あなたにだけは見せたくない

叶あぞ

あなたにだけは見せたくない

 絹山縁きぬやまゆかりと初めて会ったときの印象は「下品な人」だった。

「ど、どうもです。えへへ、西の方から転校してきました。よろしくおねがいします」

 にへらと笑ってぺこりと頭を下げる。短い黒髪が跳ねていた。肌は日焼けで浅黒く、耳にはピアスの痕がついていた。

 それを管弦楽部の部員たちが冷ややかに見つめている。やや間があって、仕方なく紅香が手を叩くと、お義理の拍手が巻き起こる。当の本人は腑に落ちない顔を見せていた。

 ただでさえこの学校は中学からのエスカレーター進学がほとんどで、転校生など滅多に来ないのだ。おまけに絹山縁の父親は違法スレスレの金貸しで儲けている「成り上がり」だった。ここは成金が金だけで簡単に入学できる学校ではないはずだが、いったいどんな悪どい手を使ったのか、と生徒たちの間でもっぱらの噂だった。

 この学校の生徒である以上、部活に入る権利はある。が、自分たちの仲間だと認めるつもりはない――紅香べにかには部員たちの声が聞こえるようだった。

 縁の自己紹介の時間はそれだけで終わりだった。顧問の教師は縁を教壇から下がらせると入れ替わりに前に出て、いつもの通り練習についての話を始めた。

六条川ろくじょうがわ紅香です。よろしくね」

 だからこそ、紅香の方から縁に話しかけた。部活の中に軋轢がないようにするのが自分の役割だと思っていたし、家柄で人を差別するような下品な人間ではないという自負もあった。

「あ……えへへ、よろしく」

 縁が片手を紅香に差し出した。紅香はしばらくその手を見つめていたが、我慢して握手に応じた。縁の手は汗で湿っていて気持ち悪かった。

「縁さんは楽器の経験はありますの?」

「はい、ちょっとピアノをやってました」

「まあ。わたくしもピアノを担当しておりますのよ」

「どれくらいやってるんですか?」

「五歳のときから」

「わ、すごい。あたしが五歳のときっていったら、ピアノとか触ったことなくて、えーっと、たしか近所のあっちゃんって子とファッションショーごっこにハマってましたね。うちの母親が服とかめっちゃ買う人でー、でも見栄張って小さめのサイズのやつ買うからいつも着れなくて――」

「そこ、静かになさい!」

 教師が縁を叱りつけた。他の生徒たちが静かに縁を嘲笑したが、お喋りの相手が紅香だと気づいて笑顔を引き締めた。

 教師が皮肉っぽく笑う。

「そういえば、絹山さんは、ピアノがお出来になるんでしたね」

「まあ、そこそこに」

「私の話よりもお喋りが大事だなんて、よほどお上手なんでしょうね」

「それほどでも……」

「ではここで何か弾いてご覧なさい。みなさんにお手本を聞かせて差し上げて」

 教師の皮肉に、縁がおずおずと前に出た。自分の方から話しかけた手前、紅香には罪悪感もあったが、あの教師に目をつけられてしまったからには何を言っても火に油を注ぐだけだ。

 縁がおっかなびっくりピアノの前に座る。

 教師が顎で促す。

 縁の演奏が始まった。




「紅香さん!」

 部活が終わってから、帰り際に縁から声をかけられた。紅香は慌てて笑顔を取り繕って振り向いた。

「あの、一緒に帰りませんか。あ、嫌じゃなかったら……」

「もちろん、構いませんわ」

「あ、紅香さんって呼んでもいいですか。『六条川さん』って長くて、えへへ」

「お好きにお呼びになって」

「あ、じゃああたしのことは縁って呼んでください。あ、クラスメイトに聞いたんですけど、紅香さんってすごいんですね、ずっとピアノやってコンクールでも優勝して……発表会でもずっとピアノの担当なんですよね、すごいなあ」

「……どうも」

 笑顔が崩れそうになった。危ない。

「みんな紅香さんのことすごいって言ってて、あたしそんなすごい人だとは知らなくて、声かけてくれたのに、無礼なこと言っちゃったかなあって昨日反省してて」

「そんなことありませんわ。買いかぶりですのよ」

「次の発表会もピアノは紅香さんなんでしょうね。楽しみだなあ」

 管弦楽部では外部の人間も招待される「演奏会」が定期的に行われていた。もちろん楽器の編成は予め決まっているので、同じパートに希望者が殺到した場合はオーディションとなる。中でも一番競争率が高いのがピアノだった。何せ、この学校の生徒はほとんどがピアノを習っている上に、大抵の場合ピアノの枠は一人分しかないのだから。

