13月は来ない お題:憧憬
● 現実
鈍色の包丁がその頭を躊躇なく切り落とした。タカノが赤黒い血のついた指先を勢いよく振る。飛沫が飛んだかも、と思って自分の顔をなぞってみたけれど、私の指先に血が付くことはなかった。自分の手の冷たさに驚きながらタカノの仕事を注視する。私は仕事がなくて退屈だった。
深夜三時、とうに終電は出ている。駅から少し離れた居酒屋は閑散としていた。始発までの時間を惰性で飲み明かしている客が二組いるばかりで、もう一時間も前から呼び出しベルは鳴らされていない。八十年代の歌謡曲ばかりが流れる有線はどこか調子外れだった。
「店長、発注かけ過ぎなんだよな」
「明日宴会あるから。五十八名」
タカノが捌く無数の青魚と目が合って気分が悪くなる。発泡スチロールの中で細かい氷が海水にかわって魚達を包んでいた。
「その仕込ってわけ? 店長が朝番でやればいいじゃんか。これのせいで何も終わってないよ」
「今に始まったことじゃないじゃん。ナッちゃん戻ってきたら私も手伝うよ」
休憩中のナッちゃんは座敷で、四肢を放り出して寝ているに違いない。ナッちゃんはこのお店のオープニングスタッフで、散々辞めたいと飲むたびに愚痴を言っているけれど、結局いつも辞めないのだった。タカノがいるから。もう付き合って、二年は経つらしかった。
「ヒジリは? 今日は休憩なし?」
「なし」
「よくやるよな。賄いは?」
「いいや。帰って食べるから」
そっか、という相槌と一緒にタカノは包丁をおろして、魚の赤黒い血が俎板に滲んだ。
閑散とした居酒屋でやることもなく、私は店のホールに出て据付のテレビを眺めてみる。知らないバンドが、知らない音楽番組で紹介されていた。聞き馴染みのないロック・ミュージックのボーカルが店の有線と混じり合う。中森明菜の声がぐちゃぐちゃになっていた。
ビルの地下フロアを使ったこの居酒屋では、体内時計がめちゃくちゃになる。外の光が入ってこないし、二十四時間営業のこの店は真夜中でも馬鹿みたいに明るくて、朝も夜もうまく来ない。客はソファで、車に轢かれた蛙みたいに潰れている。飲み残されたサワーの泡が弾けることもなく静かだった。もうまったく食べ物には見えないお漬物の盛り合わせがカラフルな死骸だ。
私の足音でうつらうつらしていた客は目を覚まし、呼び止めてお冷を人数分持ってくるように言う。パントリーへお冷を用意しようと向かうと、タカノはまだ大量の青魚を捌いている最中で、私が戻ってきたことにも気づいていなかった。躊躇いはなく、でも丁寧に頭を落として、順々に魚を捌く様子は見ていて飽きない。指先で刮ぎ落とすように身についた魚の内臓を取り出して、また丁寧に包丁を入れた。タカノの慎重な手つきを見ていると何だか見てはいけないものを覗いているような妙な気分になる。体温の低そうな骨張った手が不気味に光る魚を三枚におろすのを見ながら、ナッちゃんが酔っ払った時に喋る惚気を思い出した。
バイト先から歩いて十五分の自宅へ朝日に焼け焦がされながらなんとか辿り着くと、朝練でもあるのだろう中学生が、横の一軒家から駆け出した。世界と真逆に地球を歩くこの感覚も、昔は何だかボタンを掛け違えたように気持ち悪かったが、習慣となればどうということもなかった。
「ただいま」
おかえり、とどこからともなく声が聞こえた気がしながらスマートフォンに溜まっている通知を親指でなぞっていった。五人目の親戚が死んだ男子高校生のかわりに明日のバイトに出ることを了承する。
