13
アパートに戻ると、まず洗面所に飛び込んだ。
歩きながら、右肘の辺りがジクジクと痛んできたためだ。服の上から触れると、少しベトベトした感触がある。出血しているのかもしれない。
洗面所に入り、右手の袖をまくり上げると、思った通り、シャツの内側に赤黒い汚れが付着していた。微かにひりつく右肘を曲げて、洗面台の鏡の方に肘を向けると……。
「……?」
私は眉を寄せた。一瞬見間違えたかと思ったのだ。だが、数秒間鏡越しに自分の肘を見つめて、それが真実である事を確認する。
右肘の関節付近には、確かに擦り傷のような痕が残っている。だが、左手で触れると出血は全く無かった。既に血は乾いていて、乾ききった血が皮膚の表面にこびりついている状態だった。
水で洗い流すと、少し沁みるが、出血の量からすれば大した痛みではない。
―運が良かったと、そういう事だろうか……?
多少違和感はあったものの、そう言い聞かせることにする。足腰の痛みも、ここに来るまでの途中でほとんど無くなっていた。
他にケガらしきケガもしていない。まあ、大した怪我でないのならそれに越したことはない。私はあまり深く考えないことにして、洗面台を後にする。
いつも通り、リビングに使っている部屋に鞄を置いて、ダイニングに向かう。朝食の残りを電子レンジで温めて、今夜も代わり映えのしない夕食の準備を始める。
時計を見ると、既に午後九時が近かった。
ふと、私は気になった事があり、食事の準備の手を止めた。
そして寝室の方へと向かう。
帰宅する途中、人形の家であの女が言っていた言葉が気になったのだ。
―ここにある人形は、どれも、亡くなった方の遺品を使って私が作ったのです。死して尚……捨てられた方達の、依り代として……。
つまり、私の寝室にある人形も、同じように誰かの遺品を使ってあの女が作った物だという事になる。それは……つまり……。
私は寝室のドアを開けた。
「……あっ……!」
と思わず声が漏れた。
ドキッと心臓が鷲づかみされたように、大きく飛び跳ねた。
暗闇の中、いつもは整然としている部屋の床に、沢山の小物が散らばっていたのだ。よく見ると、それは、白っぽい布きれであったり、肌色の小さな固形物であったり……。
「…………」
私はしばし呆然と床に散らばった「それ」を眺めていた。
それから、寝室の明かりを付けて「それ」を確認する。
床の上には、人形が落ちていた。本棚の上に置いてあった人形が、今は床の上に落ちている。何かの拍子で落下したにしても、その様子があまりにも不自然だった……。
一番入口側に近いところに落ちているのは、人形の右腕だろうか。肘の関節の辺りから折れ曲がっている。そして、本棚に近い所に、点々と散らばっているのは、靴やリボン、そして、右足かそれとも左足か、太股から膝の辺りまでの部品が転がっている。更に、ベッドの方に向かって、クルクルの巻き毛を振り乱した頭部が単体で、顔を床に付けた状態で転がっていた。頭に被っていた帽子と薔薇の髪飾りも、所々千切れた状態で散らばっていた。
要するに、人形がバラバラになっているのである。
「………これは……」
何があったのか、と考えると同時に、私は反射的に部屋の中を見渡した。
まさか、泥棒……。
何者かが部屋に侵入してきたのかと思い、慎重に寝室の中を見渡し、ベッドの布団をまくり上げ、僅かに存在する家具―本棚と机の隙間、クローゼットの中などを確認する。
誰もいない。
キッチンとリビングに戻り、そこも確認するが異常は無い。洗面台から、風呂場、トイレ、一通り確認する。
誰の姿もなければ、荒らされた形跡もない。
帰ってくるときも、玄関には鍵が掛かっていたし、何者かが侵入してきたと言うわけではないようだ。だとすると……。
私は寝室に戻ると、バラバラになった人形を見下ろす。
一体、何があったというのか……。
単に床の上に落ちただけで、こんなこ割れ方をするとは思えない。現に、数日前、この人形が床に落ちたときは、壊れるどころか傷一つ入っていなかったではないか。
それが、なぜ。
私は、散らばった残骸の中から、入口側に一番近いところに落ちている人形の腕、おそらく右腕の肩から掌までの部分をそっと摘まみ上げる。
十数センチくらいの長さをした腕。それを手に取り何気なく眺めた瞬間、ザワリ、と背筋に震えが走った。
……これは……!
人形の右肘、丁度関節の辺りに、赤黒い傷が多数刻まれているのだ。肘の部分だけ、肉を抉るように、まるでその部分だけ彫刻刀で何度も彫りつけたような傷跡と、赤黒いシミのような汚れがあった。
反射的に、私は左手で自分の右肘に触れた。
私が先程ケガをした場所に……。
だが、違和感はそれだけに留まらなかった。私は、他の残骸も拾い上げて確認していった。人形の胴体部分を拾い上げる。右腕と両足、そして首が取れてしまった痛々しい状態にはなっているが、左手だけは胴体部分にくっついていた。しかし、
「……!」
水色のドレスと対照的に走る赤い色。それは背中に差した赤い傘ではない。それよりももっとドス黒い赤色をした、シミのような痕が、人形の腹からドレスの裾に向かって歪な形状を描いていた。少なくとも、私がもらったときにこんなシミはなかった。
人形の左手を見て、そこで私はまた眉を顰める。
「……?」
元の状態では、人形の両手は足の上で組まれていて掌を確認する事は出来なかったのだが、両足が無くなった今、掌の状態を確認することが出来た。そして、
「……あぁ……これは……」
思わず声が漏れる。
左手の人差し指。第一関節より先に、小さな線上の傷が刻まれているのだ。
私は、左手の人差し指の腹を、同じ手の親指で撫でる。
数日前に、私が仕事中にケガをした場所を。ワイヤーカッターで切ってしまい、絆創膏をもらいに行く途中で、いつの間にか止まってしまった出血。その事に違和感を覚えながらも、それ以上は深く考えようとしなかった。
しかし、これは……。
「由依……まさか、君は……」
膝から崩れ落ちる。
無意識のうちに、私は由依の名前を呼んでいた。
―先程、通りで車に轢かれそうになった瞬間に背中に受けたあの衝撃。あれは……。
冷静に考えれば、右から来た車に轢かれて背中に衝撃を受けるわけがない。
だとすると、あれは……。
なぜ私は助かったのか……。
それは、あの時、誰かに―いや、何かに背中を押されて突き飛ばされたからだ……。あれは、あの力は……。
直後に聞こえた、ドン―という強い衝撃音。車が何かに当たった様子は見えなかったのに。少なくとも、私にはかすりもしなかった。なら、あの衝撃音は……。
「…………」
私は、四つん這いのまま、傍に落ちている、人形の頭部に手を伸ばした。
クルクルにカールした髪を振り乱して、床に顔を付けた人形。それを優しく拾い上げる。そして、その顔をこちらに向けた。
「…………」
ブルーの目が、私の方をじっと見つめている。
その口元には、やはり微かな微笑が形作られていた。
「由依……」
思わず私はそう呼びかけていた。
人形が微かに目を細めたように見えたが、それは私の錯覚に過ぎなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます