灰の歌
櫂梨 鈴音
灰の歌
彼女の人生は、まるで炎のようだった。
煌々と燃え盛る真紅の炎。その揺らめきは人々の目を惹きつけて止まず、彼女の声を耳にした者を輝きで溶かし、熱は更に広く遠くへ伝播する。
熱狂、まさしくそう呼ぶべき炎は彼女を中心として世界に広がり……その終わりもまた、当然のように炎によって彩られた。
◆
堕ちた歌姫。
路上に捨てられた新聞に大きくそう書かれた見出しを、彼女は生気の失せた瞳で眺める。
一年も前に発行された新聞が今目の前に転がっているのは何の皮肉か。まるで世間が歌姫のことを、過去の遺産として扱い始めたような光景ではないか。
いいや、ようなではなく、正しくその通りなのだろう。
歌姫と呼ばれた女の炎は、もはや燃え尽きているのだから。
歌姫フローゼ・レミングバード。
かつて世界中に轟いていたその名は、今では人の口に上ることもない。
若干一五歳にして華々しくデビューした彼女の歌声は、あらゆる媒体を介して瞬く間に拡散され、一年と経たないうちにその名を世界中に知らしめた。
あらゆる歌を凌駕し、燃えるような赤の長髪とカナリヤの如きその美声から「不死鳥」とも呼ばれていた女。
だが……彼女の歌はある日突然壊された。
いつものステージ。走り寄る幼い少女。目線を合わせるフローゼ。破裂するぬいぐるみ。閃光、赤、黒、悲鳴、怒号、絶叫。
ぬいぐるみに仕込まれていた爆弾は殺傷力自体は大したことがなかったのだろう、フローゼの顔を中心に火傷を刻み、その美貌を奪いはしたものの、命までは奪わなかった……が、しかし。その煙の中に込められていた成分が問題だった。
喉を灼く薬品。煙を吸い込んだフローゼは、己にとっての『命』を破壊された。
そこからの展開は早いものだ。力を失った者を何が待ち受けているかなど、火を見るより明らかなのだから。
歌うことができなくなった。掠れ擦り切れた声に価値はなく、歌姫はそれだけでただの小娘以下に成り下がった。
フローゼは同業者に対しては苛烈なまでに闘争心を向けていた。結果として誰も彼女に手を貸さず、それどころか飛べない鳥を嘲笑う。
爆発の二次被害を受けた観衆と、何よりぬいぐるみを抱えていたせいで一人だけ命を落とした少女の遺族は、見つからない犯人ではなく被害者であるはずのフローゼに敵意を向けた。
バッシングは日を追うごとに勢いを増し、まるで全てが彼女の責任であるかのようなねじ曲がった報道まで出回る始末。
その結果、築き上げた全てを文字通りに失ったフローゼは、日の当たる世界から消えてしまう。
それから一年近くが過ぎた今、彼女の行方を知っている者はほとんどいない。
新聞が風で飛ばされる。視界から消えたそれから意識を外すと、女は通りへと目を向ける。
もうすぐ夜になろうかという時間帯、一日の仕事を終えて帰宅する雑踏の中、こちらにちらちらと目線を向けていた男の手を取った。
突然のことに硬直する男に対し、女は路地の奥にある一軒の店を指差した。
そこは表通りに近い場所にも関わらず、薄暗くどこか退廃的な雰囲気を纏わせる店。
男に抵抗する気配がないことを確認すると、女はその手を引いて歩き出す。
薄い黒のヴェールで顔を隠した、短い灰髪の女……フローゼ・レミングバードは薄暗い細道へと消えた。
◆
フローゼ・レミングバードにとって歌とは己を構成する全てであった。
一〇歳の頃に事故で両親を亡くし、頼れる親族もおらず路頭に迷った。日雇いの仕事で小銭を稼ごうにも幼子の腕では満足に稼げようはずもない。
そのままではいずれ裏街の他の子どもと同じように消えていただろう命は、しかし歌によって繋がれた。
幼い頃から両親に褒められていたから、ということもあったが、彼女自身が自分の才能を疑っていなかった。
だって、彼女の耳には聞こえていたのだ。自身の声に宿った、他の人間にはない熱が。
最初に街中の広場で歌うと、数人が立ち止まった。
次の日、前日の声を調整すると数十人が彼女を見た。
五日目には広場を包む観衆がいた。
そして、その歌を聞いたある企業が彼女を引き取るまでにそう時間はかからなかった。
それから五年、元から美しかった歌声を過酷なトレーニングで更に磨き上げた少女は歌姫として現れた。
