何にもならない お題:笑顔

 友人の、恋人の、妻。つまり他人が、私の前でクリームソーダを飲み終わったグラスから取ったストローを虚空にむかって吹いていた。品のない行為だと思ったが、やはり他人であるので、なにも言わずに見つめていた。私はようやく、猫舌にもやさしい温度になったホットコーヒーに手を付けはじめたところだった。

「三井さん、わたしお腹空いたかも」私の名前を呼びながら、しかしこちらの目は見ずに黒い喫茶店のメニューを開いた。ホットケーキとツナサンドを交互に指さして、『どちらにしようかな』をちいさく唄った。「ここ奢り?」

「……経費で落とします」

 じゃあホットケーキにする、とより二百円高いそれを店員に注文した。店員は、当店のホットケーキは分厚いため、お時間いただきますと言った。彼女はそれにはいはーい、と気安い返事をして、おまけに手まで振ってみせる。

 島尾りか子、二十六歳、静岡県の短期女子大出身、職歴なし、専業主婦。旧姓は佐原。私は彼女について、それだけのことを知っている。あと、どうやら甘党らしいことは今分かった。

「三井さんっていくつ?」

「三十。それで、今回のことなんですけれど、あまり大ごとにしたくないというのが旦那さんのご意思のようで」

「へえー、見えない。でも、大人っぽいよね。どこ出身?」

「東京。私を間に入れて解決したいとのことですが、島尾さんはいいんですか。私、一応中上――旦那さんの不倫相手の友人なんですけれど」

「あー、ぽいね。女の人で弁護士さんだもんね。かっこいいね。結婚してるの?」

「してません。離婚、しますか?」

 島尾さんはそうねえとようやくこちらの話が頭に入ったようだった。ツナサンドとホットケーキのどちらを注文するかを悩むみたいに上半身をゆらゆらさせている。

 友人の中上美恵は、学生時代から、付き合うなら年上と決めている女だった。恋人の年齢なんか個人の好きにしてくれればいいが、中上姓に、美恵なんて名前つけた親が悪い、どうせ発狂するに決まっているんだからという文学ジョークと共に倫理を捨てて既婚者とすら構わず寝始めたのは始末におえない。確かに彼女は和歌山県の生まれなうえに、弟を持つ姉だから、そうも言いたくなるのかもしれないけれど。一応、異母弟ではない。

 今までの彼女の不倫は平穏無事に終息していたが、今回ばかりは相手方の妻、つまり目の前の女がそうは簡単に終わらせまいとしているらしいというのが、事前の中上からの話だった。さて初の顔合わせにはどれほど怒り狂った女が出てくるかと思ったが、島尾さんは怒っている様子もなく、さらにはゴミ捨てにでも出てきたようなボロのスウェットで待ち合わせ場所の、この喫茶店にやってきた。

すっぴんにカラコンを入れた顔は幼く、学生と言われても信じるくらいだ。おまけに島尾さんの髪は傷んだ明るい茶髪で、パンツスーツの私と並ぶとまるで補導された女子高生にも見えた。でも、やはり顔を間近で見るとそこには二十六歳の蓄積がある。脂肪が落ちて余白のないこけた頬は大人のそれだった。

「離婚はしたくないかも」島尾さんが空のグラスを見ながら言う。離婚の選択肢はツナサンド側に追いやられたようだった。「わたし、なーんにもないし」

「なんも、とは」

「権利。いや、未来?」

 その二つはまったく違う概念で、取り違えるようなものには思えなかったが、彼女にとっては同じ引き出しに入っているようだった。学生時代、私の部屋へ遊びに来た中上に、私の洋服棚の整理整頓ぶりをカリスマ主婦みたいだと笑われたことがあった。

 私には、靴下とパンツを同じ引き出しに入れる心のありようの方が理解できなかったが、それを言うと両方とも小さいからいいんだよと中上が言ったのをよく覚えている。普通の服、例えばトレーナーやスカートが1だとしたら、パンツと靴下は小さいからそれぞれ0.5なの。中上がやたらと神妙な顔でそう言うので、私も一度だけそれらを一緒にしてみたことがあったが、洗濯したものとはいえやはり中に着るものと、よく汗をかく足裏を覆うものをいっしょくたにするのは嫌だった。後日、中上にそう告げたら、変な顔をされたのがいやに落ち着かなかった、よくわからない記憶がよみがえってくる。

