第六章 離陸

 二〇〇七年

 佐治ケ江優 十三歳



     1

 ほとんど真っ暗な、しんとした空間に、ただ靴音だけが響いていた。


 ゆうが、廃ビルの通路を走っているのだ。


 ところどころ塞がれて通れず、まるで迷路のようになっている中を、恐怖に涙目になりながらも、走り続けていた。


 時折、散乱している物に足を取られて転ぶ。

 光源が窓の外からの月や街の明かりのみで、いくら闇夜にずっといて目が慣れていようとも走りながら足元に注意することなどは不可能だった。

 それでも、走るしかなかった。

 だって……


「おう、害虫どこ行きよった?」


 男子の楽しそうな叫び声が聞こえてきた。

 中学校で優と同じクラスの、むらかつぺいの声だ。

 立ち止まって耳を済ますと、早歩きの靴音が響いているのが分かる。複数の、靴音が。


 そう、優はいまこの男子たちに捕まらないよう必死に逃げているのだ。


 どこにいるのか分からないが、時折女子たちの甲高い笑い声も風に乗って聞こえてくる。


 害虫駆除、

 優は現在そんな意味不明な理由で追い掛けられ、闇夜の中を走らされているのである。


 暗がりでよく見ないと分からないであろうが、優の右の頬は赤く腫れている。

 殴られたのだ。

 とくのりに思い切り頬を張られ、背中を蹴飛ばされたのだ。

 もうすぐ害虫駆除の始まる時間だ、という合図代わりに。


 だって本気であることを示さなきゃ、害虫は本気で逃げてくれないではないか。

 本気で逃げてくれなきゃ、楽しくないではないか。

 と、彼らからすればそのような理由であろうか。


 とにかく優を殴り、蹴り飛ばし、逃げ出した優が予想通りの方向へ走って逃げるのを確認すると、彼らは笑みを浮かべ、じわじわ追い詰めるべくゆっくりと歩き始めたのである。


 そのような経緯により、優は現在、真っ暗な通路を涙目で走っているのである。


     2

 心療内科に診療結果を聞きに行ったのは、検査を受けた一週間後のことであった。

 これまで娘に検査を受けさせることを断固として拒否し続けていたまさのぶふみ夫妻であるが、娘からの要望で、先日、病院に行ったのである。


 検査など絶対にさせてたまるか。そう思っていたはずの両親であったが、辛い思いをしている本人の口からそう切り出されては、受けさせないわけにはいかなかった。


 現在クラスでいじめにあっていることの、解決の糸口がなにか掴めるかも知れないし、と、これまでの自分らの頑なな気持ちをごまかすようにして、二人は娘を病院へと連れていった。


 診療の結果であるが、物理的な観点からは脳はまったくもって正常。萎縮など、異常は見られなかった。


 カウンセリングの結果、感情表現に関しては問題ありと判定された。

 ただし、性格の一言で片付けることも可能なのが微妙なところであり、治療方針を確定させることは難しかった。


 そもそも治療の必要があるのかの判断も難しく、しばらくはこのまま心療内科への通院を続け、薬なども試しながら、場合によっては病院ではなく一般のカウンセラーに相談する方が良いかも知れない。


 医師からは、そのような説明を受けた。

 とどのつまり、現在とっくに分かっていること以上のことは、なに一つとして分からなかった。


 特別学級に通わなければならないような、そういう類のものでないことは幸いであったものの、結局残る問題としては、優の存在がクラスで浮いたままで、それがためにいじめも発生しており、だというのにそれを回避させられるような希望がなに一つとして得られていない、ということであった。


 だからといって……


     3

 だからといって、なんで自分ばかりがこんな理不尽な目にあわなければならないのか。

 もう、なにがなんだか分からない。

 なにが本当で、なにが嘘なのか。


 すべて、ただ自分がおかしいだけなのかも知れない。

 自分の頭が狂っているというだけなのかも知れない。


 きっとそうだ。

 だからみんな、いじめてくるんだ。

 笑いながら殴ってくるんだ。


 なんで生まれてきてしまったんだろう。

 こんな、ただ辛いだけの世界に。

 死ぬ勇気もない、こんな、情けない自分に。


 ゆうは、空になって積み重なっている石灰だかセメントだかの粉末の入っていた麻袋の山に全身を埋もれさせて、鼻先をくすぐる粉塵にくしゃみなどしてしまわぬよう必死に耐えながら、涙目でガタガタと身体を震わせていた。

 見つかるまいと、身を潜めていた。


 なんでこんなことしていなきゃならないのだろう。

 どうしてこんなところで、恐怖にガタガタ震えてなきゃならないのだろう。


     4

 下校中、おおがきように声をかけられた。


 それが、ここでこうして震えながら麻の袋に埋もれ、生まれてきたことを悔いているという、まさに発端となるものであった。


 友達とこの廃ビルで遊んでいた藤堂伸子が、誤って転落して大怪我を負った。

 救急車は呼んだものの、鉄骨に脚を挟まれて激痛にもがいている彼女を一秒でも早く助けてあげたい。

 だから一人でも多くの力が欲しい。


 そう真剣な顔で頼まれて、急いでここへ駆け付けたのである。


 藤堂伸子。中一、中二と同じクラスで、優のことを友達だと公言し、周囲のいじめからいつも庇ってくれていた恩人である。


 話に不自然さを感じないわけではなかったが、恩人が大怪我と聞いたことへの焦りの方が猜疑心を遥かに上回った。生来が気弱でお人よしの優は、いずれであっても同じ行動を取っていたであろうが。


 そして、結局のところそれは罠であった。

 佐治ケ江優を使った新たな遊びを実行するための、罠であった。


 郊外にある六階建て廃ビルの下には、桜庭かえで、小村勝平、かじわらあき、徳田紀夫、等など、教室で優に危害を加える中心人物といえるような者が勢揃いしていたのである。


 害虫認定された優は、今日の学校での目付きが反抗的だったなどと因縁を吹っ掛けられ、殴られ、蹴られ、廃ビルの奥へと逃げるように仕向けられたのであった。


 彼らの、狩りという楽しみの対象となるべく。


     5

 そして現在、麻袋の山に身を潜らせて隠れているというわけである。


「くそ、害虫、どこ隠れよった」

「お前が余裕もって歩いとるからじゃ」


 男子の声が近付いてくる。

 足音が近付いてくる。

 優のすぐ目と鼻の先、麻袋に覆われた狭い視界のすぐ先に、通り過ぎようとする男子の制服の脚が見えた。


 どう、と優は脇腹に衝撃を受け、顔を苦痛に歪めた。

 誰かが、八つ当たり気味に麻袋を蹴飛ばしたようであった。そこに優が隠れているとも知らず。


 痛かったし、突然のことに驚いたが、決して声は漏らさなかった。

 気付かれることなく、彼らはそのまま通り過ぎて行った。


 ほっと安堵のため息をつこうとしたところ、粉塵が舞い上がり、むせそうになるのを必死で堪えた。

 細かな粉末が入っていた袋の山に埋もれているため、周囲の空気が粉っぽいのである。


 でも、もう少しだけここに隠れて様子を見よう。

 もしかしたら、わたしがとっくにこのビルから逃げ出したと思って、みんないなくなるかも知れないし。


 と、優はじっと息を潜ませ続けた。


 ここは建物の一階。裏口玄関のすぐ近くだ。

 一時は上の階まで追い詰められたが、ブルーシートに隠れた非常階段を発見し、誰にも見つからないよう一気に下りてきたのだ。


 あとほんの少しの距離で、この建物から逃げ出せる。


 しかし、ここからが問題であった。

 出入り可能なのがここと正面玄関の二カ所しかないため、当然厳重な監視下にあり、外にいる人の気配がなかなか無くならないのだ。

 だから、迂闊に出ていくことも出来なかった。


 早く出たい。

 家に帰りたい。


 ここから逃げ出したら、もう二度と学校なんか行かない。

 もうクラスの誰とも、かかわり合いたくなんかない。


 どうしてみんな、わたしをいじめるのか。

 わたしは、なにもしていないのに。

 ただ、じっと席に座っているだけなのに。


 一切喋らないようにしているから、人を傷つけるようなことだってなに一ついっていないはずだ。

 誰を怒らせるようなことも、していないはずだ。

 なのに何故……


 こっちはなにもしていないのだから、存在していないものとして無視していてくれればいいだけなのに。

 どうしてわざわざ……


 そもそもいじめなんかをして、一体なにが楽しいのか。

 誰だって、痛いのや、怖いのや、勇気振り絞って声を掛けたのに反応がなかったり、水をかぶせられたり、靴に画鋲を入れられたり、髪の毛を引っ張られたりハサミで切られたり、給食にゴミくずや砂を入れられたり、服を隠されたり脱がされたり、コンパスの針を突きつけられて脅されたり、教科書に落書きされたり燃やされたり、そんなことされるのなんて嫌なんだ。