つまり、彼女にとっての歌声とは武器であり、命であり、翼であり……彼女の価値そのものだったのだ。
ベッドが軋む。火傷を隠すためのヴェール越しでは、暗い部屋の中で男の顔の輪郭しか掴めない。
男もフローゼの顔は見えないはずだけれど、それを楽しむことができるからあの雑踏の中で自分に興味がある視線を向けていたのだ。
男が動くたび、裸身を伝う衝撃から目の奥に火花が散る。身体を走る電流のような感覚は未だに慣れず、背筋震えるたびにシーツを握りしめる手に力がこもった。
けれど、身体の反応とは違い胸中を占める思考は一つだ。
快楽、嫌悪、悔恨……そのどれでもない。
声を出してはいけない。
ただそのことだけを考えながら相手の為すがままに身体を預ける。どんな感覚に襲われようと、絶対に声を出さないよう歯を喰い縛りながら。
けれど、どれだけ意識しようと生理的な反応を抑え込めるはずもなく。
『ア゛──』
と、口の端からか細く、そして掠れた吐息が漏れた。
自分の喉から発されたその声が耳に入った瞬間、フローゼの内でドス黒い感情が湧き起こる。
声にはかつての炎のような輝きはない。残されたのは灰に塗れ、僅かに熱を持つだけのみすぼらしい残滓ばかり。
自身の拠り所であり、全てであった声はこの通り地に墜ちている。
自らの喉から発されるこの音が耳に入るたび、彼女が堕ちる様を見ていた者達の目が思い出されるのだ。
憐憫、嘲笑、愉悦、憤怒。
負から生み出された感情は、あるいは身を焼かれる痛み以上に彼女を傷つけた。
だけどそれ以上にフローゼの心を占めるのは、現実に対する否定。
もっと上手く歌える。自分の歌はこんなものじゃない。私は飛べるんだと、自分の喉から生まれた音を否定する。
しかしそれは過去の話。今のフローゼが生み出せるのは己にとってゴミ以下の価値しかないもので、そのことがどうしようもなく彼女の心を切り刻む。
けれど今この時、その声に誰より感情を掻き乱されたのはフローゼではなく。
ぴたりと、男の動きが止まっていた。
己の内面へと沈んでいたフローゼとてその変化には気付かざるを得ない。
何事かと顔を上げると、男の口からある単語が飛び出した。
「フロ……ゼ……レミング、バード?」
比喩抜きにフローゼの心臓が跳ね、息が止まった。
何故? どうして? 相手のロから出るはずがない言葉に身体が硬直する。
その隙に震える手が伸ばされ、顔を隠していたヴェールに触れる。
待て、と、掠れた声を上げることすらできなかった。
取り払われたヴェールの下から現れるのは、左半面に痛々しい火傷が刻まれた女の顔。
熱で焼かれた目は白く濁り、ぼやけた景色しか映さなくなった傷だらけのガラス玉のよう。
炎の舌が嘗めとった痕は、整っていた眉や髪が無残にも食い散らされている。
溶かされた肌と、端が焼かれた唇は黒煙が口腔を犯し、彼女の
その中で、顔の右半面だけはかつての美貌をそのまま残している。歌姫と謳われたその顔を。
ヴェールを持ち上げた男と、動くことのできないフローゼの目線が至近距離で絡み合い、次の瞬間。
「あああああああああああああああああああああああ!?!?!?」
絶叫を上げて、男の身体がベッドの上から転げ落ちた。
上に覆い被さっていた重石が退いたことでフローゼは自由になるが、それでも身体を動かすことができない。
そして、男は部屋の隅で震えて縮こまっている。まるで、悪夢から逃れる子どものように。
「なんで、なんで」
譫言のように男の口から零れ落ちるのは誰何の言葉。
一体何に対する言葉なのか、フローゼが問いかけるより先に
「信じてた、のに……」
信じていた。
その言葉を、男がどういった思いから口にしたのかはわからない。
けれど、その瞳を見れば答えは歴然としている。
今まで、転落した彼女を見ていた目。憐憫、嘲笑、愉悦、憤怒。そのどれとも違う、失意に満ちた瞳。
大空を羽ばたいていた鳥が、地を這い泥を啜っている様を見てしまった男は、この世の終わりを直視したかのように震えている。
その言葉を受けて、フローゼは動かなかった。動けなかった。
つまるところ、フローゼ・レミングバードは、不死鳥と呼ばれた歌姫は。ついに己だけでなく、未だに己を信じていた存在すらも裏切ったのだから。
◆
あれから、更に三年近い月日が流れた。