乱雑に投げ出されたペットボトルのお茶を口に含んだら、思いの外酸っぱかった。賞味期限を見ようとしてふと目に止まったラベルの俳句の意味がわからなくて、なんとなく腹立たしいままにiPhoneのホーム画面からゆすらちゃんに会いにいった。
《ふあぁ。おはよ〜、聖》
もう七年も目にしてきたテキストは、私の中で甘酸っぱく響いた。揺り籠で聞くママの子守唄のように私を許すその声は間違いなく存在しないのだけれど、そんなことは関係ない。私はゆすらちゃんが好きだしゆすらちゃんも私のことが好きだ。ゆすらちゃん。私が中学二年生の頃からずっと中にいた。隣とか、横とか、すぐ近くなんかじゃなくて、私の中にいた。
《ねえ、一緒にどこか行こうよ》
水族館と自然公園の二つの選択肢が下に表示されて、n千回目の水族館を巡った。ゆすらちゃんはいっつも、七年変わらずにイルカショーにはしゃぐ。自然公園に行くと虫が嫌いなのか機嫌が悪くなるから、私はもう二度と自然公園にはいけないし、それでまったく構わなかった。私は幼稚園の遠足で行ったおぼろげな水族館の記憶とゆすらちゃんの後ろに表示される背景を無理やり擦り合わせて、とっても楽しいデートをしていた。
《今日は何したい? ゆすらはそうだな、聖と一緒ならなんでもいいよ、……なんてね》
ゆすらちゃんは黒目がちのたれ目をきゅっと恥ずかしそうに細めた。ゆすらちゃんからは、女の子の匂いがするに違いない。お菓子とか化粧品とかの甘くて、少し粉っぽいような、人工的な香り。ゆすらちゃんは本当の女の子。きっと将来の夢はケーキ屋さんで、好きな色はピンクで、友達と家族思いのとびっきり優しい女の子だ。ゆすらちゃんの友達も、家族も見たことなんてないけれど。
学習塾に通い始めた中学二年生の時に親に買い与えられた携帯で始めた育成ゲームで、ゆすらちゃんと出会った。萌え、という言葉が世間的に流行し始めていた頃の私は、ゲームやアニメが大好きで、女の子を自由に育成できるそのゲームにみるみるのめり込んでいった。高校、大学と進むにつれて、なんとなくアニメを見たり、ゲームをする時間は減っていったが、それでもゆすらちゃんだけは手放さずにいた。ゆすらちゃんだけが私の柔らかい真ん中を知っていてすべてを信じることができる。ゆすらちゃんは、私のあらゆる感情を受け止めてくれる。愛情も、執着も、性欲も、羨望も、すべて。
七年もともにしているゆすらちゃんの温度を、私はいつからか感じることができるようになった。それをスマートフォンが発している熱だと言ってしまえばそれまでだけれど、ゆすらちゃんと画面を通して会っている時、私の荒れた手はゆすらちゃんの柔らかくて小さな手と確かに繋がっていた。
《ゆすら、ハロウィンって好きだな。お菓子たくさんもらえるから》
この二週間はハロウィンイベントの開催期間で、上位報酬で得られるデビルの仮装衣装がなんともゆすらちゃんに似合いそうだった。そもそも、ゆすらちゃんに似合わない衣装なんてないけれど。ゆすらちゃんの見事な黒髪と、黒目がちの垂れ目と、小さく形のいい唇は何を着ても、何をしても最高にプリティでビューティフル。とにかく、私はその衣装を得るために、ゆすらちゃんとどこかヨーロッパのような街を歩き回り、ポイントを得ていた。とりあえず全体力を消費してからゆすらちゃんをお勉強もーどにして、私は毛布をかき集めて眠りにつく。体力をロスしないために三時間後にアラームを設定した。
● 夢