 それともこの世の中でわたし一人だけが特別な存在で、そんなことされて喜ぶ人間だとでも思っているのか。


 将来のこともあるし、両親を悲しませたくないこともあるし、だから我慢して学校に通っていたけど、もう嫌だ。もう限界だ。


 毎日毎日教室であんな目にあってまで、学校になんか通いたくない。

 こんなところに連れ込まれて、害虫といわれて殴られて、蹴られて、髪の毛掴まれて引っ張られて、狩りなどといって追い掛けられ……だったらもう二度と外なんか出ない。自分の部屋から出ない。


 優は、涙の滲んだまぶたを指でぬぐった。

 指が汚れており、目が痛くなって、余計に涙が出た。


 ふと気付くと、周囲はしんと静まり返っていた。

 自分の呼吸音どころか、心臓の音すら聞こえそうな程に静まり返っていた。


 もしかしたら、誰もいないのだろうか。

 わたしがビルから出たと思って。

 そう考えた、その瞬間であった。


 恐怖に半ば感覚の麻痺した優を、さらに驚かせるに充分な言葉が鼓膜に飛び込んで来たのは。


「おう順太! 藤堂が入ってきたらしいけえ!」


 どこからか聞こえてきた花木克夫の声が、しんとした空気を震わせた。


「どこじゃ」

「分からん。階段上っていきよった!」


 ドタバタと慌ただしい靴音。


 優の心臓はどくんと跳ね上がってた。

 目が見開かれていた。


 藤堂伸子。

 優をここにおびき出すのに名前を利用された、クラスメイト。

 その彼女が、この廃ビルに入って来たという。

 もしかして、どこかでこのことを聞いて、自分を助けるために……


「あいつ、いつもゴミを庇って、いじめるなとかいつも文句ゆっとるからな」

「害虫に逃げられて駆除に失敗したら、藤堂が新しい害虫じゃ」

「害虫に相応しい名前つけるべ」

「とりあえず、まずはボコボコじゃ」


 男子らの声が靴音とともに小さくなっていった。


 緊張と恐怖のあまりずっと呼吸を止めていたため、優は喘ぐように大きく息を吸い込んだ。

 げほ、

 咳が出た。


「なんか聞こえんかったか?」


 遠くからそんな男子の声が聞こえた。

 仮に聞こえなくとも、次に取った優の行動は変わらなかっただろう。

 素早く麻袋の山の中を押し退けて、立ち上がっていたのである。


 裏口玄関はすぐ目の前。

 男子らは奥へ行ってしまったし、玄関に誰かがいるにしても、おそらく見張り番の女子。

 ガムシャラに走れば、突破して逃げることが出来るかも知れない。


 しかし優は、そうはしなかった。

 通路の壁を覆うブルーシートの隙間に小さな身体をもぐり込ませた。上階から逃げてくるのに使った、非常階段へと出たのである。

 その階段を、迷わず駆け上り始めた。

 足音をなるべく殺しながら、でも、急いで。


 優は必死であった。

 藤堂伸子を助けるために。


 自分なんかのために、藤堂さんを危険な目にあわせるわけになどいかないから。


 だから、優は走った。

 だから、彼女の無事を神様に祈った。


     6

 男子たちの足音が、階下へと消えていくのを確認すると、ゆうは心の中で安堵のため息をついた。


 目の前の空間を覆い隠しているブルーシートを、バリバリとした音が立たないようにそっと掻き分けて隙間を作ると、非常階段から通路へと入り込んだ。


 幽霊の出そうな廃ビルであり室内の明かりなどは当然あるはずもなく、真っ暗闇に近い状態ではあったが、この闇の中にずっと潜んでいたためにすっかり目も慣れており、そこそこ細かなところまで見回せるようになっていた。


「藤堂さん」


 こそりと囁くような声を出しながら、優は通路を少しずつ進んで行く。

 どこかに隠れているのなら姿を見せて欲しい。

 だが、端から端まで歩き終えるまで、呼び掛け続けたが返事はなかった。


 他の階じゃろか。と、思ったその時であった。


「佐治ケ江、さん?」


 くぐもったような、小さな声が聞こえた。


とうどうさん?」


 優のその声に反応したか、開けっ放しになっていた奥の部屋の扉が、閉じたかと思うと再度開いた。

 そこには藤堂伸子が立っていた。

 扉をあえて開けておいて、その裏側に身を潜めて隠れていたようである。


「佐治ケ江さん、よかったあ。無事だったんじゃね」


 藤堂は優の顔を見るなり、胸を撫で下ろし、力抜けたようにがくり膝を落とした。


「どうして?」


 優は、ぼそり呟いた。


「大垣さんたちが、うちの名前で佐治ケ江さんを騙して、ここへ連れて行ったって聞きよったもんじゃから」

「ほうじゃのうて、どうしてうちなんかのために……」

「べっつにどうでもええけえね。クラスメイトじゃろ。ほうやな、他に強いていうなら曲がったことが嫌いなんよ、うち。それで周囲から嫌われても構わない。アホなんじゃね」


 藤堂伸子は笑みを浮かべた。

 その笑顔に、優の目にじわりと涙が浮かんでいた。


 それは先ほどまでの恐怖による涙とは、まったく異なるものであった。

 ぽろり、と落ちるように、頬を伝った。


「ありがとう。ほんまに、ありがとう」


 優はずっと鼻をすすると、深く、深く頭を下げていた。


「なにを改まって。ええけえね別に。そんなことより、早うここから逃げんと。ほら、聞きぃ」


 階下からこつんこつんと足音が響いてきた。

 先ほど階段を下りていった男子らが、また戻ってくるようであった。


「ここに、非常階段あるけえ。たぶんまだ誰も気付いとらん」


 優は小声でそういうと、ブルーシートの隙間を両手で広げて見せた。


「ほうなんや、こんなとこに。……だから佐治ケ江さん、見つからなかったんじゃ」


 どん。

 藤堂伸子は、どんと足を踏み鳴らしていた。


 一瞬びくりとした優であったが、意味を考えるよりも先に藤堂伸子の背中を押していた。もうすぐここに男子たちが来てしまう。時間がない。


「早う、早う」


 と優に押されて、藤堂伸子はブルーシートの隙間に頭を、そして上半身を突っ込んだ。

 だが、そこで動きが止まった。

 優が押しても、彼女の身体はぴくりとも動かなかった。


「佐治ケ江さん、ダメじゃ、この階段も見付けられたみたいよ。カンカン上ってくる足音が下から聞こえるけえ」


 頭を抜くと振り返り、切羽詰まった深刻そうな表情で優の顔を見た。


「ほうかの?」


 優の顔に疑問符が浮かんでいた。優には金属階段を上る足音などまったく聞こえなかったのである。自分が通路の中にいるためだろうか。


「あ……ほうじゃほうじゃ、上に行こうよ佐治ケ江さん。さっき、いい隠れ場所を見付けたんよ。絶対に誰にも分からない場所じゃ、絶対に。保証するけえ。そこでやり過ごそう」

