ミディアンの葬送

下村アンダーソン

ミディアンの葬送

 お前は私に何も教えはしなかった――血の甘美さ以外は何も。


 お前が笑うのは決まって、血を目の当たりにしたときだった。爪を立てた肌に僅かばかり、宝玉のように滲むでも、あるいは切り裂いた首から派手に噴き上げるでも、何であれあの赤い液体は、お前を満足させた。人間の悲鳴や、罵倒や、祈りを耳にしながら、さも嬉しげに咽を鳴らすのが、お前の癖だった。飢えも渇きも、お前の欲望はすべて、血によって満たされた。

 初めて会ったとき、お前がそうした生き物だとは、私は知りもしなかった。

 お前はあたかも人間のように振る舞っていた。ひと戦終えてなお獣欲を滾らせた兵士たちに囲まれ、今まさに組み敷かれようとしている私の前に飛び出してきたのが、若い女の姿をしたお前だった。

 待ってください、待ってください、と懇願しながら、お前は涙まで流してみせた。こんなに小さな子なんですよ。あなたたちは獣ですか? 人の心がないのですか? そう声を張り上げたお前を、幼い私は天使のようにも思ったものだ――今となってはお笑い草だが。

 むろん、あれは演技だった。男たちの嘲笑を背中に受けながら、お前はそっと自らの指を噛み、血を滴らせた。それを私の口許に寄せ、囁き声で啜れと命じた。早く啜れ。啜って飲み込むのだ。

 訳も分からぬままに、私はお前に従った。他にどうすることが出来たと言うのだろう。あのとき私は、確か七つだった。

 命以外のすべてを捨て去る心構えなど、あったはずもない。太陽に永遠の別れを告げることなど、想像さえしなかった。あのときお前が真実を告げていたなら、私はお前を振り切って、男たちの前に身を晒したかもしれない。あるいは、舌を噛み切って自ら命を絶ったかもしれない。

 実際は、そうはならなかった。私は言われるままにお前の血を啜り終え、当然のようにお前の眷族となった。邪悪なるお前が体内に流れ込んできて、私という存在をすっかり作り替えてしまうのを、ただ茫然と受け止めたのみだった。気が付けば私の前には、ずたずたに引き裂かれた肉片と、黒い沼のような血溜まりだけがあった。

 心底愉快そうなお前の笑い声が、今もって耳朶にこびり付き、離れることはない。どうした、家族の仇だろう、とお前は言ったが、そんなことを気に掛けるお前ではないと、今の私ならば断言できる。お前が欲したのは怒りであり、憎しみであり、恐怖であり、何より血だった。七つの小娘が、屈強な男どもを激情任せに噛み殺していくのが、お前には極上の娯楽だったのだ。

 私は、自分が人でなくなってしまったことを知った。生き延びろ、と母は最期に言った。しかしこうまでして生き延びたいかと問われれば、答えは否に違いなかった。私の家族が完璧に高潔だったとは思わない。しかし少なくとも、血肉を貪る怪物では断じてなかった。

 ついてこい、とお前は命じなかった。私にはそうするほかないと、分かり切っていたからだ。連れていってください、と私が頭を下げたとき、お前はどれほど愉しかったことだろう。愚かにも私は、体の中を巡るお前と折り合いをつける方法を学ぶ気でいたのだ。元の世界に帰る可能性さえ、夢想しなかったわけではない。

 しかしお前は、私に何も教えはしなかった。血の甘美さ以外は何も。

 お前に付き従って、長い長い月日が流れた。お前が人間の顔を見せたのは、あれが最初で最後だった。お前は常に、忌まわしい夜の種族でありつづけた。誰からも憎まれ、怖れられ、命を狙われ、それでも平然と、生き延びた。私を殺せる者があるかと、世界中を嘲笑しているようだった。

 私のようになれ、とお前は命じなかった。不可能だと分かっていたからだ。

 初めのうち私は、動物の血を舐めることさえ嫌がった。自分の中の自分を捨て去り、お前と同じに成り果てるのを恐れた。自分を怪物に仕立てあげたお前を憎み、お前の血を憎んだ。父と母の血がお前に毒されることが、何よりも耐え難かった。

 殺してやる、と私は口癖のようにお前に言った。やってごらん、とそのたびにお前は笑いながら答えた。

 子羊一匹殺せない娘が。この私を殺せるものなら、いつだってやってごらん。お前に殺されるなら、私はただのひとことだって文句は言わないよ。

 お前の命を奪うことが、私の生きる理由になった。ありとあらゆる方法を、私は模索した。

 聖水を、木の杭を、銀の弾丸を、お前は軽々と退けた。心から楽しげな表情を浮かべながら、襲い来るすべてを跳ね返した。お前は誰よりも死に近く、それでいて遠かった。お前の命は永遠なのだと、危うく信じ込むところだった。

 そのお前はいま、私の目の前でじっと目を閉じて横たわっている。お前の呼吸は刻一刻と弱まり、上下する胸の動きも、ほとんど認められなくなってきた。いつ絶えてもおかしくはない――そんな有様だ。

 私は、お前の傍にいる。お前の枕の周りには、摘んできた薔薇を飾ってある。お前が花を好んだことは一度としてない。ただ私の中に幽かに残った何かが、そうするべきだと告げたからだ。白い肌をした女のお前には、薔薇がよく似合う。赤が深ければ深いほど、お前には相応しい。

 お前は、私に何も教えはしなかった。私は、お前の何も知ることはなかった。

 この段になって、試そうとしていることがある。始祖にとって眷族の血は――すなわちお前にとって私の血は、甘美なのか? あるいは毒なのか?

 もしも甘美ならば、あのとき私がお前の血を啜って力を得たように、お前もまた力を得るだろうか? いま一度その魂を甦らせ、夜に蠢く怪物の生を生きなおすだろうか?

 もしも毒ならば、私の血はお前の身を痺れさすだろうか? 灼熱に、極寒に、痛みに、私の抱いてきたあらゆる怒りに、嫌悪に、憎しみに、お前は苦悶するだろうか?

 どちらでも構わない、と思いはじめている。何よりも血を愛したお前は、血とともに生き、そして死ぬべきなのだから。

 お前を誰よりも憎んだこの私の血で、お前を彩ってやろう。もう一度お前と、ひとつに溶け合ってやろう。生と死の混濁の狭間に、私は滴り落ちよう。

 刃は、充分に研ぎ澄ませた。薔薇の花弁がまず私の血を受け、いっそう鮮やかな紅に染まるだろう。そして私は決してお前に触れることなく、しかし確実に、お前の中へと流れ込むだろう。

 目を閉じ、お前を想う。汚れきった魂をした、お前が笑うのを。

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