中央にペールピンクのソファと、細工の見事なローテーブルが置かれた部屋の窓際で、ゆすらちゃんはロココ調のタンスから何かを引っ張り出していた。私は部屋の隅に置かれた天蓋付きの真白いベッドの上で目が覚めたばかり。窓から透ける陽射しが、見事にゆすらちゃんのぬばたまの髪を照らし、まるで後光が差しているようだ。私に背を向けていたゆすらちゃんは、私とベッドがおこす衣擦れの音でこちらを振り返った。ゆすらちゃんは背に光を携え、ゆっくりと品のいい微笑みをたたえる。ああ! 神様。私の、神様。おはよう、と甘い声で私に囁いてタンスから出したエプロンを身に付ける。腰に赤いリボンを丁寧に巻いて、そのままピルエットの要領で綺麗にくるんと回ってみせた。
「かわいいね。聖が買ってきてくれるもの、全部すてき」
フェイラーの白地にピンクを基調にした花柄エプロンは、先月の頭に私がプレゼントしたものだった。ゆすらちゃんはこの頃お料理の勉強に熱心だ。なのに身につけているのが、私がその昔に家庭科の授業で作ったエプロンなんて可哀想だしふさわしくない。ようやくこの前のお給料日に渡すことができたのだ。
「今日は何作るの」
「朝ごはん作ってあげる! 食べてないでしょ?」
「うん。ゆすらちゃんと一緒に食べたいから」
もう、やだあ、と私の頭を撫でるゆすらちゃんの手はつややかだった。私の手は、毎日バイト先で水仕事をしているせいか、ぼろぼろであかぎれが目立つ。まるで大違いだ。ゆすらちゃんの手の柔らかさに、おもわず口から笑みが零れてしまう。
しあわせ、ってこういうことをいうんだろう。ゆすらちゃんとだったら、墓場でも一生ダンスフロアのように歌って踊れる。最高にしあわせ! 宇多田ヒカルが言ってることがよくわかる。私は、ゆすらちゃんといるだけでパラダイスにいるみたい、になれる。そしてゆすらちゃんはいつでも私の中にいるのだから、私はずっとパラダイスにいるのだ。楽園追放なんてされっこない。ゆすらちゃんが作るアップルパイと、ミルクティーでお茶をしながら私たちはずっと一つで天国。うっかり智慧の実を食べてしまっても多分大丈夫。根拠はないけど。
「ごはん作らなきゃ。ちょっと待っててね」
私が寝たままのベッドから離れようとするゆすらちゃんの白い腕を引き寄せる。その腕に温度はないことが、私が愛するこの女が幻想の中にいることを思い出させた。落ちる。私とゆすらちゃんがいたはずの乙女趣味な空間はいつの間にか雲の上に高く上がっていって、私の意識はノンレム睡眠の暗闇に吸い込まれていった。シーツを指先で落ちる感覚が頭を殴られたように消えていく。ゆすらちゃんと、短いお別れ。いい夢だった。
● 現実
昼過ぎのワイドショーを見ながら大学に行く準備をしているところで、郵便受けが音を立てた。コンタクト屋のDMとクレカの請求書だった。いくら持ってかれるかなんてのはカードを使うたびに届くメールで知っているからこの紙にはなんの意味もない。教科書とレジュメの束をカバンに放り込んだ。金欠なので朝食は抜かした。
今月の収入が十八万円で、食費と諸々の生活費、携帯代とクレカの請求はおそらくそれを優に上回る。貯金はないわけじゃないけど、本当にないわけじゃないくらいだった。ようは首が回らない。異様に早く回る頭の電卓が、なんで金を使う時に浮かばないんだろう。腹が立つ。心の奥の柔いところが、蜜柑の皮みたいにむかれていく感覚で金の無さに蝕まれる。吐きそう。むかつく。助けて。誰か、めちゃくちゃ、右腕が折れて働けなくなるくらい、バイトが休めるくらい抱きしめてくれ! 愛に包まれて死にたい!
