14
翌朝、私はいつもよりも大分早い時間帯にアパートを出た。
駅の方へ向かい、その途中のコンビニを通り過ぎると、隣にある『人形の家』の前で立ち止る。アコーディオンカーテンが閉められたショーウィンドウ。毎日この場所を通っているが、朝はいつも固く閉ざされたカーテンが見えるだけだ。
誰もいないのか、それとも、中に閉じ籠もっているのか。
私は、茶色い扉がある入り口に近づくと、その扉をノックした。
朝、通勤通学の時間帯故に、人通りはそれなりに多かった。多分、振り返れば、私のことを怪訝そうな表情で見る人達の姿があるのだろう。
だが、そんな事は関係なかった。
―返事は無い。
私は、二度、三度とドアをノックする。
暫くの間があって、茶色い扉がギイッと細く開いた。
「どちら様ですか?」
扉越しに、くぐもった女の声が聞こえる。聞き覚えのある声だった。だが、こちらに姿を表そうとしない。薄く開いた扉の向こうは暗かった。
「あの……私です。昨日の夜、ここにお邪魔した…その……」
「……。ああ……その声は……」
と先程よりもハッキリとした声が聞こえた。そして、
「何か、ご用ですか?今は少し立て込んでいまして」
「あの……。先日頂いた、人形のことで、どうしても確認しておきたいことが」
「…………。急ぎの、用事ですか?」
「……はい。それに、とても重要なことです」
私がそう言うと、少し間があって、
「……分かりました。どうぞ、中へ……。入られましたら、ドアはしっかりと閉めて下さい」
女の声が聞こえ、私はゆっくりとドアノブに手を掛けて手前に引いた。カーテンが閉められているせいだとしても、想像以上に中は暗かった。
中に足を踏み入れると、てっきりすぐ近くに女がいるのだと思った私は、思わず辺りを見渡した。
誰の姿もなかった。
「扉はすぐに閉めて下さい」
奥の方から女の声が聞こえてきた。
私は茶色いドアを閉める。アコーディオンカーテンが窓を覆い尽くしているせいか、ドアを閉めると、まるで帳が落ちたような暗さに包まれた。
暫くすると、奥の方から黒色服に身を包んだ女が、足音も立てずに姿を見せた。まるで薄闇の中から溶け出してきたかのようだ。
「少し驚きましたよ。夜以外、ここを訪れる方などいませんでしたから」
女は顔を上げて私の方を見る。その顔には微かに笑みが浮かんでいる。何となく私は、会う度に印象が変わる女だと思った。単に私の先入観がそうさせるのか……。
「この時間帯は、アトリエに籠もっていまして、入り口もカーテンも閉め切っているのです。そういう性分なので。余計な明かりが入ると、作業に集中出来ないのです」
「……あの、すみませんでした、突然お邪魔して」
「ふふふ……。それで、とても重要なこと、と言うのは?」
女は穏やかに微笑みかけてくる。それは、なぜかとても優しげに見えて……。
「あの……。あの人形がしている指輪なんですけど……。あれは……どこで手に入れたんですか?」
「……さて?あの指輪は、私が作った物ですが……」
「でも、オリジナルがあるはずです。昨日言ってましたよね、ここにある人形は全て、亡くなった方の遺品から作ったと」
「……そうですが……」
「でも、あの指輪は遺品じゃない。だって、あの指輪は―」
「人形が身につけている物全てが、遺品から作っているわけではありませんよ。もちろん、多少なりとも私なりのアレンジはあります」
「じゃあ、どうして、あの指輪を、あの人形に……?」
早口で捲し立てるような口調に、女は少しばかり呆気にとられた様子だった。だが、すぐに落ち着き払ったように微笑むと、
「あの子に、お似合いの指輪だと思いましたので」
「…………」
ああ……。やはり、そう言うことなのか……?
やはり……?