今フローゼがいるのはあの部屋とは違う、明かりの落とされた暗い部屋だ。
部屋の中、申し訳程度に設置されたいくつかの家具の一つ、粗末なベッドに転がって虚空を眺めるフローゼの姿は、三年前とは別物になっていた。
素性を隠すために灰色に染めていた髪は元の赤に戻っているが、所々が焼け焦げ、乱雑に千切られている部分もある。
顔を隠していたヴェールは取り払われ、火傷が刻まれた顔は外気に晒されていた。
しかし、そこにあるのは火傷痕だけではない。傷がなかったはずの場所にも大小様々な傷が刻まれ、鬱血した肌は熱を帯びている。
傷が刻まれたのは顔だけではなく、簡素な薄着に包まれた身体もそうだ。
痩せ衰えこそいないが、腹や腕など身体中の至る所に滲んだ血や痣など暴力の痕跡が見てとれる。
その中で殊更に目立つのは首だ。かつては白く、美しい旋律を奏でていた器官はしかし、今はその面影を残していない。
いったい何度それを行えばそうなるのか、一目見ただけでわかるほどに何種類もの手型が喉を這う。
首をぐるりと囲む青黒い痕、それはまるで首輪のようで、今の彼女の状況を表しているようだった。
三年前、あの男に正体が露見したことでフローゼはあの店にいられなくなった。
不幸中の幸いというべきか、経営側が口止めしたことで世間へと広まることはなかったようだが、だからといって同じ手段を用いられるはずもない。
結果として、フローゼは更に暗い場所へと潜っていった。上の判断で信頼できる者だけに情報を流し、客として迎え入れる場所へと。
かつての歌姫、あらゆる物を凌駕していた正真正銘の一等星。
そんな存在に手つけることができる場所、金を持ち、捻くれた欲を抱えた好事家が集まって、その結果が今の彼女だ。
フローゼは多額の借金を背負っている。『彼女のせいで命を落とした少女と、被害者達に対する賠償』という正義によって積み重ねられたそれを。
歌を失った彼女には到底払いきれる額ではない。それこそかつての栄光を汚す薄暗い快楽に酔っている連中へと、己が全てを差し出さなければならないほどには。
金は力だ。人の人生を容易く歪めてしまうほどに。だからこそフローゼはこんな場所にいて、抵抗することもなくその無惨な肢体を晒している。
いや……たとえそんな事情がなかったとしても、声を失った彼女が他の場所に行くことなどなかっただろう。
あの日の目、失意に満ちた瞳が未だに頭にこびりついている。
あれを見た時、フローゼという星は真の意味で地に落ちたのだ。
もはや生きる意味も、死ぬ気力もない。終わった存在として、惰性のままに在り続けるだけ。
そう思ってただ空いた時間を過ごしていた時、部屋の扉をノックする音がした。
それに返事をすることはないし、する必要もない。
いつものことだと、決して反応が返ることがないと知っているスタッフが部屋へと入ってくる。
またぞろ成金趣味の上客が来たのかと、無気力にスタッフを見るフローゼだがそこで思わず首を傾げた。
部屋に入って来たスタッフは、いつもの簡素な仕事着とはうって代わり、上等な一張羅を纏っていたのだ。
『……?』
何事かと思いながらも、常の動作でゆっくりと身体を起こしたフローゼに対し、スタッフはどこか上擦った声で告げる。
「身請けだ。今日、おまえが買われることになった」
その言葉を聞いた時、フローゼにも多少の驚きはあったが、それ以上についに来たかという思いの方が強かった。
フローゼが抱える多額の借金。三年前とは違い仕事一回ごとの額が額であるため、返済は進んでいることだろう。
だが、最近は客の入りが少ない。それは『不死鳥の歌姫』が更に人々の記憶から薄れたからであり、フローゼがこれ以上汚しようもないほどに傷だらけになったからだ。
有り体に言ってしまえば……飽きられたのだ。フローゼは。
飛ぶ鳥が地に落ちる様を喜んでいた人間達は、壊れて動かなくなったモノからは至極あっさりと興味をなくす。
もはや商品的な価値がないものを、金を出して引き取るという誰かが現れたのならばその通りに売り払う。実にシンプルでわかりやすいロジックだ。
売り払われた後はどうなるか……こんな傷モノを後生大事に取り扱うとは思えない。
花火のように、最後に爆ぜればいい方だろうか。それとも今以上の趣味の玩具になるのだろうか。