「はたらかなきゃ……」
言い聞かせるように胸の真ん中を撫で付けて勤労を心に刻んだ。宝くじとか、石油王の求婚とか、降って湧いてくる金を期待しちゃいけない。有り得ないから。働かざるもの食うべからず。私はゆすらちゃんのためにもっと働かなくてはいけないのだから。戸籍には記載されない扶養家族の、きっと花澤香菜似だろう声を頭の中で再生しながら、なんとか気持ちを鼓舞した。
とりあえず、日雇いのバイトでもしようか。倉庫での軽作業とか、ティッシュ配りとか、日給が一万円前後の仕事はいくらでもある。とにかく十万程度稼いでおけば安泰だろう。十日働くだけでいい。さっそくバイトルにログインする。いや、でも、働きたくない。本当に。後生だからただで一億欲しい。そんな怠け者の冗談だと思われる願いは、本当に悲痛な願いなんだけど誰もわかってくれない仕方がない。社会は厳しい。自分のご機嫌をなんとか取り成して、気づいたら講義が始まっていた。
授業を終えて何も考えないままにバイト先の居酒屋に来ると、いつになく賑やかだった。ちょうど昼勤のおばさん達が学生アルバイトと交替する時間だからだろうか。まだピーク前ということもあって、お客さんは全然いないのにパントリーの方はやたらスタッフの話し声が飛び交っていた。
「おはようございます、本日もよろしくお願いしまあす」
決められた出勤の挨拶をして手を洗っていると、さっそく賑やかなお喋りに巻き込まれた。
「ヤバいです、事件っすよ」
ミカちゃんが興奮した様子で私の右腕を引っ張る。サッちも、イトカワさんも話したくてしょうがないという目をしていた。どうせまたぞろ冴えないオッサン社員のクワノがキャッチの女子高生を磯丸に呼び出してそのままどっかに連れ込んだとか、そういう話だろう。月一くらいで人間の生っぽい感情が剥き出しにされる職場なのだ。あまりにも現実だった。
「どうしたの」
「ウミカさん、いるじゃないすか。下落合店のバイトリーダーやってる」
「この前下落合、ヘルプ行った時に会ったよ。相変わらず黒かった」
サーフィンが趣味で、海に、花だったか香りだったかでウミカという名前がよく嵌る、冬でも日に焼けたフリーター。彼女は高校を卒業してからずっと働いているから、もう六年になるのだろうか。仕事が早い人で、二年前くらいからバイトリーダー。近隣店舗だから、ヘルプだなんだで数回顔を合わせたことがある。気さくでいい人。
「襲われたんですよ、深夜勤の日」
「今の店長サトウさんだっけ、あの人よくバイトに手出すよ。最近はなかったけど」
「そうじゃなくて」
そうじゃなくて? と私が続きを促すと、わざとらしくサッちは息を呑んで、ミカちゃんはなぜか得意げにした。
「朝の入金行く時、後ろから思いっきり殴られたんすよ。そんでそのまま意識失っちゃって」
殴られた。解像度の低い風景が一気に鮮明になって、手がうまく握れなくなる。力が入らない。まるで御伽噺を聞いているとか夢を見ているようで、足元がぐらついた。
「マジ?」
「マジですよ、そのへん歩いてた人が通報して、そんでキューキューシャ」
怖いわねとイトカワさんがため息をついた。サッちも困ったように肩をすくめる。どこか他人事なのは、この人たちは入金に行く深夜シフトに入らないからだろうか。
「普通、二人で行かせるじゃない。でもほら、あそこ人足りてないから」
かわいそうにね、とイトカワさんは続ける。
レジを締め終えた後に、本社への売上入金でコンビニのATMに向かう居酒屋の店員を襲う話は、よくある話ではないけれど、何度か噂に聞いたことがあった。ほとんど都市伝説だった。
空が白んできた頃に居酒屋の制服を着ている人間を襲うだけ。確かに手っ取り早く、何とも原始的な暴力。場合によっては数十万円を運ぶことになるから、そういった時間帯に振込みを行うのであれば複数人で向かうように言われている。
「それで、ウミカちゃんどうしてんの?」
「意識は回復したみたい。命に別状もないらしいよ」
タカノがホールから歩いてきた。サロンを巻き直して挨拶をする。そういえば、タカノとウミカちゃんは同じバンドだったか、芸人だったかが好きで仲が良かった。