「あの人形が、何なのか……。私の身の回りに起きていた出来事が何なのか、やっと分かった気がするんです」
「……と、言いますと?」
「無くした傘やお金を、あの人形が持っていたり、私がケガをした場所と同じ場所をあの人形がケガをしていたり、その代わり私のケガが早く治ったりして……。どうしてかって、ずっと気になっていました。でも、昨日……やっとそれが分かったんです」
「…………」
「私を、助けようと、してくれていたんですね……」
「……あの子が、あなたを?」
女は真っ直ぐに私を見据えながら、小さな溜息を吐いたようだ。
「そうですか……。それが、あの子の望みだったのですね……」
「え……?」
女は微かに顔を伏せると、私に背を向けた。その背中に、私は、
「あの……教えて下さい、あの指輪は、どうやって作った物なんですか。何か参考にした指輪があるんじゃ……」
「どうしても答えよと、申されますか?」
「…………」
女が首だけを動かしこちらを向く。その目が少し鋭く細められる。だが、不思議と威圧感はない。こちらを試すような、そんな視線にも見える。私はその目を真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたは、あの子の存在の意味に気付いたのでしょう。そして、あの子の望みにも」
「…………」
「それ以上、何を望むというのです?」
「……あれは」
声が掠れる。自然と口の中がカラカラに乾いてしまっていた。
「あの指輪は、僕の物です」
「………」
「本当は……僕が彼女に、渡してあげなければならなかったものです。そして、その指輪は、半年前の地震の時に、自宅で無くしたものと同じ指輪でした……。そして、その地震で、彼女は……亡くなりました」
「………」
「だから……本当は……僕の手で、渡したかった」
「…………」
「……あの指輪の存在を、どうしてあなたが知っていたんですか?」
「…………」
女は私の方に顔だけ向けたまま暫く静止していたが、再び正面を向くと、
「私は、何も存じておりません。私はただ、この子達が望むように、この子達を形作るだけ……。その結果、生まれたものの一つがあの指輪なのです」
「…………」
「人形達の心に寄り添えば、この子達が何を望んでいて、何を求めているかは自ずと分かるものです。それを信じるかどうかは、あなた次第ですが……。現に、あの子はあなたと共に居る事を望んでいて、あなた自身も、あの子の望みに自ずと気付いたのではないですか?」
「…………」
ああ……。きっと、そうなのだろう……。それを私は誤解していたのだ。あの人形を手放そうとしても、手放す事が出来なかったのも。きっと、そういう意味なのだ。
由依、君は……。
「あなたは、人形がなぜこの世に生まれたのか、知っていますか?」
女は、近くのテーブルにある一体の人形を手に取った。それは、黒いドレスを纏った、黒髪の人形だった。顔立ちはどこか日本の少女を彷彿させる。病的なほどに白い面に、薄い紅を塗った小さな口が微かに微笑みを浮かべていた。
「あるものは観賞用として、あるものは愛玩用として、あるものは子供の玩具として、人形という『器』を作り続けてきました。ですが、なぜ、それは『人形』でなければならないのでしょうか。『人の形』である事の意味は何なのか……。それは人の形ではなく、動物の姿形であっても同じ事。命を持たないはずなのに、『それ』に似せることに、人々はどのような意味を与えようとしたのか」
女はこちらを振り向き、黒いドレスの人形を私の方に向けてきた。
「もしこの子が、黒い1枚の布きれだったなら、長方形の形に切取られただけの黒い布きれだったなら、溶けたプラスチックが丸い容器の中に固まっただけの塊だったのなら、あなたは、その存在にどんな意味を見いだせますか?」
「…………」
「ですが、そうではなく、黒い布きれは1枚のドレスを形作り、プラスチックの塊は、少女の顔や肉体を形作っていれば、それはもはやただのモノとは見なさないはずです。ただのモノとしての意味ではなく、この形にそれ以上の意味を見出すはずです」
「…………」
「意味を見出されない人形達は、みな空っぽの器。意味を見出してくれるのは、この子達の所有者だけ。彼らが人形達に意味を見出すことで、この子達は、本当の意味で人形となり得るのでしょう。私がこの子達を創るのは、人間であった時から、人間でありながら人間として扱われなかった、そんな悲しい過去と、器でしかない人形を投影しているからです。彼らは、人形と同じ、空っぽ……。かわいそうな、迷子の、子達……」
