上げてしまった。深緑色の表紙の本。おじいさんが探している人の手掛かりの本。同時に私が文香ちゃんに紹介して、文香ちゃんが持って行ってしまった本。と、いうことは、おじいさんが探してたのは、文香ちゃん……?
「あの……えっと……そのぅ……」
まさか盗まれちゃって、その人が二度と来るかも分からない、なんて言えるわけもなく視線を泳がせておろおろしていると
「ええ、見つかりました」
などと、店長が無責任なことを言う。
「ちょっと、店長っ」
「ただ、今ここにはいらっしゃらないんで、少し待って頂かなければならないのですが。少々こちらでお待ち下さい」
「店長……」
呼び止めるが、店長はおじいさんを連れて奥に行ってしまった。私はその場で立ち尽くして二人が消えていった方を見つめる。
信じたい。
信じたい。
信じられない……。
店長が全然戻ってこないので仕方なくいつも通り一人で片付けをした。一つずつ席を片付けていくと、窓際の隅っこの席だけが残った。文香ちゃんの指定席。ぼんやりとそこを見つめる。もう来ないのだろうと私は半ば確信していた。それだけ人間というものが信じられなかった。きっと罪を隠蔽するのだろうと思っていた。
バタンっと大きな音と狂ったようなベルの音、いきなり止まる足音に、大きな呼吸音。そして震えた声が続く。私はドアの方に振り返れなかった。
「更紗さん。ごめんなさい」
振り返らない私を見たせいか、彼女はその場で泣き崩れてしまった。
まさか、来るとは思わなかった。盗んだことを隠して、もう二度と来ないようになると思ってた。
「文香ちゃん……」
「更紗さん、ごめんなさい。私これ……」
そう、差し出された本は深緑色の表紙のもの。
「昨日、盗んじゃったんです。これが、私の成仏ができない原因だったから。……昔、おじいちゃんにせがんで買ってもらった本なんです。私が最初に買ってもらった本で、おじいちゃんに最後に買ってもらった物なんです。小さい頃から入退院を繰り返している中で、何回も何回も繰り返して読んで、ボロボロになっちゃったから中学校に入る時に、お母さんが捨ててしまって。おじいちゃんに買ってもらった物で残ってた最後の物だったのに。それで散々探したけど、絶版されてるせいもあって、生きてる間は手に入らなかったんです。ほしくってほしくってたまらなかった本が手に入ったから、もう成仏できると思ってた。けれども……」
一度言葉を切り、まっすぐこちらを向いて言う。その瞳はあの、本を盗ろうとしている時と似ていた。何かに怯えていて、それでいて覚悟を決めたような瞳。
「今度は何で私はこんなことをしてしまったんだろう、更紗さんに迷惑をかけてしまったんじゃないだろうか、と、思って。罪悪感で、胸が苦しくて。……本当にごめんなさい」
泣きながらそう言う文香ちゃんに向かって私は定まらない足取りで近付く。そしてしゃがんで文香ちゃんに目線を合わせる。
「私こそ、止めてあげられなくてごめんね。文香ちゃんが苦しむって分かってたのに。それから、返してくれてありがと」
こちらも泣いてしまいそうだったが、そう微笑んでいった。
「文香……?」
店の奥のほうから驚いた顔のおじいさんが出てきた。後ろから店長も続いている。
「おじいちゃん……?」
「迎えに来た。文香が死んでしまったのに、まだ現世で彷徨っていると聞いて」
難しそうな顔に反して、穏やかな声で言う。文香ちゃんは突然のおじいさんの登場に驚くでもなく、黙ってただ話を聞いていた。
「しかし、まさか文香が来れない原因がこの本だったとは思わなかった。悪かったな」
「ううん、おじいちゃん、迎えに来てくれてありがとう。もしかしたら、おじいちゃんのこと待ってたのかもしれない」
文香ちゃんは何の未練もないかのように、晴れ晴れと笑った。それにつられておじいさんの表情も緩む。
「文香がお世話になりました」
「いえいえ、こちらは本さえ返ってくればそれでいいです」
「いえ……この本は実は貴方の店の物ではないんだが…」
おじいさんの言葉と共に、私の手の中の本が徐々に姿を薄くしていく。
「文香を探すために儂が置いていったものだ」
どおりで店外に持ち出せて、私も見覚えのないはずだ。
「そりゃ、一本取られましたね」
店長がそう苦笑する間も二人の姿は徐々に消えていく。
「更紗さん、本当にありがとうございました」
私には文香ちゃんが手を振ったかのようにも見えたが、はっきりとはしなかった。
「二人共、いったの?」
「ああ、そうだな。未練もなくなっただろうし」
「そっか……」
常連さんが、仲の良い友達が逝ってしまうのは少し寂しかった。少し俯いていると、店長の手が私の頭をくしゃりと撫でる。
「な? 今回は俺が全面的に正しかっただろ?」
「ええ、今回は、ですね」
「……素直じゃねぇんだから」
日が昇ってきたらしく、外が明るくなってきた。同時に私の視線が下がり、段々と視界が暗くなる。
「ああ、もうこんな時間か」
店長はそう呟き、片手で私を拾い上げた。
「書霊のお前も今回のことで少しは人間のこと信じてもいいと思ったか?」
その質問に私は心の中でだけ「少しは」と答えておいた。この姿のままでは、物を見ることも、喋ることもできない。
「しかしお前、日がない間しか人間の姿取れないってのは不便だぞ。しかも日が沈んだら嬉々として本屋にバイトに行って、十一時までは帰ってこないし。どうにかならねぇのか?」
店長はぶつくさと文句を言いつつも、私を鞄に入れて、朝日を浴びながら自分の家に向かった。
私は装丁の崩れたような古い本で、そこには小説が記されている。主人公の名前は更紗という。
了
深夜営業、図書喫茶 小鳥遊 慧 @takanashi-kei
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