「……ピアノが弾けるのは縁さんも同じでしょう? 誰が選ばれるのかは、まだ誰にも分かりません」

 管弦楽部には顧問の教師以外にもコーチが二人雇われているが、オーディションはこの三人に理事長が加わって審査を行う。演奏会で下手なものを公開すれば学校の名誉にかかわるということで審査はかなりシビアである。

「縁さんもピアノパートを希望なさるのでしょう?」

「えへへ、まあ。他にできる楽器ないもんで。ふふふ、楽しみだなー。紅香さんと勝負できるなんて」

 縁が歯を見せて能天気に笑った。紅香は、自分の笑顔が剥がれ落ちそうになるのを必死にこらえていた。




 縁が転校してきてから三ヶ月が経ち、オーディションが始まった。

 オーディションは部員と審査員四人が見ている前で順番に演奏して、結果は後日発表される。今回の演奏会で定員オーバーとなったのはピアノパートだけだった。

 最初に演奏するのは縁だった。ピアノの前に座る彼女は柄にもなく緊張している面持ちだった。長い深呼吸をして、弾き始める。演奏が始まればいつもの彼女だった。まるで機械のように無表情。人間の持っているすべての機能を演奏に注ぎ込んでいる。

 演奏が終わって、縁に人間の表情が戻った。ほっと息を吐き出すと、椅子から立ち上がって、戯けたように一礼した。

 音楽室にいた全員が拍手するのを忘れていた。

 紅香が最初に大きく手を叩くと、徐々に拍手が広がっていった。

「では、次――六条川さん」

「……はい」

 笑顔で返事をして、縁と入れ替わりにピアノに座る。縁とすれ違うとき、彼女が耳元で「頑張って!」と小さく応援した。

 目の前に広がる白と黒の縞模様。しん、と静まり返る音楽室。みんなが紅香に耳を傾けていた。

 紅香は演奏を始めた。ああ、やっぱりだめだ。演奏しながら、泣きそうになるのこらえていた。はやく帰りたかった。はやくピアノの前から立ち去りたかった。音楽室にいる部員の誰よりも、審査している教師たちよりも、紅香自身が、自分には勝ち目がないことを分かっていた。

 演奏が終わって一礼すると、部員たちが紅香に拍手を送った。恥ずかしくて死にそうだった。縁と比べれば自分の演奏が未熟なのは明らかだった。

「えへへ、良かったです」

 降壇した紅香に縁が言った。紅香は、最後の力とプライドを絞り出して、何とかいつもと同じ笑顔を作った。罵倒と、皮肉が、喉から出そうになった。それ以外には、この場面で適切な言葉が何も浮かんでこなかった。




 翌日、結果が発表された。ピアノパートに選ばれたのは紅香だった。

 部員たちが寄ってきて、口々に祝福の言葉を並べてゆく。その中には縁の姿もあった。

 彼女たちに笑顔でお礼を返しつつ、紅香の心は煮えたぎるようだった。部活が終わってから教職員室を訪ねて、顧問に審査の理由を問いただした。

「選ばれたのが不満? でも、ピアノを希望したのは六条川さんご自身でしょう?」

「そうですが……絹山さんの演奏をお聞きになったのでしょう?」

「絹山さんに技量があることは私も認めます。しかし、演奏会は、中でもとりわけてピアノは、学園の顔となるものです。それに相応しき人格と家柄を備えた生徒でなければ、とても任せられません。それが不満なら、家柄に負けぬ技量を身に着けなさい。それが当校のモットーです」

「……いえ、異議はございませんわ。ただ、理由を知りたかっただけなのです」

 紅香は審査の結果を受け入れた。それからも教師は説法のようなことを言っていたが、紅香の耳には入らなかった。

 そのまま下校しようと玄関へ行くと、縁がひとり立っていた。紅香を見つけるとスカートを翻して走ってくる。

「紅香さん、おめでとうございます。いやー、勝てると思ったんですけどねえ。えへへ」

「……ごめんなさい」

「なんで謝るんですか。まあしょうがないじゃないですか、勝負なんですから。紅香さんの演奏、素敵でした」

 やめて。

 そんな目でわたしのことを見ないで。

「えへへ、紅香さんってすごいなあ。いつもにこにこしてて、あたしなんかと一緒にいてくれるし、優しいし、あたしなんか――」

 だめ。そんなふうに自分を卑下しないで。

 わたしこそ、わたしこそ、あなたの友だちにふさわしくない、卑怯者なのです。

 縁への嫉妬と劣等感で気が狂いそうだった。縁だって、どちらの実力が上か分かっているはずだ。

 どうして、どうしてこんな女にわたしは勝てないの、こんな下品な女に負けるなんて――。こんな女に、卑怯な手で勝つなんて――。

 紅香は笑顔で縁の話を聞いていた。それからずっと、別れるまで笑顔だった。紅香にとってそれは、醜い自分を縁から隠すための、ただひとつの殻だった。

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