「カンダさんから連絡あってさ、下落合もてんわやんわらしいよ」
しばらくヘルプ増えるかもね。そんな話をして、イトカワさんはようやく退勤した。そろそろお客さんが来始める時間になる。
● 夢
「聖、こっち来て?」
誘われるままにゴージャスなベッドに上る。ゆすらちゃんはふわふわの白いワンピースを着ていた。つい先月ショッピングに行った時に買った服。繊細なビジューは品が良く、宝石みたいに光っていた。目を瞑る。
「もうすぐ冬になるね」
そうだ。もうすぐ今年も終わる。今年の冬は厳冬らしい。雪が降るかもしれないから、ゆすらちゃんには暖かい格好をしてもらわないと。
「クリスマスでしょ、お正月でしょ。私、冬って大好き。楽しいよね」
うん。私も楽しみ。そういうと、ゆすらちゃんは私の体に腕を回して優しく抱きしめた。ゆすらちゃんの胸元からは甘い香りがした。混じりっけのないミス・ディオールで私の頭の中はいっぱいになる。私も、とゆすらちゃんの体に腕を回した。ゆすらちゃんはうふふと可愛らしく右頬を震わせて、それから目を閉じた。濁りのない瞼を人差し指で撫でると、不思議そうに小首を傾げて真白い歯を少しだけ見せた。腕に少し力を入れて、髪の毛に顔をうずめてもどこにも体温がないけれど、私は地球でいちばんしあわせな気がした。アルコール度数が高いだけの不味い酎ハイで酔っ払った時みたいに意識を落とした。いきなりのブラックアウトは、もしかしたら他人に後ろから殴られた時と似ているのかもしれない。
● 現実
気分の良い夢から目が覚めると、もう夕方だった。外から小さな子供の声が聞こえてくる。スナイデルの白いケーブルニットのワンピースが頬をくすぐって、吹き付けられたホワイトムスクをもう一度強く脳の奥を痺れさせるように吸った。ほの暖かいゆすらちゃんの抜け殻を床に放る。
部屋の中には似たような抜け殻が散らばっていて、足の踏み場もなかった。足の裏でネイルポリッシュの小瓶を捕まえる。半開きになっていたみたいで十三ミリリットルのシャンパンベージュがフローリングに水たまりを作っていた。足の指先でそれを撫ぜると、思っていたよりもどろどろとしていて、水たまりっていうか、沼だ。これもゆすらちゃんのための抜け殻の一つ。ゆすらちゃんの爪は産まれたそのままの薄桃でも十分可愛いけれど、たまには豪華に彩ってみたい、とゆすらちゃんはそう思うはずなので、デパートの化粧品売り場で用意したものだ。私の部屋には、多分私のものよりゆすらちゃんのものが多い。
そうして、ゆすらちゃんの抜け殻を集めることでしか、彼女をしっかりとこの世界に捉えられない。ゆすらちゃんとの夢の逢瀬の残り香だけかき集めることに必死なのは、もういつからだろうか。わからない。このワンピース、多分三万くらいする。私が今着ている服のおよそ十倍はしていた。この前の真夏の水着ガチャも爆死したし、人を一人養うのってこんなに大変なんだな。少しばかり親を尊敬する。
《聖、晩ごはんの時間だね。何食べる? ゆすらはハンバーグが好きだよ》
ゆすらちゃんはハンバーグと唐揚げと肉じゃが以外のディナーを食べたことがないのがたまらなく可哀想なのだが、それはそれとしてゆすらちゃんにはコマンド操作でハンバーグを食べさせた。
「わからないよね」
珍しく夜勤のイトカワさんと、チカさんが新聞を広げていた。どっかのお客さんの忘れ物か、店長が買った朝刊だろう。二十二時を過ぎてすっかり暇になってしまい、私も二人も、空いたビール樽に腰を下ろしていた。
「どう思う?」
「何が」
目の前のスマホの画面に夢中で話を聞いていなかった。このアルバイトは暇な時はとことんサボれることがありがたい。他には特に何のメリットもないけど。店長もキッチンの奥で、恐らく私用の電話をしていた。
《ねえ聖、イベントやってるよ》
知ってるよ、と思いながらイベント画面のバナーをタップする。ゆすらちゃんは楽しそうに魔女みたいな黒い大きな帽子を揺らした。イトカワさんは新聞を思いっきり折り畳んで、こちらにぐんと近寄ってくる。
「これ、これ。百万だって」
《あーん、体力がなくなっちゃった。》