「じゃけえ……」


 自らを追い詰めるようで、上へ逃げるのは嫌だった。


「じゃけえじゃのうて。話は後じゃ。それとも捕まりたいんか?」


 藤堂伸子は、優の腕を強く引っ張った。


 二人は通常階段で最上階へと向かった。この真下では男子たちがやはりこの階段を上っており、だから気付かれぬよう足音を立てないように、でもなるべく早足で。


 優の中で、上手く説明は出来ないものの一種名状しがたき感覚がどんどん大きくなっていた。


 最上階など、もしも見つかってしまったならば一番逃げにくいところではないか。

 と、それは確かにそうであるが、それ以外のこと、説明は出来ないがそれ以外に、優はなんとも不安なものを感じていたのである。


 どくんどくんと、いまにも爆発しそうなほどに、優の小さな心臓は限界に近い収縮を続けていた。


     7

「ここじゃ」


 藤堂伸子は、最上階突き当たりにある部屋の扉を開いた。


 その瞬間、優は思わず、ひっと息を飲んでいた。

 絶望。

 彼女はその二文字を、目の当たりにしたのである。


 ああ、感じていた不安は、こういうことだったのか。

 胸の奥の奥にいる冷静、というか達観して人生を諦めている自分が、そう呟いてもいた。


 ホームセンターに売っているような電気ランタンが部屋の中央に置かれており、薄暗くはあるがはっきりと室内を照らしている。

 そこにいたのは五人の男女。

 桜庭かえで、徳田紀夫、はなかつ、大垣葉子、梶原秋絵、中学校で優をいじめている主要メンバーであった。


 優の背筋は一瞬にして凍りついていた。

 その背中を、後ろからどんと激しく突き飛ばされていた。

 小学生のように華奢な優の身体は、簡単に吹っ飛んで、床に崩折れていた。


 藤堂伸子に押されたのだ。

 そして、自分たちの歩いてきた通路の方から足音、そして男子の声が聞こえてきた。

 さらに二人が、この部屋に入ってきた。


「おー、引っ掛かったか。バカじゃな、こいつ」

「脳味噌が虫以下じゃのう」


 小村勝平とすずじゆん。先ほど下から階段を上ってきていた二人であろう。


 彼らによって扉が、閉じられた。


「アホウが虫取りカゴにかかったところで、これから殺虫タイムじゃけえ。害虫は生かしておくとどんどん増えるけえの」


 そういうと、藤堂伸子は声を立てて笑った。


 優は、床に手をついて上体を起こすと藤堂伸子の顔を見上げた。信じられないものを見ているかのような、震えた瞳で。


「藤堂さん……どうして」

「どうしてって、この計画考えたのはうちじゃ」


 悪びれることもなく、さらりといってのけた。

 優の目が、軽く見開かれた。


「……どうして」

「どうしてどうしてって、それしかいえんの? ひょっとして頭ほんまにアホ? うちのこと、なんじゃと思っとったの? もしかして、友達じゃとでも思うとった? そもそも生物として対等じゃとでも思うとった?」

「……」


 優は小さく口を開いたきり、なにもいうことが出来なかった。


「うわあ、伸子ひでえ!」

「上げといて、一気に落とすう!」

「あたしじゃったら、絶対にショックで自殺するけえ! それか刺すわ、伸子のお腹」


 周囲の男女が、楽しそうな表情で騒ぎ出した。


 優は一瞬で状況を理解していた。

 藤堂伸子がいじめから庇ってくれていたこと、友達だといってくれていたこと、それらはすべて演技だったのだ。

 一年半に渡って、演技をしていたのだ。


 他のクラスメイトとは、裏で示し合わせていたのだろう。

 優の心の深くにまで、入り込むために。


 だからこそ、いくら優を庇おうとも彼女本人は誰からもいじめられなかったのだ。だって彼女が、いじめの黒幕だったのだから。


「……じゃけど、理由は?」


 奥まで入り込んでから崩壊させる、という手段は分かっても、何故そこまでするのかが理解出来なかった。


「楽しいから」


 藤堂伸子は、実にあっけらかんとした表情で即答した。

「……ただ、それだけ……」

「それだけじゃ。うちは中学からしか知らんけど、小学ん頃からみんなにいじめられとるんじゃろ? 毎年毎年、いじめられていたんじゃろ? じゃあ、そういうオーラなんよ。そういう運命なんよ。そういうキャラなんよ。ほうならなんでうち一人だけが、自分の身を犠牲にしてでも庇わんといけんの? うちそんな特別な存在じゃないんじゃけど。それともなに、自分自身に特別な魅力があるとでも思うとった? 誰かが助けてくれるじゃろ、当然じゃ、みたいな」

「ほんま人一倍性格が悪いよなー、伸子は」

「放火されて燃えとる家の写真を、喜んで撮ってたもんなー」


 小学校が一緒だった小村勝平と鈴木順平が、はやしたてた。

 藤堂伸子は続ける。


「じゃけどねえ、不登校にもならずに毎日来るもんじゃから、だんだん頭に来てたわ。ほいで思うたんよ、なんで平気なんじゃろかって心理を考えると、行き着く結論としてはやっぱりうちらのこと思い切り見下してるからなんじゃろうなって。うちは庇っている側とはいえ、ほんなんは振りをしとるだけで、実際はいじめとるリーダーじゃからね、じゃから、はむかわれてコケにされたことについては、ほんまイライラして、いっそ殴って殺したいくらいじゃったわ。ゴミみたいなやつにバカにされとるわけじゃから、そう思うんは当然じゃろ? 教室で、みんなに混じって蹴ったり殴ったりしたくてしょうがなかったわ」


 なんなんだ、その不可解きわまりない理屈は。

 抵抗されたことがそんなに腹立たしいのなら、そもそもなにもしていない者をいじめたりなどしなければ良いだけではないか。


 でもそんなことよりも、信じていた者に裏切られたということが、優には一番のショックであった。


 悔しかった。

 自分のバカさ加減が。


 最初から信じてなどいなければ、ここまで辛い気持ちになどならなかったのに。


「信じていたのに……」


 無意識のうち、悔しさを表す言葉が口をついて出てしまっていた。

 その言葉に藤堂伸子が反応した。


「はあ? うちのこと、本当に信じとったんじゃ!」


 びっくりしたような作り顔で大袈裟に退くと、高笑いを始めた。


「ほんまアホウじゃの。今後生きていくためにも、どんだけ自分がアホなのか酷い目にでもあって学習するとええよ。例えば、ほうじゃの……レイプでもされるとかさあ」


 ニヤリとした笑顔で低く押し殺したようなその言葉が、合図だったのであろう。

 徳田紀夫たちは、ゆらゆらと歩き出したかと思うと、優を取り囲んでいた。


 床に倒れたままであった優は、ぞくりとおぞけだつよりも先に、四つん這いの姿勢からダッシュで扉に飛び付いていた。

 両手でノブに手をかけて回そうとしたが、その瞬間、髪の毛を掴まれて後ろに引っ張られた。


「てめえ、逃げようとしてんじゃねえよ!」


 小村勝平は、優の頬を全力で張った。

 ばちん、と鈍い音が響き、優の身体は半回転して壁に打ち付けられた。


「顔はやめとき!」


 藤堂伸子は笑いながら怒鳴った。

 可哀相だから手加減しろ、ということではない。これから起こることを脅して口止めしようとも、顔がボロボロでは隠すことも出来ないではないか。と、ただそれだけなのだろう。