女は黒いドレスの人形を胸に抱き締める。その姿に、私の胸の内にふつふつと込み上げてくる感情があった。
「ですが、あなたの人形は、あなたの手にあることで、ようやく意味を見出されたのでしょう。あの子は、人形の姿となって、ようやく人形として―」
「勝手なこと、言わないで下さい!」
思わず激昂していた。
女はびくりと体を震わせて、目を見開いた。口を半開きにして、驚いた表情で私を見る。
普段張り上げることのない大声に、私は自分自身に内心驚きを隠せなかった。心臓の鼓動がドクドクと早鐘のように脈打つ。怒りにも似た感情が胸の内から沸き上がり、マグマのように心臓から血液が迸る感覚を覚える。
「僕は……彼女を、由依をそんな風に見たことはありません。他人から見れば、存在しない人間として扱われていたとしても、僕はそんな風に思った事はない!」
「…………」
薄暗い空間に、私自身の声が反響する。
きょとんとした表情をしていた女の顔に、少しずつ陰りが見えた。少し俯きながら、目を伏せる。
「由依は……由依は……」
譫言のように、私は由依の名前を口にする。そうしながら、瓦礫の下敷きになった、彼女の白い腕を思い出していた。
「あ、あの……」
狼狽えたような女の声も、耳には入っていなかった。
「由依は……由依は……人形なんかじゃない……!あれが……人形なものか……っ!」
頭を抱える。
あの地震に遭った時のように、視界がぐらぐらと揺れる。
薄闇の中、私は駆け出していた。
「あっ……!」
目の前の黒ずくめの女を突き飛ばし、多数の人形達の目に囲まれながら、建物を飛び出す。
勢いよく開けた扉の先に、通学途中らしい中高生くらいの集団が驚いたように立ち止った。その中を無我夢中で走る。元来た道を逆方向に。
私はアパートに向かっていた。
由依……由依……。
心の中で何度も彼女の名前を呼ぶ。
アパートの階段を駆け上り、鍵が掛かっているにもかかわらず、無理矢理自分の部屋のドアを開けようとして、けれど開かなくて、そこで、ようやく私は幾らか冷静さを取り戻した。
荒くなった呼吸を少しばかり整え、鍵を取り出し、部屋の中に入る。
そのまま飛び込むように寝室に入る。
背中越しに寝室のドアを閉めると、私は大きく深呼吸をする。暴れ回る心臓の鼓動を抑え、呼吸を整える。その間、私はずっと床を見て、俯いていた。顔を上げれば、すぐ目の前に「それ」が見えてしまうからだ。
「由依……」
私は、彼女の―人形の名前を口にする。
今まで同様、由依は本棚の上にいた。
―人の形をしていることに、意味を見出す……。
女はそう言っていた。
「違う……そうじゃない……」
思わず口に出していた。
―人形は、器……。
「それも……違う……」
器だったら、こんな事が起きるはずがないのだ。
呼吸が落ち着いてくると、今度は手足に震えが走り始めた。それは、恐怖からなのか、それとも事実に気付いた故の興奮なのか……。
どっちだって構わない。私のすぐ傍にある「それ」が全てを物語っているのだから。
本棚の上に、由依はいた。
私を、私の命を救った代償に、バラバラになった彼女は、今もなお、バラバラな姿で本棚の上にいた。けれど……。
もう、元の姿はしていなかった……。
微かに鼻腔をつくものがあった。今朝目が覚めた時から感じていた。だが、いよいよ持って、現実味を帯びて私に事実を思い知らせてくる。
―お前のせいで、この女は死んだのだ、と……まるで、そう罵られているかのようだ。
「ごめん……由依……」
私は、顔を上げた。
予想通り、今朝見たときよりも、より「腐敗」した姿がそこにはあった。手足がもがれ、首も千切れた肉体……。樹脂の塊からは決して漂わない、異様な臭気……。
本棚の上に、確かに由依は居た。
だがその肉体には、ドス黒いシミのような痕が幾つも刻まれ、細かいウジ虫のような模様が無数に浮かび上がっていたのだ。
私は、ふらつく足取りで本棚に近づくと、変わり果てた由依の亡骸に触れる。そのまま、バラバラの残骸を両手ですくい上げ、胸に抱き締めた。
「ごめん……由依……」
私はもう一度呟く。
クルクルにカールしたブロンドの髪に、涙がこぼれた。由依が死んだ時には流れなかった涙が。
その瞬間、由依の唇が微かに動いたように、私には見えた。
Doll 白崎蓮 @ren_shirosaki
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