#殺伐感情戦線

三ツ川

(無)責任 お題:責任

美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。(坂口安吾『日本文化私観』)


 もう中身が見えている嘘を吐き続けるのは、単に隠蔽し続けるための沈黙の日々よりもっと息苦しい。だから、すべてが暴かれてしまった今、私はいっそ清々しさすら感じていた。目の前に座る上司二人は重たい目でこちらを睨みつけているが、私は今日の夕飯をオムライスにするか空芯菜炒めにするかを考えていた。どちらでもいいし、なんなら両方にしてもいいのかもしれない。大人になった今、私にはそういう自由があった。

「佐古さん。今回の件が社内にも知れ渡っていることは、すでに知っていると思うんだけれど」直属の上司である清田さんが口を開いた。横に座る役員は腕を組んで、ここにいるのにかかわりたくないみたいな態度だった。はい、とひとつ返事をする。「正直、その、みんな困惑しているんだよね」

 みんなが知っていることというのは、私がつい最近、任意出頭を要請されたことであった。そして、示談交渉により無事に解決されたことでもあった。どこからか示談交渉の具体的な金額すらも漏れ出ていた。誰から聞いたんだろう? ちょうど今日の昼休み、給湯室でその金額が自由に出来たならどうするかという話題で後輩たちは盛り上がって、最終的にはヴラジオストクへ行きたいという皆原さんの案に誰もが興味を示して昼休みが終わっていた。私の知っている困惑よりは、もっと歓喜に満ちたものに見えた。

「社内だけなら、まだいいんだけど。なんかねえ、どこからなのかなあ、取引先にも伝わってるみたいで。佐古さんがメインでついてたところも、いくつかね」清田さんがもごもごと気まずそうに話を進める。ヴラジオストクって、どういうところなんだろう。海外旅行なんて、数えるほどしかしていない私からすれば、皆原さんの出した旅行先は新鮮で魅力的だった。ヴラジオストク。言いなれないうちは噛みそうだった。「皆さん、いい人たちだから。取引をやめるとはね、言わなかったけど、でも佐古さんがこれからも付き続けるのは、ちょっとなって」

「それ、私に担当外れてほしいってことですよね」私が急に口を開いてはっきり喋ったのに、清田さんは気圧されたようにそのまま頷いた。子どもみたいだ。「じゃあ、しばらく暇になりそうなんで、有給もらいますね」

「は!?」清田さんと、それから名前を覚えてない役員も驚いて椅子から立ち上がった。「佐古さんには仙台支社に出向してもらおうと――」

「申請書、もう出してあるので、清田さんのデスクに。よろしくお願いしますね」

 私は急いでミーティングルームを抜け出て、デスクの荷物を回収した。まだ有給自体は残っていたはずだ。勾留されていたらこうはいかなかった。弁護士の友人がいて助かった。三井とは大学時代の同期で、彼女が私の指定教科書を古本屋で売り飛ばした借りを返してもらい、今回は示談で済んだのだった。



「平成ってなんだったと思う?」

 佳能子はペットボトルを片手に、上滑りした意味のないことを言った。そういう女の子だった。私が誤魔化すように笑うと、不機嫌になったり、むしろ喜んだり、反応が分からないのは縁日のくじ引きみたいだった。大概はずれるということまで含めて。

「うーん」平成とはいかなる時代であったか、という問いは、私にとって改元してから向こう引っ切り無しに出版される新書のテーマの一つでしかなかった。「たかが時間の区切りじゃない? いや、学者先生からしたら色々意味があるのかもしんないけど。私みたいな、ただの生活者からしたらさあ、意味なんてないよ」

「本当に?」

 佳能子は疑うようにせせら嗤った。人を小馬鹿にして、それでも追いかけていきたいと思わせるように振る舞う才能がある。ひと昔前によく見たファムファタル。そうした彼女らの物語は、得てして内実としての肉を暴かれた不幸に収束するが、佳能子はそうなってしまうにはあまりにも生きている現実に自覚的で、不幸に溺れてしまうほどの酩酊に欠けていた。あるのは空虚な生活だけだった。

 彼女が生きる現実というのは、詰まる所、退屈で貧しい日々だった。叔母と弟と三人で暮らす経堂のアパートの一室と、電車で二駅の、同じクラスの友達がグループ決めに困らない程度にいる高校とアルバイト先の飲食店を巡るだけ。そういう日々の隙間にあるのが、彼女の下着売り子アカウントだった。『売り子始めました。PayPay先払いかメルカリでお願いします。世田谷区、杉並区なら手渡し可能 #下着売ります #jk #下着売り子』。簡潔な文に添えられた、スタンプで隠された顔写真。西荻窪に住む私は迷いなくDMを送り、ドトールで待ち合わせた。やってきた私の顔を見た佳能子は「女の客もいるんだ」と一言つぶやいて、サラミサンドを頬張った。タワーレコードの袋に入れられたそれを受け取り、帰ろうとする私に震える声で「ほべついちご」と言うので、私はコンビニで現金を降ろし、近くのラブホテルへ向かった。これが馴れ初めだったし、この繰り返しが私を任意出頭へと向かわせた。

「時間の区切りに意味がないって、そういうんだったら、じゃあ特別に未成年の女なんて買わないでしょ?」

「時間の区切りって、だって、そういうことじゃないじゃん」

「どういうこと?」佳能子は目を見開いた。答えあぐねる私に、彼女は重ねる。「子どもが好きなんじゃないの?」

 よくわからない。でも、だからって元号と人の状態を一緒くたにするのは違うんじゃないのかと思ったが、それをうまく説明できる気もしなかったし、しても理解してくれないだろうと思った。それに、私は佳能子のそういうところが好きだった。でも、女子高生でない佳能子を愛せるのかというと、それもまたよく分からなかった。

「ま、いいよ。私海外初めてだからさ、色々よろしくね。パスポート取るの面倒だったんだから」

「うーん。言葉通じるのかな」

「は? ロシア語喋れるんじゃないの?」

「喋れるわけないじゃん。何言ってんの」

「大人なのに!? じゃあなんで!? 韓国がいいって私言ったじゃん!」

「大人が全員ロシア語喋れるわけないでしょ。子どもだなあ」

「私の金なんだけど」

「示談金でしょ。元は私の金じゃん」

「示談金なら私の金だよ!」正確には保護者である彼女の叔母が管理するはずだったが、「お前の稼いだ金だから」と叔母が何割かを佳能子に手渡した金だった。とんでもなく倫理観に欠けた叔母だと思ったし、だからこそ成立した示談でもあった。佳能子は吐き出すように言う。「信頼した私が馬鹿だった」

「そりゃそうでしょ。女子高生買うような人間信頼しないでよ」

「……死ね」

 間も無く日本から一番近いヨーロッパへと向かう飛行機が離陸する。佳能子は大きく舌打ちして、それから映画を観ようとヘッドホンを取り出した。私は、小学校六年生の通知表に「学級委員としての責任感に欠ける」と書かれたことを思い出して、だってじゃんけんで決めたことじゃないかと一人笑った。佳能子はまたひとつ、舌打ちした。

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