「おら!」


 徳田紀夫の右膝が、優の腹に減り込んだ。

 うぷ、と、優は前のめりになりながら嘔吐感をこらえて両手で口を押さえた。


「逃げようと、すっからじゃけえ」


 柔道の払い腰の要領で、優の身体は床に叩き付けられていた。

 衝撃に意識が遠退きかけるが、一瞬にして呼び戻される。

 脇腹を小村勝平と鈴木順太の二人に蹴られたのだ。

 激痛に呻き声を漏らした。


「ショータイムじゃ!」


 徳田紀夫は、優の腹の上にどすんと全体重を落とし、馬乗りになった。

 ぐうっ、と優が呻き目を見開いたその瞬間に、花木克夫に両腕を、小村勝平に両足を押さえ付けられていた。


「やだ、やめて!」


 優は、自分を押さえ付けている手を振りほどこうと激しく暴れた。


 優も子供ではない。彼らが自分になにをしようとしているのか、分かっていた。だから、身体をねじり、手足を動かし、首を振り、必死に抵抗をした。


 だが優は体重も軽く、筋力も一般の同学年の女子より遥かに低い。本人がどんなに必死になって激しく暴れようとも、中二の男子たちにとっては、そよ風に吹かれたほどにも感じるものではなかっただろう。


「ほらほらあ、佐治ケ江さん頑張らにゃあ」

「うち、他の子がしてるとこなんて見たことなあい」


 女子たちが楽しそうに笑っている。


「そりゃそうじゃろ。ほやから、よう見とけ」


 馬乗りになっている徳田紀夫は女子の言葉に興奮したのか、優の制服の裾を掴みめくり上げた。


「害虫駆除とかいって、妊娠したら逆に増えるのお」

「人と虫で子供なんて出来るわけないじゃろ」


 女子たちが、ちょっと興奮したように楽しそうな視線を彼らに向けている。

 「かっわいそおじゃのお。友達じゃと思っとった子に裏切られて、それだけじゃのうてレイプまでされちゃうんじゃからなあ。うちじゃったらショックで自殺するけえね。……こいつにそこまでの度胸はないじゃろうけど、でも伸子ぉ、親とか警察とかにいいつけるくらいはするかも知れんよ。ええの?」


 梶原秋絵はみんなと一緒に笑いながらも、ここまでのことをしてしまって良いのかちょっと不安にになったようであった。


「自殺すんなら好きにすればいいし、訴えたりは出来ないように、写真撮っておくけえ。股広げられてガンガンやられちゃってるとこのさあ。こいつの性格は、もうよく分かっとる。絶対に黙っとるじゃろね」


 入学時からつい先ほどまで親友を主張し、実際に数々のいじめから助けてくれた藤堂伸子、その口から発っせられるとは思えない残酷な言葉の数々であった。


 優はこの状況にそれどころではなく、彼らが口々に発する言葉の十分の一も耳に入ってなどいなかったが。


「ほらあ、もっと頑張らにゃあパンツ脱げちまうぞ」


 バタバタともがく足を無理矢理に押さえ付けていた小村勝平が、手をさわさわと滑らせてスカートの中に両手を入れ、下着の両脇を掴んで引っ張り下ろそうとしていた。


 優は徳田紀夫にどっかりと腹に乗られながらも、必死に腰をくねらせ、腿や膝を全力でがっちり閉じ、必死の抵抗をしていたが、おそらく男子たちにとって脱がそうと思えば造作もないことであっただろう。楽しむために、わざと抵抗出来る余裕を与えているのだ。


 優もそう分かってはいたが、だからといって抵抗しないわけにはいかなかった。

 ばたんばたんと暴れていることで優のスカートはまくれ上がって、完全に太股まで剥き出しになってしまっていた。

 下着は、もうその太股の途中まで下ろされていた。


「もっと力を入れて頑張らんか。手え抜いとるとこうなるけえの」


 小村勝平は、ぐっと強く引っ張った。下着はさらにずるりと動いて、膝のところにまで下ろされた。


「やめて! もう、やめて!」


 優は暴れながら泣き叫んだ。


「とゆわれてやめる奴って、おると思うか? どこにもおるわけないわ!」


 小村勝平は全力を込めて、下着を一気におろし、するりと足先から抜き取っていた。


「取ったどお」


 脱がした下着を高く掲げて、テレビ番組の真似をして叫んだその瞬間であった。

 小村勝平の顎に、もがき暴れて振り回した優の踵が当たったのは。


 ごろりと後ろに転がった小村勝平は、ごつっと床に後頭部をぶつけた。

 すぐに起き上がったが、先ほどまでニヤニヤしていたその顔付きが、一瞬にして変貌していた。


「こんクズの虫けらが、なんしよるんじゃあ!」


 優の腹に馬乗りになっている徳田紀夫を突き飛ばすと、自分が馬乗りになった。


「ボケが!」


 優の顔面に拳を叩き込んでいた。


「何様じゃ、ボケ!」


 右の頬に、左の頬に、そして正面から鼻っ柱へ、何度も、何度も、何度も、何度も。


「教室でなあ、お前みたいな暗い奴がおると、しんきくさくなるんじゃ! クソボケ!」


 殴った。

 小村勝平は、殴り続けた。

 右の拳で、

 左の拳で、

 優の鼻が潰れ、鼻血にまみれた酷い有様になっても、それでも構わず殴り続けた。


「アホウ、顔はやめろっていったじゃろ! なん考えとるんじゃ」


 藤堂伸子が、今度は先ほどと違って真剣な表情で怒鳴り付けていた。だがすっかり頭に血の上った小村勝平には、焼石に水どころか火に油であった。


「じゃかましいわ! 花木、おう、あれ連れてこいやあ! 早う! 早う連れてこいや!」

「分かった」


 花木克夫は、その猛火のごとき勢いにあっけにとられながらも、部屋をあとにした。


 小村勝平は、なおも優の顔を殴り続けた。

 拳で、そして平手で、ただひたすらに。


「どうじゃ、ぶたれるんよりも、大人しく裸で股ア開いとるだけの方がよっぽどよかろうが!」


 小村勝平は優に跨がったまま、腹の上でぐるりと回転して足元の方を向くと、スカートを両手に掴んで思い切り引っ張った。


 既に優は下着を脱がされており、スカートの下はなにも履いていない。身も心もボロボロで放心状態になりつつあったが、さすがに下半身を見られる恥ずかしさには全力で抵抗をした。これまでにない力を振り絞って、跨がられたまま身体をぐるんと回転させて横を向き、胎児のように身体を丸めた。


 そのかわりにお尻が丸出しになってしまってしまった。掴んだスカートを引っ張って、見られぬよう隠そうとするが、小村勝平はその手を掴んで捻り上げた。


 優は、苦痛の声を漏らした。


「どうせどうなるかは変わらないんじゃから、おとなしゅう脚をぱっかり開いてあそこを見せんかい。処女かどうか確かめたるけえね」


 小村勝平は卑猥な言葉を吐きながら、優の尻をぺしぺしと叩いたり、鷲掴みにした。


「うち、処女じゃないと思う」

「ほやろか、絶対に処女じゃけえ」


 すっかり興奮した女子たちが、この光景から目を離すことなく笑顔で話している。


「ほら、早う見せんか!」


 小村勝平は、がっちり閉じた優の両股の間に手をぐりぐり回すように突き入れ、内側からこじ開けようとした。

 優は必死に股間を両手で押さえ、脚を閉じた。


「やだ! もうやめて! やめて!」


 優が身体を回転させると、跨がっていた小村勝平はバランスを失ってころげ落ちた。そして、ニヤニヤ笑いながら立ち上がった。

 もう優に逃げ場のないことを知っていて、わざと倒れて見せたのだろう。


「そうやってはむかう奴にはのう、これじゃ!」


 ぶんと足を振り、優のお腹に自らの爪先を減り込ませていた。

 ぐぷ、と嘔吐感こみあげる優であったが、羞恥心の方が比重高く、お腹ではなくは股間の方を押さえた。

 優はまたスカートの裾を掴むと、引っ張って自分の下半身を覆い込んだ。


 まだ抵抗を見せようというその態度に、小村勝平は身勝手にもさらに激怒し、優のお腹や背中、顔を容赦なく何度も蹴った。


「やり過ぎじゃ、小村よう、やり過ぎじゃ。じゃけえ、これでおとなしゅうなるじゃろ」


 徳田紀夫は、優の両膝を開かせようと手を置いた。


 優は、まったく抵抗をしなくなっていた。

 暴力に懲りておとなしくなっていたわけではない。蹴られ、殴られ、意識が朦朧としていたのである。


 ぐったりと横たわったまま、うつろな視線を天井へと向けている。

 その、まるで力のこもっていない両膝を立たせると、徳田紀夫はごくりと唾を飲み、左右に開いていった。


 いや。

 そうしようとしたところで、膝に置いた手を引っ込めた。


「お待たせ」


 と、扉が開き、を連れた花木克夫が戻ってきたのである。


 もういくらでも好きに出来るのだし、ならば楽しみは後に残しておく方が良い、と徳田紀夫は思ったのであろう。


 優の両膝は、閉じたままぐにゃりと力をなくしたように片方向に倒れた。

 まだ、その表情はうつろなままであった。


 花木克夫が連れてきたのは、土佐犬かと思われる大きな犬であった。彼の家の飼い犬である。

 飼っていることを知っている藤堂伸子から昨日「明日のお祭りに使えるかも知れないよ」といわれて、連れてきて下に繋げておいたものである。


 頭に血の上った小村勝平に容赦のない暴力を受けて、すっかりボロボロになった優は、意識朦朧としてまったく抵抗の出来ないまま、彼らに両手と両足をそれぞれ紐で縛られた。


 やがて、夢か現か判然としない意識のまま、薄く目を開けていた。


 なにかが目の前にいるようであるが、視界がぼやけ、意識も半分夢の世界であるため、なにがいるのかよく分からなかった。


 そんな優の意識を一瞬にして現実に引き戻したのは、獣の低い唸り声であった。


 びくう、と優は身体を震わせ、目を見開いていた。

 すぐ目と鼻の先に、獰猛そうな犬の巨大な顔があった。


 いいいいっ、と、優は金切り声のような甲高い悲鳴を上げていた。

 手脚を縛られ床に腰を下ろした格好のまま、思わず後ろに退こうとして、壁に後頭部をガチッとぶつけた。


「お前みたいなクラスの害虫にの、選択権を与えてやるけえ。わしら優しいじゃろ。こいつに身体を食いちぎられるか、おとなしくやらせるかじゃ。ほれ、早う選ばんか」


 小村勝平は花木克夫に命令して、犬の顔を優へと近付けさせた。

 優はまたびくりと震えた。


「なな、なにいっとるん、ど、どっちも、嫌じゃ」


 震えながらも、上擦ったような声ながらも、はっきりと拒絶の意思を示していた。


「ああ?」


 小村勝平は、にっと笑った。

 犬の首輪を掴んでいる花木克夫の腕を掴むと、犬をさらに優の顔へと突き付けていた。


「ああああああああーーーっ!」


 眼前に迫る猛犬の唸り声や体温に、優は恐怖のあまり絶叫していた。発狂しそうなほどに。

 顔をひきつらせ、醜く歪めて、ぼろぼろと涙を流していた。


「じゃったら早よ答えい!」


 小村勝平は、犬をさらに押し付けさせた。

 優は意味不明な言葉を発し、金切り声のような悲鳴を上げ続け、ひたすらばたばたと身体をよじらせた。

 まるで、ショックのあまり言葉を忘れてしまったかのように。


「も、もう嫌じゃ。生まれとうなかった! 生まれとうなかった! 生まれとうなかった! 頼んどらんのに、生んでくれなんて誰も頼んどらんのに! 頼んどらんのに! 頼んどらんのに!」


 ようやく意味のある言葉が口をついで出たかと思うと、同じ言葉を何度も繰り返していた。


「わけ分からんわ! だったらおとなしゅう、ゆうこと聞けばええじゃろ。同じことじゃろ! 生まれへんかったのも死んどるのも。なら死んだと思って、おとなしゅうやられておけばええじゃろ」


 小村勝平の暴力的な感情の連続爆発に呼応してかは分からないが、犬がぐるるると低く唸った。


「こいつ、今日はまだなにも食っとらんけえ。のう、花木」

「ああ、なんも食わせとらんけえ。伸子にそうせえいわれとったからな」


 小村勝平はにやり笑うと、バッグからぶっといハムを取り出した。

 ナイフで薄く切ると、優の頬と額に張り付けた。


「ほれ、これ食わせえ」


 小村勝平は、花木克夫に命令した。

 犬の方も空腹を我慢出来なかったようで、花木克夫の指示よりも前に、勝手に食べ始めた。唸り声を上げながら優の顔に張り付いたハムへと口先を近付け、舌を伸ばし、絡め取る。よだれを垂らしながら、ぐちゅぐちゅと音を立てて咀嚼した。


 獰猛そうな犬が唸りながら自分の顔を舐め回していることに、優はさらに狂ったような大きな悲鳴を上げた。


 そして、その恐怖はついに極限まで達した。

 叫びながら、大きく腕を振り回した。


 もし犬を殴ってしまったらどうなるか、そんなことを考えられる余裕など、心のどこにもなかった。


 ただ、狂っていた。

 恐怖に、狂っていた。

 犬の顔を突き付けられたためだけではなく、殴られたり、凌辱されかけている様々な恐怖が、ごちゃ混ぜとなって、優を狂わせていた。


 その大きく振り回した腕は、小村勝平の持つナイフを弾き飛ばしていた。

 かちん、と、床に落ちた。


 優は絶叫しながら、犬を押し退けるようにして、その落ちたナイフへと飛び込むと、紐で縛られている両腕をそのナイフへと振り下ろして、叩き付けていた。


 腕が刃で傷つくかも知れないことなど、まるで考えてなどいなかった。

 かも知れないではなく、実際に傷ついてしまっていた。優の腕から、血が出ていた。


 ナイフは床に落ちているため、当然ながら刃は寝ている。上から激しく叩き付けて紐を切るなど、効率の悪すぎる動作であり、そのほとんどは、いたずらに自分の腕を傷つけるばかりであった。


 それでも構わず、優はナイフの上に何度も何度も、縄で縛られた自分の両腕を振り下ろし続けた。

 獣のような、声にならない声を上げながら。


 紐は、腕から流れる自らの血ですっかり真っ赤に染まっていた。

 まるで気にする様子もなく、何度も、何度も、腕を振り下ろし続けた。


 その激しさ、不気味さに、みなが躊躇して身動き取れず眺めている間に、紐が切れていた。

 両腕の自由になった優は、手を床につき、立ち上がった。

 その手には、ナイフが握られていた。


「こいつ、気い狂いよった!」

「目がすわっとるけえ!」


 殴られ、蹴られ、意識は朦朧として足元はふらふら、顔は血みどろでぐちゃぐちゃ。そんな半死半生の状態の優がナイフを手にしている姿に、彼らは揃ってすくみ上がってしまっていた。