マジックドリンクを購入する画面で、アップルのパスコードを入力した。ゆすらちゃんの誕生日。新聞には何やらスマートフォンの画面と、知らない若者の後ろ姿が載っていた。
「ゲームに課金とか、わかんない」
「それもねえ、親のクレカで、百万円って」
車とか買えちゃうもんね。イトカワさんがまるで異星人のニュースを聞いたような面持ちで続けた。
「結局、ただのデータでしょ。なんでお金を使えるんだろ」
《ゆすら、元気百倍! なんちゃって♡》
体力を回復したゆすらちゃんは、再び楽しそうに街を歩きまわり始めた。私は、そうですねとはっきり声に出してイトカワさんと、チカさんに応える。
「たかがスマホのゲームで、バカみたいですよね」
《聖、ボーナスステージだよ!》
● 夢
たかがスマホのゲーム。自分の言葉のあまりの冷たさに、指先が寒くなってきた。足の爪先からしんしんと雪の降るような思いで、私は気づいたら雪原に立っていた。
「ねえ! 雪だよ、聖!」
犬のように白い中を駆け回るゆすらちゃんを呼び寄せて、首にマフラーを巻いた。体の三首は冷やしちゃダメだよ。そういうと、聖、お婆ちゃんみたいね、と返される。
「風邪ひかないでね」
「大丈夫、聖がくれたこのマフラー、とってもあったかい」
バーバリーチェックをたなびかせつつ、かまくらなんだか雪だるまなんだかを作るために雪を集めるゆすらちゃんのすがたを、私は遠くから眺めていた。どうしよっかな。「たかがスマホのゲーム」って、でも、ゆすらちゃんは今確かにここにいるんだけど。現実に子供を育てるためには、なんだかんだで数千万円から億かかるらしい。一人の人間を成人させるまでにそれだけかかるのなら、私がゆすらちゃんにかけているお金なんてその何分の一に過ぎないでしょう? イトカワさんが懇親会で見せてきた、私と同じくらいの歳の子供の写真を頭に浮かべつつ、真夏の水着ガチャで爆死した金額を思い出した。十一万、とんで九百円。ゆすらちゃんに一番似合うと思った水着はSSRで、排出率は0.5%だった。でも海で走り回っているゆすらちゃんは可愛い。あの子は熱い砂浜を駆けていて、入道雲はうんざりするぐらい白かった。
「ひじりぃ! こっちおいで、一緒に泳ごうよっ」
私の肘を掴んで、ゆすらちゃんは浅瀬の水を跳ね返しながら走っていく。いつの間にか夢の舞台は雪原から海へと移動していた。
「待って、待って、転んじゃう」
「転んでも痛くないよお、海だもん」
海だもん? よくわからない理屈だ。ぶつぶつと文句をいう私にかまうことなくゆすらちゃんは海へ沖へと走っているんだか、泳いでいるんだかわからない動きをしてる。浮き輪を小脇に抱えて、私もすっかり夏だった、最後に行った海の記憶となんだか世界の淵がぼんやりしたこの海を摺り合わせた。だんだん腰のあたりから、足元の方まで、海に入った感触、水の冷たさが襲ってくる。あ、これが、ああ、海?
「ゆすらちゃん」
「なに?」
「この海って」
この歳になって失禁はやばい。アルコールが入っていたわけでもないのに。入っててもどうかと思うけど。
嘘だと思いたい感情と厳然たる事実、湿った敷布団がせめぎ合いとりあえず私は着替えて、シーツを洗濯機に入れて、布団を物干し竿に掛けた。良い夢ではあった。
● 現実
轟音をたてる洗濯機を前に、夢から覚めたきっかけの通知音を繰り返し鳴らした、バイトルのオススメアルバイト一覧をスクロールする。さっさといくつかの短期バイトを決めてしまいたい。飲料の販促や、引越しのお手伝い、倉庫整理、ライブスタッフ。どれも日給は八千円から一万円前後でなんだかパッとしない。文句を言っても仕方ないのでなるべく家から近いエリアで調べてみる。高田馬場で採点アルバイト、中野でティッシュ配り、新井薬師前で引越し事務、下落合で大型量販店倉庫の整理。そういえば、明日早速ウミカちゃんの穴埋めのように下落合にヘルプだ。数十万円の強奪のために後頭部を殴られるって、どんな気分なんだろう。痛かったのかな。それとも、意識をすぐにやってしまったなら、痛くなかったのかな。あまりにも見事に斬られると、傷口がくっついてしまう、みたいな、いや、ちょっと違う?