まあ、もはやそれすらどうでもいいが。
いっそ、あの爆発で全てを失った直後に派手に終わっていれば良かったのだろうかと、そんなことを考えながら言われるままに準備をする。
いつもの扇情的で、衣装とも呼べない衣装とは違う、上等な素材で作られた服に袖を通す。
目の前に置かれた鏡を覗き込んでみれば、そこにいるのは肌の露出を極限まで減らし、傷が見えなくなった自分だ。
顔の火傷さえなければ、それは歌姫だった頃の姿に似ているが……それ故に、
一瞬だけ燃え上がりそうになった黒い炎はしかし、それ以上の無力感により簡単に鎮火してしまう。
全てがどうでもいいと、導かれるままに買い手が待っている部屋へと向かう。
いっそのこと、いち早く自分を終わらせてくれる相手ならばいいと、開く扉の向こうを見て……目を見開いた。
普段から意識して声を出さないようにしていなけるば、掠れた声で悲鳴を上げていただろう。
扉の向こうにいたのは、無気力に支配されたフローゼの感情を唯一動かす存在。
悪夢の中でフローゼを責め立て続ける、あの日の男がいたのだから。
◆
フローゼがあの男に買い取られてから数日。その間、二人の間には特に何もなかった。
既にフローゼを引き取る手続きを終えていたらしい男に、手を引かれるままあの鳥籠を出た。
馬車に乗り込み、たどり着いたのは一軒の民家。
どこをどう見てもただの一市民が住んでいるようにしか見えない、ごく普通の家。
とてもではないがフローゼを買い取ることができる人間が住んでいるようには思えなかったが、そこが男の家で間違いないらしい。
その普通の家の普通の一部屋が、現在の彼女に与えられた部屋だ。
男は彼女に何もしなかった。それだけならば数日前までの環境に比べ、ずっとマシになっている。
だけど、フローゼの精神は以前の比ではないほど追い詰められていた。
あの男が何を思ってフローゼを買ったのかがわからない。あの日、落ちたフローゼを見て失望の色を浮かべた男が、何故今さらになってそんなことをするのか。
その上あの男、一切喋らないのだ。
移動の時も、この部屋に通された時も、ここ数日の生活の間も、一言も言葉を発さない。
日中はどこかに出かけているようだが、部屋に持ち込まれる食事や片付けなどの家事は全て男が行っている。その時顔を合わせても話しかけてくることがない。
フローゼも喋らないものだから、短いやり取りの中で二人の間にあるのは常に無言の空気だけだ。
他の相手であれば、フローゼはそのことにストレスを感じたりはしない。
だけど、あの負の感情を煮詰めた目を向けてきた男だけはその限りではないのだ。
それが恐怖によるものなのか、あるいは罪悪感によるものなのかはフローゼにすら定かでなないけれど。
しかし、今のフローゼはあてがわれた部屋に鎖で繋がれているわけでも、行動を制限されているわけでもない。男が外出している間に逃げ出すことは可能だった。
けれどフローゼはそうしなかった。それは恐怖からではなく……自分を終わらせる存在がいるのであれば、それは自分が裏切ってしまった、あの男こそが最もふさわしいと思ったからだ。
そして今日、朝食を片付けに来た男はいつもと違う行動を取った。
いつもなら無言で食器を片付けた後に昼食を置いて外出するのだが、今日はそのままフローゼの手を取ったのだ。
『……!?』
思わず身を竦ませたフローゼには取り合わず、男は手を引いて無言で部屋を出る。
フローゼは最初こそ身を固くしたものの、それに抵抗することなく、男になされるがままに付いて行く。
ついに終わりの日が来たのかと、半ば以上喜びを持っている。
自分では終わらせることすらできなかったけれど、この男に終わらせられるのならばそれは最も正しい終わりだと。
男が先導し、着いたのは同じ家にある部屋の扉。
中に何が待っているのかと、ぐちゃぐちゃになった感情で引きつった笑みのような表情になったフローゼの前、男が開けた扉の先にあったものは──
──一台のピアノだった。
『……ッ』
数秒前までフローゼを縛りつけていた感情が、他の感情で弾け飛ぶ。
全てを失った日から、努めて目に入れないようにしていた『音』に関する道具。
