12

 夜道をふらふらと歩きながら、私は顔を上げてハッとする。

 いつの間にか、見慣れない通りを歩いていた。周囲を見渡すと、暗闇の中、周囲には人影もなければ車の通りもなかった。閑静な住宅街。なぜこんなところに来てしまったのかと振り返ると、遠くに駅のネオンが見え、その手前に背の高い建物や、見慣れたアパートの建物が見えた。

 考え事をしたまま歩いていたせいで、アパートを大きく通り過ぎてしまったらしい。

 大きく溜息を吐いて、方向を変えて来た道を戻る。しっかりしなければ、と自らに言い聞かせながらも、気持ちはちっとも前を向いてくれなかった。

 ……由依

 私が由依に、一週間待って欲しいと言った、ちょうど一週間後に、私は例の指輪を手に入れた。何年もの付き合いで、私は由依に惹かれていたし、彼女の方もまんざらではないという思い込みもあった。

 生まれてこなかったことになっているから……。

 学校にも行けないし、働く事も出来なければ、結婚することも出来ない……。

 あの小屋を離れて由依がどう生きていくのか、私は想像も出来なかった。が、頭に浮かぶのは最悪のシナリオしかなくて……。だから、伝えておきたいと思ったのだ。私自身の気持ちを。そして、叶うことなら一生「結婚出来ない」彼女に、少しでもそんな気分を味あわせてやれたなら……と、これは私の傲慢な思いがそうさせただけかもしれない。

 一週間後、私は夕方になるまで自宅で卒論を作成していた。小屋に向かうのは日が暮れてからにしようと思っていたのだ。そこに大きな意味は無かったが、やはり周りの目が気になったのだ。

 今まで誰にも見つかったことは無かったものの、これから由依に伝えようとしている言葉と、渡そうとしている物の重さに、どうにも思ったとおり足が動いてくれなかったのだ。

 今思えば、それも「誤った選択肢」だったのだろう。

 日が暮れ初め、卒論の作成にも一区切りがつこうとした、その瞬間だった。あの地震が起きたのは。

 凄まじい衝撃に椅子ごと体を飛ばされ、激しい揺れの中、私は何が起こったのかも分からず、ただただ、激しい揺れに身を任せていたように思う。

 何秒間が過ぎ、地震だと気付いた時には、既に部屋の明かりは消え、室内の家具や扉や壁が、バキバキと鈍い音を立てながら壊れ始めていた。

 幸にも倒壊は免れたものの、激しい揺れで大きく傾いでいく柱の様子に、私は恐怖におののいているしかなかった。

 揺れが収まり、外に飛び出した私は、家族や隣近所の住民と暫く時を共にしていた。

 ラジオから流れるニュースに耳を傾けながらも、頭の中では全く違う事を考え始めていた。時間が過ぎるにつれて、徐々に冷静さを取り戻してきたのだ。

 ……由依……。

 おそらく今も小屋にいるハズであろう由依の存在が気になって仕方なかった。

 周りを見渡す。由依の実家も、この近所だろうから、多分今集まっている人達の中に、由依の母親が紛れ込んでいるのかもしれなかった。だが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、私には由依の安否が気がかりで仕方なかったのだ。これだけ大きな地震だ。あの古びた小屋なら、倒壊しても不思議ではない。

 私は、近所の住民達と一緒に、道路にたき火を作ったり毛布を広げたりして、暖を取っていた。至る所で道路が陥没していたり、崩落していたりと、とても安全に歩いていけるような状態ではなかったから、ひとまず夜が明けるのを待って、それから行動を起こそうと皆で決めたのだ。それまでには余震も落ち着いているだろうし、救助隊も来てくれるに違いないと信じて。

 そんな輪の中に私もいた。災害時だが、ある意味安全な輪の中に。

 いても立ってもいられなくなった私は、少し用足しをしてくると言って、懐中電灯を持ち出してその場を離れた。不安そうにする母親の制止を振り切って、暗い闇の中へと歩みを進めた。

