春になる前

フカイ

掌編(読み切り)




ハッとするほどぬるい空気


気づいて家を出る午後5時半


この間まではもう夜だったのに、


まだ外は明るい


そんな宵の口に、散歩を




青い世界


地平線に沈んだ太陽の残照が


世界を青く染める


プルキニエ現象と言うのだそう




月がひとつ


しどけなく、東の空に


上弦の月は、過去を写す


あの月は、いつか見た月


田んぼのあぜ道で、見上げた月


港の貨物列車のすき間に見えた月


いまはこの街で、


ビルの肩に止まった月を見る




風に沈丁花じんちょうげが香る


桜にはあと少し


帰るべき場所はなく、


ただ、


立ち止まる理由があるだけ


失ったものを数え


手に入れたものとの数の違いに


ただ、驚くだけ


でも、悲しくはない


苦しくはない


ここにあなたがいなくても


もうすぐ春がくるから…




トレンチ・コートの裾が揺れる


パンプスの靴音が


わたしを未来へ連れてゆく


ひとまずは落ち着いて、


青を、深呼吸

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春になる前 フカイ @fukai

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