深夜営業、図書喫茶
小鳥遊 慧
深夜営業、図書喫茶(1)
店の一番奥のほうにある柱時計が古びた音で午前0時を告げた。
「更紗、表の看板OPENにしてきてくれ」
カウンターの中から店長が鼻歌まじりにそう呼びかけてくる。何の憂いもなさそうな、むしろ機嫌のよさそうな姿にさては……と思い、恐る恐る聞いてみた。
「店長、今日何の日だったか知ってますか?」
「ん? 何の日だ?」
やっぱり……。
とぼけているわけでもなく本気で分かってなさそうな姿に思わずうなだれ、半ば諦めつつやや語気を強くして告げる。
「お給料日です」
店長は驚いたように私を見て、そのまま沈黙。
やっぱり沈黙。
いつまで黙っているつもりだろう。……沈黙。
思わず非難を込めて見つめると、ようやく気まずそうにぎこちない笑顔を浮かべて口を開いた。
「あー……悪い。忘れてた。明日でいいだろ? な?」
「先月も同じこと言ってましたよ」
「反省してるからさぁ、とりあえず店開けてくれよ。頼むって」
手を合わせて拝むポーズをするところまで先月と同じだ。
「……はぁい」
私は小さく溜息をついて小走りにドアまで行き、外にある看板をひっくり返してCLOSEからOPENにした。
大通りから少し奥まったところにあるこの店。昼間は店長のお兄さんが普通の古本屋を営んでいる。しかし夜の0時から朝の5時までは、店長が大胆にも店を商品ごと借りてちょっと趣旨の変わった図書喫茶を開いている。当然のことながら、借りるまでは兄弟でひと悶着あったらしい。変わった営業内容のせいで、店員の私と店長だけだ。何せ深夜営業……電車もない時間帯なので、昼間とはかなり客層が異なる。例えば……
* * * *
ドアが開いてちりんっとベルの音が聞こえた。今日最初のお客さんだ。
「いらっしゃいませー」
店長は読みかけの雑誌に目を落としたまま反応しないので、代わりににっこりと営業用スマイルを浮かべてドアの方に振り向く。そこには、豊かな白い鬚を蓄えるおじいさんがいた。眉間によったしわが頑固そうな印象を与えている。初めての方だ。
「席は30分単位で精算で、飲食物は別料金……こちらになっております」
臙脂色の布張りのメニューを手渡す。おじいさんはチラッと中を見てすぐに注文した。
「コーヒーを」
「はい。本はあちらにありますのでご自由にお取り下さい。なお、店外への持ち出しは一切禁止になっております。では、ごゆっくりおくつろぎ下さい」
私は微笑んで一礼してカウンターに向かった。
「コーヒーだそうです」
店長が渋々といった調子でコーヒーを淹れに取り掛かる。店長は見かけによらずコーヒーを淹れるのと、お菓子作りだけは上手いのだ。紅茶を淹れるのは下手なので、結果私が淹れる羽目になっている。
おじいさんは席を立ち、本棚のほうに向かっている。一冊一冊手にとり、ペラペラとめくっては本棚に戻している。手にとるのは全て薄めの古いハードカバーの本だ。
探してる本があるなら言ってくれれば手伝うのにな……と思い声をかけようとしたが、それより先におじいさんが本を見つけたらしく一冊の本と共に席に戻った。深緑色の表紙の本。
おじいさんが持っていったのは私も知っている本だった。この古本屋にはなかったような気もするが、最近入ったのだろう。対象年齢は小学校低学年くらい。内容はどちらかというと少女向け。何であんな本を……。悶々と悩んでいると、突然ワシャワシャと髪の毛をかき混ぜられた。
「て、店長。いきなり何するんですか」
咄嗟に頭を手で押さえ、店長から離れる。
「更紗、約束は?」
「……お客さんについて、基本的には詮索しないこと」
「そゆこと。あの客はいかにも煩そうだしな。コーヒー持って行け」
店長は言うことだけ言ってしまうと、また雑誌のページに目を落とした。
そうだった……この店が夜中に営業しているのは決して店長の酔狂な趣味のせいばかりではい。曰くつきの客が多い……と、いうより、実のところお客さんは全員人間ではないのだ。
客は幽霊。
店長が怪しげな風水の知識を総動員して霊体を実体化し、幽霊でも本を読めるようにしている。
ライバル店は当然いないし、それで成仏できる幽霊がいるなら一石二鳥だろう、と、昼間は心霊相談を受けている店長は語る。
しかし、店長は何で私の考えていることが分かったのだろう?