 優は両手に持ったナイフを低く構えたまま、すぐ目の前にいる小村勝平へと、歩を進めた。

 小村勝平が、ひっと息を飲んだ瞬間であった。


 優の身体は前のめりに倒れ、転んでいた。

 両足が縛られているのに、なにも束縛がないかのように歩き出そうとしたからである。


「アホウかこいつ!」

「早うナイフ取り上げたれ!」


 男子たちは素早く、まだ倒れている優を取り囲んだ。


 優は、これまでにないようなくらいにけたたましい、全員の鼓膜をびりびりと震わせ突き破りかねないほどの金切り声を上げた。


 徳田紀夫のいう通り、優は本当に狂っていたのかも知れない。

 仰向けの姿勢で両手に持ったナイフを振り上げたかと思うと、突然自分のお腹へと突き立てたのである。

 三、四センチほども、切っ先が入り込んでいただろうか。

 引き抜くと、再度突き立てた。


「うわああああ!」

「なんなんじゃこいつ!」


 いつしかすっかり、悲鳴を上げる立場が逆転していた。


 優は上半身を起こすと、足を縛っている紐を切るべくナイフを振り下ろした。

 だが、見えているのかいないのか狙いが適当で、自身の足の甲を刺してしまっていた。

 引き抜くと、再び振り下ろし、今度はすねの肉がスパッと深く切れてどろりと血が流れ出た。


 三度目の正直でついに紐がぶつりと切れた。しかし本人は切れたことにまるで気が付いていないのか、また自分の足にナイフを突き立てていた。


 膝を曲げて、あぐらをかくように足首をぐぐっと引き寄せると、もう一度ナイフを突き立てた。


 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。


 左右に大きく股を広げたことで、制服のスカートが完全に捲れ上がってしまっていた。

 既に下着は脱がされているため、まだ誰にも見られたことも汚されたこともない部分が彼ら全員の前に鮮明に晒されてしまっていたが、完全に気の狂った優にすでに羞恥心は存在していなかった。


 秘められていた部分がついに暴かれたことに、本来ならば男子たちは興奮し大騒ぎしていたところであろうが、血みどろになり歪みまくった優の顔のあまりの酷さ醜さに性欲を掻き立てられるどころではないようであった。


「早うやめさせんか! いい逃れきかんことになって、うちらが逮捕されるけえ!」


 藤堂伸子の叫びに、優の背後にいた徳田紀夫が我に返り、身震いをすると、両の拳を固く握りハンマーのように振るって優のそく頭部を打った。

 優の小学生のような小さな身体は文字通り吹っ飛んで、床に落ち、倒れた。

 ナイフがからからと音を立て転がった。


「なにからなにまで、なんなんじゃお前は、ええ加減にせえよ!」


 小村勝平はなにからなにまで理不尽な怒鳴り声を上げると、横たわる優の鼻っ柱を爪先で蹴った。

 続いて持ち上げた足を勢いをつけて振り下ろし、踵で頬を踏み付けた。


 佐治ケ江優をレイプしよう。

 それが今日の彼らの目的であったはずだが、もう誰も、それを実行したいと思う者などはいなかったであろう。


 激しい暴力の連続に優の顔はすっかり血まみれになっており、軟骨が折れているのか鼻も曲がってしまっている。自分たちの仕出かしたこととはいえ、あまりの凄惨さにもうそういう気分ではなくなっていた。


 それだけではない。

 自分の身体にナイフを突き立てるなどという、狂っているとしか思えない優の行動に、すっかりおそれをなしてしまっていたのだ。


「……なんでじゃろなあ」


 頬を踏み付けられて歪んだ優の唇から、そんな声が漏れていた。


「なんでうちだけ、こんな目にあわんといけんのじゃろ」


 優は床に両手をついた。


「なんでなんかなあ。因果応報ゆうんなら、こんなことされるような、どんな酷いことをしてしまったんじゃろなあ」


 小村勝平の踵を跳ね返すように、ゆっくりと立ち上がっていた。

 その血みどろな、パーツの歪んだおぞましい顔に、女子たちの悲鳴が上がった。


「なにいっとんじゃ、こいつ!」

「完全に頭がイカれとるわ!」


 じりじりと後ずさる彼らの顔は、恐怖に怯えていた。


 おかしくなっているのは、優だけではなかった。

 部屋に充満する血のにおいに、原初的な本能を呼び起こされて我をわすれてしまったのだろうか。


「いてててて、なにしよる!」


 犬が突然大きな声で吠え、そして飼い主である花木克夫の腕に噛み付いたのである。

 花木克夫は腕を振り身体を捻り、なんとか振りほどいたが、犬はすっかり興奮してしまっており、今度は鈴木順太に飛び掛かった。


「まあああ!」


 鈴木順太は、情けない悲鳴を上げながら身を捻り、かろうじてその突進をかわした。


 犬はくるり振り向くと、次の獲物を探した。


 佐治ケ江優が、夢が現か分からぬ朦朧とした意識の中で見た光景は、犬が尻を振りながら藤堂伸子をじりじりと追い詰め、いまにも飛び掛からんとするところであった。

 藤堂伸子が、断末魔のような恐怖に怯えた絶叫を上げた。

 獣の巨体が、ついに彼女目掛けて襲い掛かったのである。


 この後にとった優の行動、自身はまるで覚えてはいなかったが、仮に覚えていたとしても、とても説明などつけられるものではなかっただろう。

 親友、その二文字が一年以上に渡って脳にすりこまれていたための反射的な行動であったのか、

 それとも、まだどこかで理屈として彼女を信じていた、または信じたかったのか、

 それとも、せめて自分自身の思い出だけは傷つけることなく、大事なものとして心の奥にしまって置きたいということであったのか、

 それとも、藤堂伸子から希望をもらったのは事実であり、すべて分かった上で一種恩返しのつもりであったのか。


 優は、犬と藤堂伸子との間に、自らの身体を飛び込ませていたのである。

 両手を広げ、藤堂伸子を守るように立ちはだかったのである。


 犬の両の前足が、優を身体をどんと突き飛ばした。


 ガラスが砕け散る音。

 強く突き飛ばされた優は、恐怖に頭を覆うようにしゃがみ込んだ藤堂伸子の身体に足が引っ掛かって、ぐるんと回転するように後ろへ倒れ、背中で窓ガラスを破ったのだ。


 こうして優の小さな身体は、犬の巨体とともに窓から落下したのである。

 六階から、遥か下のコンクリートへと。


     8

 パトカーや救急車がやってきたのは、それから十分後のことであった。


     9

 うすぼんやりとした視界が、徐々にはっきりとしてきた。

 先ほどからなんとなく見えていたのは、部屋の天井であった。


 ベッドかなにかの上に、寝かされているようである。

 少なくとも、自宅ではないようだ。


 上体を起こしたくて、まず腕を動かそうとしたが、四肢ががっちりと固定されており動かすことが出来ず、また、かつて感じたことのない凄まじい激痛が全身を襲っていた。


 身動きが取れないことによって、一瞬にして記憶を呼び覚まされていた。


 闇の中で、

 クラスの生徒たちの笑い声の中、

 手足を縛られ、

 殴られ……

 そして……


 ゆうは、突然発狂したような叫び声を上げた。


 逃げたい、

 逃げなければ、

 しかし、全身が身動き取れないよう固定されており、起き上がることが出来なかった。

 絶叫した。

 全身の激痛に、ぐうっと呻き声を漏らすが、それでも逃げ出そうと暴れ続けた。


「優! ……優!」


 呼び掛ける声がはっきりと耳に聞こえてはいたが、脳にはまるで届いていなかった。


「ごめんなさいごめんなさい! もう殴らないで! 殴らないで! 殴らないで!」


 逃れようと必死に暴れるが、がたがたと音がして揺れるばかりであった。

 激痛に顔を歪めながらも、それでも優は必死な形相で暴れ続けた。


「優!」


 何度目の呼び掛けであっただろうか。

 優は、びくりと身体を震わせると、もがくことを止めた。


 目を見開いたまま、不安げな表情で天井を見上げていた。

 部屋が、しんと静まり返った。


 優は、ゆっくりと首を回し、横を向いた。

 すぐそばに母、ふみの顔があった。


「お母さん……」


 優の表情が変わった。

 怯えから、安堵へと。


「ここ、どこ?」


 小さく口を開き、ぼそりとした声で尋ねた。

 妙な鼻声であった。


 優は、自分の鼻になにかぎっちりと詰め物がされていることに気がついた。

 それだけではない。自分の顔に、なにかぐるぐるとまかれている感触。包帯? ガーゼ? テープ?