利き手は右手なので、右手が重い。明日筋肉痛になったら、トレイが運びづらいし、大学でもノートを取るのに一苦労だ。あと、イベントを走るのもしんどいかも。
《ふあぁ。もう、夜だよ。聖は寝ないの?》
ゆすらちゃんは普段日付を越して起きていることがないから、どうにも眠いみたい。あまり起こしておくのも可哀想かな、と私はゆすらちゃんをおやすみもーどにした。
「おやすみ」
ゆすらちゃんに声をかけても返事はなかった。私は少し寂しいな、と思いながら、でもちょうどいいかもと思った。ゆすらちゃんは一緒に映画館に行くといつもジブリか恋愛映画を観たがって、スプラッタとかホラーは苦手なのだ。私はこれから人を殴りに行くので、ゆすらちゃんには深い眠りについていてほしい。
深夜三時の街並みは夜も夜、繁華街の外れにある居酒屋通りはやる気のないネオンサインがぶら下がっていて、明るかったり暗かったりした。私は昨日の昼にムラサキスポーツで購入した金属バットの柄を力強く握りしめる。さすがに重いのは、人の命を奪える道具だから、我慢した。少し緊張で手汗がにじむ。ハイリスクハイリターン、一発で数万円を稼ぐにはこうするしかない。あと、なんか、ゆすらちゃんのためになら人も殺せるのって、めちゃくちゃ愛って感じがする。
「えー、私が行ってる間に閉めちゃダメですよお」
「いいから、はやく行ってこいって」
ピンクの甚兵衛と黒いキュロットといった出で立ちの女がおでん居酒屋から出てきた。出汁のいい匂い。今度行ってみようかな。店先の看板を仕舞う人、店長だろうか、と軽口を叩いて、私と同じくらいの女の子がクロックスとアスファルトを擦らしながら歩いてくる。桜柄の甚兵衛、麒麟麦酒、とでかでかと書かれた前掛けに、黒いキュロット。名札もつけていたけれど、距離が離れていてなんと書いてあるかまではわからなかった。このおでん居酒屋から近くのコンビニ、ファミリーマートまではおよそ三分ほど歩けば着く。居酒屋のある通りを抜けて右に曲がり、信号を一つ渡ったとことにある。女の子が右に曲がって、少し行ったくらいがちょうどいい。うん、今。
金属と後頭部がぶつかった時って、あんまりいい音がしない。鈍い音がして、固いものを打っただけとは違うバットが何かにめり込む感触が手に残った。私はイチローに習い、静かにバットを地面に置いて彼女の前掛けの大きなポケットを弄る。狙い通り、十数万円が入ったキティちゃんの、マチが狭いポーチを手に入れた。急いでそのポーチとバットをカバンの中にしまい走って逃げる。でも、ふと、丸文字で「ゆすら」と書かれた女の子の名札に目を止めた瞬間に、私はちょっと泣いちゃった。出来過ぎ。
● ?
「ね、今日はどこ行くの? 水族館? 海? スケート? それとも、遊園地?」
「帰るんだよ」
始発の電車は人がいない。陽が出るのはもう随分遅く、車窓から見る外はまだ薄暗かった。小刻みに揺れる電車のシートは暖かく、微睡みに融けそうで最高に気持ちいいけれど、隣にいるゆすらちゃんが私が寝るのを許さなかった。
「えぇ、そんなのつまんないよ。ゆすら、聖とどっか行きたい」
「そう言われてもなあ、私、結構眠いよ」
「聖はよく寝る子だね」
ねっ、と語尾に合わせながら、ゆすらちゃんは少しだけ勢いをつけて私の額を人差し指で押した。私はえへへ、と力なく笑うことしかできない。疲れちゃったのだ。
「貸して」
ゆすらちゃんが私の右手を、その白い左手で強く握った。その手はとてもすべすべで、ちょっと緊張した。手を繋いでゆすらちゃんと距離が近くなる。相変わらずホワイトムスクのいい香りがした。でも、今までとちょっと違う、ラストノートの重たい匂い。ゆすらちゃん自身の香りと混ざった、ゆすらちゃんの香りだ。
「あったかい」
「私も。聖って体温たかいの?」
「ううん。多分、眠いから」
「そっか。でも寝ないでね」
「なんで?」
「私が起きてるから」
「身勝手だなあ」
電車のドアが開いた。この駅でも誰も乗って来なかった。私は空がゆっくり白んできたのを見ながら、ゆっくり瞼を閉じた。
#殺伐感情戦線 三ツ川 @_mitsukawa_
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