「そりゃ、お前、考えてること顔にモロ出るタイプだから」
「……ほっといてください」
私は少しむくれておじいさんの方を見る。ちょうど本を読み終わったらしく、本を閉じてテーブルの上に置き、コーヒーの最後の一口を飲み干した。しばらくそのまま本を読むでもなく座っていたが、やがて先程まで読んでいた本を手にカウンターまで歩いてきた。
「もう、お帰りになりますか?」
「ああ」
その返事に店長は椅子から立ち上がり、不器用な手つきでレジを叩く。それを横目で見ながらおじいさんは私に本を渡した。
「実は人を探している。この本に興味を持った人がいたら、儂に教えてはもらえんか? 一週間以内にまた来るから」
「えーっと……うちはそういう仕事はしてないのですが…」
私が困っておろおろしながら答えていると、
「分かりました。ただしそういうことは専門でやっているわけではないので、気付いた場合のみお知らせするという形でよろしいでしょうか? それと、お会計は三十分のご利用と、コーヒーで三百八十円となります」
と、店長が割り込んできた。
「それで十分だ。では、よろしく頼む」
おじいさんはお金を払って、深く頭を下げて帰っていった。
「店長、この本、どこに置いとけばいいですか?」
「あー……元に戻しとけ、そうしないと兄さんが煩い」
「……本っ当に探す気ありませんね」
大口を開けて欠伸をしている。本当に、お客さんがいなくて良かった。私は呆れつつも言われた通りにその本を元の場所に戻しておいた。
* * * *
「あ、文香ちゃん、いらっしゃい」
光の当たる角度によっては茶色っぽく見える髪を風に揺らせて、この二ヶ月ほど三日も空けずに通ってくれている常連さんの一人がドアの前に立っていた。中学校か高校のブレザーの制服を着ている文香ちゃんはここに来るお客さんの中では若い方で、仲良くさせてもらっていた。お客さんが長い期間をかけて通ってくれるのは嬉しいのだが、それは同時に彼女が長い間成仏できずにいることを表すので……ちょっと複雑だ。
「こんばんは。いつもの席空いてます?」
「うん、空いてるよ……というか、今誰もいないんだけど」
文香ちゃんの言ういつもの席というのは先程おじいさんが座っていたのと同じ、窓際の隅っこの席だ。昼間だったらよく日の光が入るのだろうが、今は夜なので部屋の隅は照明が当たらず逆に薄暗い。
「カプチーノ、お願いします」
「はぁい」
文香ちゃんが来るのは大体店が混んでくる三十分前位。なので私がゆっくりできるのもそれ位。飲み物は店長に任せて、私は文香ちゃんの向かいに座る。
「今日は何の本?」
「古典ミステリ。館もの」
「どう?」
「まぁまぁ、かなぁ……」
文香ちゃんは生前……小さい頃から少し身体が弱く、本と共に入退院を繰り返していたためよく本を読んでいたらしい。私と趣味も合うので自然と話は弾む。
「あ、そうそう。昨日バイト先の本屋で入荷してた新刊。この作者好きだったでしょう?」
一冊の文庫本をポケットから取り出して、手渡す。
「わぁ、ありがとうございます。ここの蔵書はなかなかいい本多いんだけど、古本屋だけに新刊はあんまりカバーできませんからね。すっごくありがたいです」
文香ちゃんは両手で本を受け取ると、感触を確かめるように表紙をすっと撫で、細く本を開いた。その様子から本当に本が好きなのが見て取れて、微笑ましくなる。
「どうでした?」
その問いに、私は満面の笑みを持って答える。
「個人的には文句なしに面白かった」
「あはは、じゃあこっちを先に読もうかな」
「うん、絶対オススメ」
「更紗さんがそういうならそうなんでしょうね」
パラパラと本をめくって幸せそうにそう言う。普段ならこの店の外では本に触れられない彼女はそのまますぐに本を読み始める。けれども、今日は様子が違った。本に目を向けて入るけど、ページは次に進まない。文香ちゃんは細く息を吐いて、カプチーノに口をつけ、あの、と向かいに座る私にためらいがちに声をかけた。頷いて先を促すが、言い淀んでなかなか声にならない。それでも待つと、ぱたんと本を閉じ、ようやく私の方を見た。
「……本を探してるんです」
意を決したように、僅かに震える声に私はすぐさま頷いた。
「どんな本? 手伝うよ」
「それが……題名も内容も装丁も良く覚えてないんです。見れば分かると思うんですが……。ただ、それが原因で成仏ができないんです」
いきなりの重い内容に私も言葉に詰まった。