「ここはね、病院の一人部屋」


 そういうと文江は、ほっと息を吐いた。そして泣きそうな表情になった。


「目がさめてよかったあ。一昨日の夜からずっと眠ったままだったんだよ」

「一昨日から?」


 優は思わず身体を動かそうとして、また凄まじい激痛に襲われ、呻いた。


「ダメダメ、動いちゃあ。腕とか脚とか色んなところを骨折してるんだから。動かせないよう固定はしてあるし、痛み止めも打ってあるらしいけど、それでももの凄く痛いでしょ?」


 返事をせず、しばし呆けたような表情の優であったが、突然目を見開くと、ひっと息を飲んだ。

 「動かせない」という言葉が引き金になり、また優の脳内に思い出したくもない記憶がよみがえっていたのである。


 両手、両足を紐で縛られ、引きずり回され、蹴られ、殴られ、そして……服を……

 優は、金切り声のような、けたたましい絶叫を上げた。

 室内の空気が、びりびりと震えた。

 意味の分からない言葉をぶつ切りに吐き出しながら、身体をがたがたと揺らし、ここから逃れようともがいた。


「優! 大丈夫! 安全だから! ここは安全だから! 誰も、誰もいないから。だから怖がらないで! 優! 優!」


 全身を襲う激痛の中、どれだけ叫び、暴れただろうか。

 文江の懸命な呼び掛けもあって、優はようやく落ち着きを取り戻した。

 また、黙って天井を見上げていたが、やがて、ぼそりと呟いた。


「あたし……どうして病院なんかに……他の……人たちは……」

「優に酷いことしようとしていた子たちは、みんな警察に捕まったよ。十四歳は逮捕、十三歳は補導だって。中二はちょうど境だからね。まあ逮捕といっても、たいした罪にはならないんだろうけど。少年法なんて無意味な法律、なくなっちゃえばいいのに」


 文江は、逮捕された生徒への同情心など皆無とばかり吐き捨てた。


「優をビルの六階から突き落とした、土佐犬だかなんだかは、コンクリートで頭を割って即死だって」

「あたしが……突き落とされた?」


 優は驚いて尋ねた。


 余談であるが、関東出身である母親と二人きりで話す時には、優は意識して標準語で喋る。感情が高ぶってしまうと、知らずこっちの言葉が出てしまうのであるが。


「そのこと全然覚えてないんだ。あいつらの一人が、優を脅してやろうと犬を連れてきていてね、けしかけたんだって」

「それは……覚えてる」


 優は恐怖にぶるっと身震いした。

 薄く切ったハムを顔に張り付けられ、犬に食べさせたりされたのだ。

 想像を絶する恐怖に意識が飛んで、そこからはほとんど覚えていない。


「犬が急に暴れだして藤堂って子に飛び掛かったのを、優が守ろうと間に入って、突き飛ばした犬と一緒に窓から落ちたんだって。そんな子……」


 助けなくてよかったのに。そう、文江は続けようとしたのだろうか。


「そうなんだ」


 ぼそり呟く優。


「なにを他人事みたいに。……先に落ちたその犬がクッションとなって、優は助かった。落ち方からして普通は優が下になって落ちるはずだから、これはもう奇跡的、というか奇跡そのものだって。右足と両腕、あばら、鎖骨、鼻、頬、それらを骨折する程度の怪我で済んだということは」

「骨折……そんなに」


 動かそうとするたび筆舌につくしがたい激痛に襲われるというのに、そんなたくさんの部分が折れているなどという実感はまるでわかなかった。骨折した経験自体が初めて、というのもあるのだろうが。


「そうだよ。鼻の軟骨なんかも、完全に折れて曲がっちゃっててね。歪んで固まらないよう、矯正の詰め物が両方の鼻の穴に入っているから苦しいでしょ。とにかくいまは、身体を動かさないこと。絶対安静だよ。分かった? 脚だって、落ちる時に窓ガラスの割れたところでざっくり切れて、太股とかふくらはぎとか、それはもう酷い状態なんだから。暴れたりしたら、傷口ぱっくり開いちゃうんだからね」

「分かった」


 自信はないけど。

 さっきのようなのを夢に見てしまったら、絶対に暴れてしまうだろう。


「……窓ガラスで切っただけじゃない。怖さで訳が分からなくなったのか、ナイフで自分のことを何度も刺したらしいよ」

「あたしが、そんなことを……」


 驚いていた。

 そもそも、自分がナイフを手にした記憶すらない。

 ましてや自分の身体を刺すなどとは。


「転落死は奇跡的に免れたものの、どくどくと出血が凄くて命がほんと危ないとこだったんだって。救急車の中で止血して、病院に駆け付けたお父さんお母さんの血をすぐに輸血出来たからよかったけど、もうちょっと遅かったら脳なんかに後遺症が出たかもって。まさに九死に一生を得た状態だったんだよ」

「そうなんだ……」


 どんなだろう。脳に後遺症って。

 いっそ、それでなにも分からなくなってしまえば、楽になれるのかも知れないな。すべてのことから。


「クラスにひがしさんって子がいるでしょ。今回の件をね、誰かから聞いて、勇気を出して警察に通報してくれたんだって。優がビルから落ちてしまうのを防ぐには、残念ながら間に合わなかったけど、でも警察が早く来たおかげで救急車の手配も早く済んで、それで助かったんだから、感謝しないとね。命の恩人だよ。今度、お礼しに行かなきゃ」

「東野さんが……」


 優のようにおとなしい、クラスメイトだ。小学生時代にも、何度か同じクラスになったことがある。ほとんど話したことはなかったけど。


「そう。以前にうちのお父さんが、優へのいじめのことを聞き出そうとしたら、なにも喋ってくれずに逃げちゃったんだけど、でもそれは、自分もいじめられるかも知れないんだから当然だよね。本当はとっても勇気のある、優しい子だったんだね」


 優は、黙ってい文江の顔を見つめていた。

 文江は続ける。


「それにひきかえ、あのいじめっ子たちは、優のこと放っといてビルから逃げ出そうとしていたらしいから、東野さんの通報がなかったら、どうなっていたことか。あいつらほんと最低だよね。卑怯な、いじめっ子ども。この先なにがあろうと、絶対に許さないから」


 怒りに燃える文江の顔であったが、不意にその表情が曇る。

 ちょっとうなだれたように、言葉を続ける。


「……でも本当に最低なのは、こうなるまでなにも出来なかったお母さんたちだよね。放っておいたわけじゃあないけど、でも、色々と動いてはいるんだからいいだろう、みたいな気持ちになっていて、一刻一秒を争う問題だという意識が薄らいでいたのかも知れない。優の心がどんどんと蝕まれていっていたというのに、重大さに気付いていなかった。ごめんね、優、本当に」


 文江は淋しげな、悔しげな、やりどころのない感情を苦笑でごまかしながら、頭を下げ、謝った。

 部屋に静寂が訪れた。


 優は、無言であった。

 文江の顔を見ながら、呆けたような表情で、ただ無言であった。

 しかし、段々とその顔に変化が生じていた。

 そしていきなり、くっとしゃくりあげる微かな声を漏らした。


 泣いていた。

 優は、声を殺して、泣いていたのである。


「怖いの思い出しちゃった? 無理もないよね。あんなところに連れてかれて」

「ほじゃのうて……ごめんなさい、お母さん。あたしの方こそ……ごめんなさい」

「ちょっと、どうして優が謝るの?」

「だって……だって……生んでくれたのに……ここまで、育ててくれたのに、あたしあの時……生まれてきたくなかったなんていっちゃって……誰も生んでなんて頼んどらんなんていっちゃって……お父さんも、お母さんも、こうしてあたしのことを理解してくれて、頑張ってくれていたというのに。あたしのこと、こうまで考えてくれているというのに、それなのにあたし、生まれてきとうなかっただなんて……本当に、ごめんなさい。ごめんなさい」