「離婚する権利、ありますよ。なんたって、不倫されている側なわけですし」

「それはそうだろうけど、そうじゃなくって。別れても仕方ないもん」

 仕方ないというのは、と聞こうとしてやめた。専業主婦の彼女が、離婚した後にあげなければならない腰は相当重い。ましてや若く結婚し、職歴のない彼女からしたら今更飛び込む社会生活はひどく荒れた海に似ているだろう。それに、旦那も大ごとにしたくないと言っているのだ。ちょうどいいではないか。

「ええと、では、どうしましょうか。不問に付すということで?」

「ふもんにふすって何? あ、三井さん、もう二十一時だけど」スマホの時刻を見せつけてくる。待ち受け画面は四年前に亡くなったロックスターだった。「いつもこんな時間まで残業してるの?」

「ええっと」

 答えあぐねる。この案件は、言ってしまえば仕事ではない。所属の法律事務所は通されていないし、中上が泣きついてきたのを、結局断れずに間に立っているだけだ。弁護士としての職務をしているわけでもなかった。

「まあ、結局、人相手の商売ですから。そういうこともありますね」

「そういうもんなんだ。ほら、わたし、働いたことないからさ」島尾さんは通りかかったウェイトレスに目をやった。ホットケーキがまだか気になっているのかもしれない。私も、早くやってきてほしいと思った。しかし、時間がかかると言っていた。分厚いから。「アルバイトだけ、大学生の時にしたくらい。ケーキ屋さんで、って、知ってるか」

「え、いや、知りません」

 なんで知っていると思ったんだろう、と疑問に思っていると、すぐに答えに行きついた。島尾さんの旦那はチェーン洋菓子店の経営本社で働いている。そこで出会い、彼女は大学卒業と同時に結婚したのだ。島尾さんがアルバイトをしている時は、まだ現場に出ていて、店舗のオーナーを務めていたとも中上から聞いていたことを思い出した。あまりにもいらない情報だったので忘れていた。ついでに、中上の今の仕事は広告代理店で、島尾さんの旦那は取引先というあまりにもベタな出会いらしかった。

「大学入ってバイト探してた時に、幼稚園のころ、将来の夢に『ケーキ屋さん』って書いてたのを思い出して、バイトルで近所のケーキ屋を探してすぐに応募したの。まあ、普通の販売バイトと変わらなくて、将来の夢、こんなもんかーと思った。

でも、成人の誕生日の日に夫が付き合ってくれって言ってきたの。わたし、ああ、将来の夢って『これ』か、って思ったな。ケーキ屋さん、の妻だったんだあって」

 分厚いホットケーキはいまだやってこない。私の手元のコーヒーはすっかり冷めきっていた。島尾さんの目はカラコンで大きなヘーゼル色で、見つめられると少したじろいでしまう。

「みんなに内緒でオーナーと付き合うと、いいことがあるの。ケーキとかたくさん食べられるのね。ズルできるの。普段は販売バイトが入れないキッチンにも入れて、出来立ての試作品を食べて、めちゃくちゃなこと言ったりできるの」

 きっと島尾さんにはそれがたいそう楽しかったのだろうが、そんな過去を聞かされても、私はどうすればいいか分からず、自分の幼稚園の頃の将来の夢はなんだったかを思い出そうとしていた。『ケーキ屋さん』や『アイドル』が人気だったことは覚えているけれど、自分が何を目指していたのかはまったく浮かび上がってこなかった。弁護士ではなかったように思う。

 中上は、大学のコンパで、初めて出会ったその日に「わたし昔将来の夢にウルトラマンって書いたら、女には無理って男子にバカにされて、むかついて喧嘩になったことがある」とその時から消えないのだと蟀谷の傷を、髪を掻き上げてにやりと笑い見せてきた。悪戯小僧みたいな笑顔は昨日のことのように頭に浮かぶ。私は、風に吹かれたりしてたまにのぞくその傷を盗み見るのが好きだった。出会ったその日、傷を見せられたその時から、かれこれ十年、ずっと年上男しか好きになれない中上のことが好きだった。このことは、誰にも言ったことがなかった。

「だから、そういうのずっと続くのかなあって、就活もせずに結婚しちゃったんだよね」島尾さんが甘美な思い出から帰還して、二十六歳の顔でそう言った。お冷を飲み干す。「わたし、昔からバカで、なんにも持ってなかったから、そういうみんなができないことができる日が来るなんて思わなかったんだよ」