何故それをこんな所で見せられるのかと、己が内から湧き出す感情に翻弄されるフローゼ。
そんな彼女の目の前に、ずいっと紙束が差し出される。
その紙に記されているのは、かつて毎日見ていた見慣れた記号。
つまりそれは、歌の楽譜で。
気付いた時には、男の顔が拳をめり込んでいた。
肉が肉を打つ、鈍い音が部屋に響く。
細身の女が放った拳ではあるが、自身のことなど考える余裕もなく、ただ全力で放たれた拳は男の脳を揺らすには十分だった。
よろめいて一歩下がった男に対し、フローゼはその胸ぐらを掴むと更に二発、三発と殴りかかる。
鈍い音が響くたび、男の首が玩具のように振り回される。
嫌な方向に曲がった鼻からは止めどなく血が零れ落ち、打撃に合わせて飛び散ることで二人の服が真っ赤に染まった。
重なる衝撃に男の足から力が抜け、胸ぐらを掴んでいたフローゼがそれに引きずられることで、二人揃って床に倒れ込む。
けれどフローゼの動きはそこで止まらず、仰向けに倒れた男の胴体に馬乗りになると、獣のように拳を振りかぶり……左右交互に振り下ろした。
『……ッ! ……ッ!!』
フローゼはこの男に何をされようともいいと思っていた。自分に価値はなく、自分を終わらせるのあればそれでもいいと。
ただし、それは『今』の自分に対しての話だ。全てを抜き去り輝いていた『かつて』の自分を汚すことは、誰に対しても許していない。
それを何だ? よりにもよって歌えときたか、この男は。
かつてのフローゼの歌と比べて、嘲笑うことで裏切られた復讐をしようとでもしたのか。
だが、それだけは絶対に許されない。この醜い声でかつての炎を貶めることなど許されていいはずがない。
それは、全てを失ったフローゼにとって、唯一残されたものであるのだから。
何度拳を振り下ろしただろうか。限界まで身体を動かしたフローゼが息を荒げて停止する。
今や男の顔は腫れていないところがないほどに膨れ上がり、赤と青のマーブル模様を描いていた。
口の端から零れた白い欠片はどこの歯だろうか。ひょっとしたら何本もまとめて欠けているかもしれない。
そんな惨状を引き起こすほど振るわれたフローゼの手もまた無事ではなく、皮が裂け肉が抉れている。中身も間違いなくひしゃげているだろう。
滴り落ちる赤は男のものなのかフローゼのものなのかすら判然としない。
荒い息を吐くフローゼの顔は、感情が全て抜け落ちたかのように色をなくしている。
もう、本当に全てがどうでもいい。
こんなことなら、もっと前に終わっているべきだった。
この男の喉笛を喰い千切り、自分も含めて全てを終わらせようと、重い腕を動かそうとして、
『ア゛──』
その音に、動きを止めた。
その音は聞き慣れた音によく似ていた。けれど、その音自体ではない。
掠れたフローゼの声にそっくりなその音は、フローゼが下敷きにしている男の喉から零れていた。
激情に支配されていた脳が急速に冷えた。理解が追い付かない現象は、殺意に満ちた女を止めるに値して。
その間に男が上体を起こそうとする。それに気圧されたように、フローゼは思わず後ろへ下がろうとして、そのまま尻餅をついた。
『ア゛、ァ゛……』
息も絶え絶えといった具合に起き上がった男の口から漏れるのはやはり聞き慣れた音と酷似した声。
即ち喉を焼かれた者が出す、空気が漏れるような掠れ消えそうな声なき声だ。
何故、と思った。
三年前のあの時、確かにこの男には声があった。
それが何故、今はフローゼと同じく声を失っているのか。
目の前に自らを殺しかけた女がいるというのに、男はそれに取り合わずピアノの方へとふらつきながら歩く。
ようやくと言った調子で鍵盤の前へと腰かけ、設置された楽譜を震える指で広げた。
そこでようやく、焦点の合っていない瞳がフローゼを捉える。
肩を跳ねさせるフローゼに対し、男は床の一点を指さした。
そこに目を向けると、先ほどフローゼに差し出された楽譜が落ちている。
赤く汚れてはいるが、まだ書かれた内容は読み取れた。
思わず、ボロ切れのようになった手でその楽譜を拾い上げる。
それを確認すると、男はゆっくりと鍵盤に手を置き、演奏を始めた。
知らない曲。随分ゆっくりとした、静けさを持つメロディ。
かつてフローゼがよく使用していたアップテンポの曲とはまるで正反対の音。