 優は言葉をそこで切ると、あとはただ天井を見上げたまま嗚咽の声を漏らし続けるばかりであった。


 文江は、娘にそこまで思われていることへ感激したか、それとも娘になにもしてやれなかった罪悪感に締め付けられたか、じわり涙がこぼれそうになるのを指で拭った。

 しばらくの間、どちらからもなにも発することなく、ただ時間だけが流れていった。

 どれほど経ったであろうか。


「お母さん」


 静寂を破ったのは、優であった。


「なに?」

「あ、あのさ……」


 優はもじもじと身体をひねろうとして、痛みに呻いた。


「だから動いちゃダメだって」

「だって……」

「なに?」

「……あたし、その……大丈夫、だったから。……なんにも、されてなんか、いないから」


 優は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 顔から火が出る思いであったが、しかし親の娘としては、こういう事態にあった以上は話さずに済ませられる問題ではないと思ったのだ。どれだけ親が心配し、不安になっているかを考えると。


「分かった」


 文江はそういって、静かに笑みを浮かべるのみであった。

 あれこれ聞き出すのも酷なだけ、深く傷ついているのは事実なのだから、ということだろう。


「そうだ、優、こんなところで話すものじゃないかも知れないけど。……お父さんと、話し合ったことなんだけど」


 なんじゃろ、と優は軽く首を動かして、母の顔を見ようとした。

 全身を激痛が襲い、呻き、顔を歪めた。


「だから身体動かさないで、そのままで聞いて。あのね、優……お母さんの、実家に来ない? そっちで暮らさない?」

「東京で?」


 正確には千葉県であるが、優にとっては首都圏イコール東京であった。


「そう。お父さんは仕事を辞めるわけにもいかないから、ここに残ることになるけどね」

「そんなこと、簡単に……」

「お母さんたち、反省したんだ。なんで戦うことばかり考えていたんだろうって。どんなところにだっていじめは起こるかも知れないけど、場所さえ変えればとりあえずは逃げられるよね。最初にいじめを受けるまでには、運や、なにやら色々あると思う。一度始まってしまったら、あとは、同じ場所に留まっている限りいじめられていることが新たないじめを呼んでしまう。それならば、環境を変えることも一つの方法なんじゃないかと思って。……嫌?」


 母親の問いに、優は答えなかった。

 いきなり東京行きなどといわれて困惑してしまったというのもあるが、一番の理由としては、また声を押し殺して泣き出してしまい、それどころではなかったのである。


 なにもかもすべて自分が悪いというのに、親は親で自己を責めて自分に謝ってくる、優はそれに耐えられなかったのだ。


 色々と衝突することもあったけれど、今回の件で優は改めて両親が大好きであることに気付かされた。そんな大好きな両親を、自分が離れ離れにさせてしまう。

 それが悲しくて、それが申し訳なくて、優はいつまでもすすりあげるように泣き、涙を流し続けた。


     10

 ゆうは、小さな窓からずっと外を見ている。

 滑走路や、山が見えているだけの退屈な風景であったが。


 ここは飛行機の中。あと五分ほどで離陸の時間だ。

 これから羽田へと、飛び立つのだ。


「飛行機といえばさあ、新婚旅行を思い出すなあ」


 優の母、ふみが隣に座っている。

 彼女は十秒待っても娘に「どうして?」などといった最低限の反応すらもらえなかったが、語り出した手前話を続けた。


「もうこれから離陸だっていう間際になって、お母さんバッグをロビーに置き忘れてたことに気が付いて、もう大騒ぎよ。無理です無理ですもう時間ですから、って下ろしてくれなくてさあ。まだ五分もあるってのに。その後バッグは、運よく誰にも持ってかれることなく見付かったんだけど、次の便の飛行機で持ってきてくれればいいだけなのに、そういうのダメらしくてさ、まあ当たり前な気もするけど、とにかくおばあちゃんに空港まで取りに行ってもらって、送ってもらったよ。ほんとバカバカしいったら。まあ自分が悪いんだけどねー」


 文江は、今朝からとにかくひっきりなしに舌をフル回転させている。

 さして喋りたい気分でもないだろうに、でも、だからこそだろう。

 優には、母親の気持ちがなんとなく分かる。


 これから自分たちは、障害から逃げるべく旅立つのだ。つとめて明るくしていないと、どんより落ち込んでしまうではないか。だからこのように、どうでもいいようなことばかり、いつまでも喋り続けているのだ。


 でも、喋ることないなら、無理に口を開くこともないのに。

 優は、文江から顔を背けるようにして、ずっと窓から外を見続けている。


 ここ最近、優は家でもあまり家族と目を合わせない。

 別に仲が悪いわけではない。


 この引っ越しにあたり、優は自責の念にかられて泣くことが多く、その泣き腫らした真っ赤な顔を親に見られるのが恥ずかしくて、それでそっぽを向くことが増えていたというだけである。


 優は、つい数日前まで松葉杖を使って歩いていた。

 足の骨折が完治して松葉杖が不要になったことで、早々に千葉へと移ることになったのである。


 これまで暮らしていた家が暗いというわけでは決してないが、文江の実家はそれより遥かにほがらかであるため、優の気分もよい方向に向かうのでは。両親は、そんな期待もあって優を千葉で生活させたかったようである。


 ここ何年も会ってはいないが、優は千葉のおじちゃんにとても懐いていることでもあるし。


 広島空港へは広島駅からさらにリムジンバスで一時間もかかるし、だから東京駅までかかる時間を考えると新幹線による移動でもさして変わらない。でも文江は、あえて飛行機を選んだ。文江個人のこだわりだ。


 広島と千葉は地続きであり、これまでのしがらみから逃れて運命を良い方へ変えていくためには、一度大きく地を蹴って、空を跳ぼう。そのような考えとのことだ。


 CAが、安全ベルトの確認をして回っている。

 あとほんの少しで離陸の時間だ。


 文江は、ふーっと息を吐くと、ちらりと横にいる娘の方を見た。

 優の肩が震えていることに気付いたのだろう。


 そう、相変わらず窓から外を見ているが、しかし優のその肩は、ふるふると弱々しく震えていた。

 声を押し殺して、泣いていたのである。


「またあ。泣かないの。あの日から、何百回泣いてんの? もう」


 文江は苦笑した。


「だって……だって」


 優は、こぼれそうになる涙を指で拭うと、鼻をすすった。

 えずくように、しゃくりあげた。


 三人きりの家族を、自分がバラバラにしてしまった。

 それが優には、申し訳ない思いだったのである。

 たまらなく、悲しかったのである。


 自分にあとほんの少しでも勇気があれば、こんなことにはならなかったのではないだろうか。

 分からない。

 確かめるすべはない。

 神ならぬ人の身とあっては過去へ戻ることなど出来るはずもないし、飛行機を降りようにもちょうど滑走路をゆっくりと走り出したところだったからある。


 大きな不安と僅かな希望を抱き、明日へと向かうしかなかった。

 二人は、飛行機の急加速にぐーっと身体をシートに押し付けられた。

 やがて、窓から見えていた空港の景色が、斜めになりながら下へと沈んでいった。

 離陸したのだ。

 こうして優は、地を蹴って、大きく跳び上がったのである。

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きんのさじ 上巻 かつたけい @iidaraze

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