「小さいときに買ってもらった本なんで、絵本かそれに近いような本だと思います。女の子が主人公で、あと覚えてるのは……綺麗なお話」
ぼんやりと昔を思い出すような目をして呟いている。すでに私に聞かすためというよりは、一人で確認しているに近い。
「分かった。今度何冊かリストアップしとく」
「ありがとうございます」
そう言って今度こそ本格的に本を読み始める。私もそれを見て仕事に戻るべく、立ち上がった。それとほぼ同時に、ドアのベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
最初の人を皮切りに、次々とお客さんが現れる。
「すみません、この本どこにあるんですか?」
「紅茶追加お願いします」
「お姉ちゃーん。この本読んでぇ」
などの声が次々と飛び交い、私もパタパタと走り回る。この時間帯には流石に店長も、忙しそうにコンロや冷蔵庫、カウンターの辺りで手を動かしている。
「店長、三番テーブル、アイスコーヒーとクッキー追加です」
「はいよ。っつーか、毎日毎日この時間帯ばっかり忙しすぎなんだよ。どうなってんだ」
店長は文句をいいながら、クッキーをざっと乱暴に皿にあける。
「忙しいのは良いことですよ?」
「俺は仕事全部更紗に任せて、のんびりと雑誌でも読んでたいのに」
「……やっぱりそんなこと考えてたんですね」
そう言いながらも、気分が高揚しているせいか思わず笑ってしまった。
「……なんでそんなに楽しそうなんだ?」
「楽しいからですよ」
あっさりと答えると、店長がますます怪訝そうな顔をするのが面白くて、自分でも顔に笑みが広がるのが分かった。
「皆が皆、本が好きで来てくれるのが嬉しいんです。嫌いな参考書を渋々見に来る学生さんも、興味のない純文学を無理やり渡される子供も、売れ筋の本を万引きして古本屋に売るような馬鹿もいません。本当に本が好きな人が、本当に本を大切にしてくれる人が来てくれて、楽しんでくれるの嬉しいんです。そんな人たちの姿をそばで見てられるのが楽しいんです」
にこにこしながらそう答えると、店長がこちらに白い目を向けてきていた。
「そりゃ良かったな。だが、お前が語ってる間にあちこちで注文が殺到しているのだが」
「え……?」
振り返れば、あちこちで手が挙がっている。
「はっ。すみません!」
* * * *
朝四時四十五分。日の長い季節だと太陽の昇り始める時間帯だが、日の短い今の季節はまだ暗い。お客さんも大方帰り、今では文香ちゃんが残っているだけだ。
私は本棚を見て回っている。変なところに戻された本や、なくなった本がないかのチェックだ。一度場所が大きく変わっている本があって、店長がお兄さんに酷く怒られたらしい。いつも通りそんなこともなく、私は本棚が林立する場所から出ようとした。
「更紗さん。これありがとうございます。あの、今日だけだと読み終わらなかったので……」
「うん、また明日貸すね」
今日の最初に私が貸した本を受け取る。
「なんだかあれ読んでたら、児童書が懐かしくなっちゃいました。お勧めの本ないですか?」
「んー……そうだねぇ」
その辺りの棚をぐるりと見回すと、一冊の本が目に入った。深緑色の背表紙の薄い本。それを引っ張り出して文香ちゃんに見せる。
「ちょっと対象年齢低いけど、綺麗な話だよ。短いからすぐに読めるだろうし。古いせいで絵が少し煤けてきちゃってるのが玉に瑕」
他には……と思い、首だけを巡らして本棚を眺める。文香ちゃんから返答はない。あれ? と思い、文香ちゃんの顔を見る。大きく見開かれて瞬かれる目、伸ばしたまま少しだけ震える指先。何かに、驚いたような表情。
「文香ちゃん?」
呼びかけながら、ひらひらと目の前で手を振る。
「あ、うん、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてました。この本ですか……じゃあ明日読むことにします。今日はこれで…」
ぎこちなく微笑んで手を振ってみる。
「うん……それじゃあ明日ね」
私も釈然としないまま手を振り返した。彼女はそのままそそくさと店を出て行ってしまった。ドアのベルが鳴る音に重なって、柱時計が四時を告げる。
「更紗ー。もう店仕舞いにするぞー。早くしないと日が昇ってきちまうからな」
「あ、はぁい」
* * * *
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