散々頭を揺すられた後だからだろう。所々不安定で妙な音が出ることもあるが、何度も練習したのか大きく音を外すこともない、堂に入った演奏だ。
未だ戸惑うフローゼを置いて演奏は進む。あと少しで楽譜に記された歌い始めの箇所に差し掛かる。
もう歌いたくない。醜く変わった自分の声を聞きたくない。
それがフローゼの本心で、声を失ってからの四年、ひたすら声を出さないようにしてきた。
だけど、今の目。
歌を促す男の目はあの日の失望とは違う、何かを期待するかのような色に満ちていて。
気の迷いかもしれないけれど、ピアノの演奏に合わせ、自分の意思で声を出した。
『La───』
声が、出た。
かつての声とは比べようもない掠れた声、けれど、口から出たのは時折漏れていた残骸ではなくちゃんとした音色で。
『……!? La、lalala───』
演奏に合わせて続けて歌う。偶然などではなく、掠れてはいるが音が連なった。
そこで気付く、この歌は喉を焼かれた者のための歌だ。
普通の歌とは違う、独特な呼吸の仕方とテンポのおかげで息がしやすい。肺から口まで、詰まることなく空気が流れる。
『La──La───』
そんな限定的に過ぎる歌が何故存在するのか。
……決まっている、目の前の男が作ったのだ。
しかもあの声……歌いやすく作るために、自らの喉を焼いて、自分が試すことで歌を完成させたのだ。
この男は、あの日のフローゼを許せなかったのだろう。
栄光を手にし、燃え盛り輝いていた綺羅星が地に落ち輝きを失くしている様を。
そして、それを否定するためだけに行動した。
何年も懸けてフローゼを身請けするための金を用意し、歌を作るためだけに喉を焼き、殺されそうになっても頓着しない……仮にかつての輝きと熱気に魅せられた者だとしても、常軌を逸した狂気の沙汰。どう取り繕ったところで狂人だ。
『La──……』
それだけのことをやって、願いはこの掠れた歌を聞きたかっただけ。フローゼの歌を聞きたかっただけ。
まだ諦めるなと。あの燃え盛る炎は、こんなことで消えることなどない。大空を飛んでいた鳥は、翼を奪われた程度で羽ばたくことをやめない。
そんな、身勝手で独善的な理想の押し付け。
己に光を与えたのならば、おまえはまだ輝けという自分勝手な思考の果てがこの状況か。
それだけの我が儘を通し、あらゆる物を投げ捨てて……こんな、ほんの少しの歌を聞いただけで満足げな笑顔を浮かべて、何を考えているのだ。
そんなことのために、そんな、そんな──
『La……ア……』
そんなことを、フローゼ自身が望んでいたなんて。
『ア……』
もっと歌いたかった。まだ輝いていたかった。諦めたくなんてなかった。
けれど、フローゼに向けられたのは憐憫、嘲笑、愉悦、憤怒。
かつてはその炎を讃えていた者達すら、灰と化した声を聞くと全てを諦め去って行った。
誰も、まだやれるだなんて言ってくれなかった。
誰も彼女を見なくなって、歌が届く誰かはいなくなって、いつからか全てを諦めて……。
だけど、今ここに彼女の歌を望む者がいた。
今ここに、彼女が望んだ、彼女の歌を諦めない者がいた。
『ア、アアアアア……!』
とっくに歌は途切れていた。
声とも呼べない掠れた声で慟哭を上げるフローゼは踞り、どれだけ殴られようが欠片も動揺していなかった男は演奏を中断すると慌ててその背を擦る。
止まない泣き声は、まるで生まれ変わった不死鳥の雛、その産声のように部屋の中で響き続けていた。
◇
とある街のとある通り。ウインド・ウェイスタンドという男が住む家がある。
数年前から一人増えたその家の住人二人は、近所の住人すら互いに話している所を見たことがないという。
けれど、誰もその二人が不仲だなんて思っていない。
だって当然だろう。その家からは休日になると、決まって落ち着いたピアノの音色と、心が安らぐような歌声が聞こえてくるのだから。
街に響くその歌声は、万人を熱狂させる歌姫のようなものでなないけれど。
暖炉に当たる者を優しく包むような、暖かい光に満ちていた。
灰の歌 櫂梨 鈴音 @siva_kake_mawaru
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