「お待たせいたしました。当店特製ホットケーキです。蜂蜜をかけてお召し上がりください」

 食い気味で、ウェイトレスが分厚いホットケーキが二枚乗った皿とフォーク&ナイフ、蜂蜜の入った小さな陶器の入れ物を置いていく。島尾さんが驚いた顔で皿を凝視する。

「すごい。こんなにボリュームあるの?」

「特製の金型で焼いております」

「へえ。あ、とりわけ用の皿と、この人の分のフォークとナイフもください」

 島尾さんはそう言って、私にもホットケーキを分担することを求めてきた。こんな時間にこんなものを食べたら、夕飯はどうするんだと思ったが、もう今更だった。ウェイトレスがすぐに皿とフォーク&ナイフが丁寧に私の元へと配膳した。

「三井さん、あんまり甘いものとか食べなさそうだね」

「その通りですね」

 私は、しかしこうなったらとことん、と蜂蜜をたっぷり回しかけた。黄金色のそれがホットケーキの表面をゆったりとながれていく。メープルシロップではなく蜂蜜なのは、店のこだわりであると店内のポスターに書いてあった。私はこの喫茶店自体は、似たような客や打ち合わせに頻繁に使用していたが、だれもホットケーキを頼んだことはなかった。大の大人はまじめな話をしながら甘いものを食べようとはしないのだ。

「残り、蜂蜜全部使っていい?」

 聞いてくる島尾さんに、どうぞ、と首肯すると嬉しそうに陶製のそれを手に取った。甘いものが余程好きらしかった。

「三井さん、知ってる?」島尾さんが、またこちらを見ずに、手元の蜂蜜の入れ物とホットケーキをじっと見つめて切り出す。「ミツバチが一生かけて集められる蜂蜜は、スプーン一杯なんだって」

「へえ」

 豆知識に、思わず感心してうなずいた。じゃあ、私達がいまたっぷりかけた蜂蜜はミツバチが何匹いれば集められるのだろうと想像したら、途方もなさそうだった。

「だからさ、わたし離婚できないよ」話が急に戻ったように思えた。島尾さんは手を止めずにホットケーキを食べ進めていく。「なんにも持ってないから、せめて誰かといて、それでようやく人間になれるんだ、わたしみたいなのは」

 甘いそれが口内でずしりと重たい。何匹ものスプーン一杯がしみ込んだ生地はしっとりと柔らかいのに、それを噛んだらいいのか、飲み込んだらいいのか分からなくなってしまう。

「わたし、もうそういう人生にするって決めたの。誰かのセットでいるために、あとは全部捨てるの」

 島尾さんの諦めの告白に、私はなんて返せばいいのか、うまい言葉が出てこなかった。落ち着かない。靴下とパンツは別の引き出しに入れてもいいもののはずなのに、一緒にしなくてはいけないと言われた時みたいに。

「私は」口の中のホットケーキを無理やり飲み込んで、言葉を紡ごうとした。「私は、もう十年以上片恋している相手がいます」

「……純情だね」

 島尾さんは、それまで事務的だった私の突然の告白に驚いたようだった。口内に残るホットケーキの甘さを濯ぐように、冷めきったコーヒーを飲んだ。甘すぎるものを食べた後だからか、普段飲んでいるそれなのにやたら苦かった。

「その人は私のことを友人だと思っています。でも、その人は友情より恋愛が好きで、つまり、恋愛をより重要なセットだと思っているみたいなんです。で、私とは絶対に恋愛してくれないんです。だから、私は、たぶん誰ともセットになれないんです」他の人とは、と島尾さんは言わない。そう言われたら、きっと私は今すぐにでもお冷をぶちまけていた。「ミツバチが一生かけてスプーン一杯の蜂蜜を集めるなら、私は、一生かけて何をスプーン一杯集めたらいいんでしょう?」

 私の突然の相談に、島尾さんははじめてフォークとナイフを握る手を止めて、こちらを見た。なんていえばいいのか、まったく困っているみたいだった。

「……ナメクジって、塩じゃなくて、砂糖でも縮むんだって」

 島尾さんはそう言って店員さんにお冷のお代わりを頼んだ。私は今、ミツバチのそれみたいな、虫の雑学が聞きたかったわけじゃない。でも、彼女の気遣いではあると思ったのでコーヒーに砂糖を一杯入れて、飲みほした。縮んで、縮んで、もう誰にも見つからない、0.1くらいになってしまえば、もう誰かとセットになろうかなんて考えなくてすむかもしれない。けれど、私は縮んだりすることはできないただの人であることを思い出して、ただ空いたコーヒーカップを眺めるだけだった。

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