 由依のいるハズの小屋。ここから歩いて数分の距離だが、この地震では途中の道もどうなっているか分からない。

 案の定、道は至る所に崩落が見られたが、何とか歩けるくらいの状態ではあったので、崩れかけた道路を慎重に歩いて行った。そして、林の方へと歩みを進める。

 林の中は、木々が倒木していたり傾いていたりと、酷い有様だった。だが、もう何年も通い続けている場所だけに、迷うことなど無かった。

 程なく、小屋は見つかった。

 悪い予感が的中し、古びた小屋は見るも無惨に倒壊していた。微かに、木の粉が空中を舞っており、微かにかび臭いを感じる。

「由依……!」

 私は彼女の名前を呼びながら、倒壊した小屋に近づく。

 小さな小屋と言っても、崩壊した柱や壁板、天板などが大量に山積みになっており、由比の姿は全く確認出来ない。

 私は、何となくの感覚で、いつも由依がいる場所当たりに狙いを定めて、木材を撤去していく。その間にも小さな余震が何度も続いていた。

 ……どれだけの時間が掛かっただろうか。多分天上に使われていた大きめの板だろう、それをどかしたときに、板と地面の隙間から白い手が見えのだ。私は息を呑む。

「由依……っ」

 私は、反射的にその手を掴み、そして硬直した。

 その手があまりにも冷たかったからだ。同時に、柔らかい人間の肌の感触が既に失われていることにも気付いた。いや、思い知らされた。

 ……ガタガタ……

 余震が続く。既に倒壊した小屋の残骸が揺れる。

 私は、その場にへたり込み、冷たくなった手を掴んだまま、放心しそうになる気持ちを必死で奮い立たせて、その手を強く握った。

 何度も由依の名前を呼び、瓦礫をどかしながら、時々その手を強く引っ張り何とかして瓦礫の中から出そうとする。

 どれだけ力を入れても、由依の体は外に出てこなかった。木々の下敷きになっているのだろう。私は由依の体の状態も良く確認しないまま、無我夢中で狂ったように由依の体を引っ張り続けた。

 既に動かなくなった由依の体が半分ほど出てきた時、私はその場に尻餅をついた。

 大きく息を吐く。心臓の鼓動が煩いほどに響く。

 ぐったりと俯せになったまま、動かない由依の体。顔はよく見えない。いや、見ようと思えばすぐ見れるのだが、見るのが恐かった。

 暗闇の中、私は由依の体を見ない様に、なるべく懐中電灯の光を彼女に当てないようにしながらも、彼女の亡骸から目をそらせずにいた。

「由依……」

 もう一度名前を呼び、そっと、由依の髪に触れる。べたっとした感触があり、掌を見る。生乾きだった由依の血液が掌に付着していた。


 由依……。

 横断歩道が見えた。ここを渡れば、アパートに辿り着ける。

 私はふらつく足取りのまま、暗い道を歩いていた。

 あの日以来……私はずっと考えていた。どうしても、頭から離れない事実を。どうしても、こう考えてしまうのだ。

 私が由依にあの小屋で待つように言ったから、だから、彼女は地震に巻き込まれたのだと。

 どれだけ後悔したところで今更どうにもならない。だが、そう考えずにはいられなかったのだ。

 私が、由依を殺したのだ……。

 あの後、私はどうやって皆の待つ場所へ戻ったのか、よく覚えていない。確か、あまりにも私の帰りが遅いので、母親を含めて数人が探し回っていたと聞いていた。私は、道が崩れていて迷ってしまったと適当に言い訳をしていた気がするが、はっきりと記憶にはない。

 とにかく、由依の死のショックから、完全に思考が停止していた。通常なら、由依の死をここに居る人間に知らせるべきだったが、どうしても告げられなかったのだ。そして、それもまた、私の胸を締め付けてくるのだ。

 本当は……あの瞬間、まだ由依は生きていたのではないか、と……。

 手が冷たかったのは私の錯覚で、すぐに瓦礫の下から助け出せば、命は助かったのではないかと……。

 由依……。

 いつの間にか懐中電灯の明かりが私の目の前に迫ってきていた。それは、あの日、私が由依を見つけて皆のところに戻る途中、私を探していた母親の持つ懐中電灯の光と同じだった。

 そう、あの時も、こんな風に目の前に、光が飛び込んで来て……。

「……?」

 懐中電灯?

 なぜ、今そんな明かりが見えるのか。と、考えたのはほんの一瞬。

 光の見える方向に首を動かす。青信号の横断歩道を渡ろうとした私の右手側に、黄色い光が―車のヘッドライトが迫ってきていた。

「……!」

 車のエンジン音が近づく、クラクションの音が直接耳に突き刺さる。

 轢かれる!

 そう感じた瞬間だった。

 背中に強い衝撃を受けて、私は前方に飛ばされた。その勢いのまま地面に転がりながら、腰をしたたかに打ち付ける。

 ドン―!

 という鈍い音がしたと同時に、私の間近を、ほとんどスピードを落とすこと無く車が通過していった。

「……っ!」

 腰の痛みを堪えながら、私は何とか身体を起こすと、反射的に上を見上げた。そこには、点滅する青色の光が見え、数秒後、それが赤い光に変化した。

 どうやら、横断歩道を渡りきったらしい。先程の車は信号無視して突っ込んできたのだろうが、既にその姿は通りの遠くへと去ってしまっていた。

 あまりにも危険な運転だったが、とりあえず、私自身はケガは大した事は無いようだ。立ち上がると、足腰は少し痛むが、歩けないほどではなかった。

 それにしても……。

 先程の鈍い音がした瞬間、いや、それよりも少し前に、私はあの車に轢かれたのではないか……と思ったのだが。あの時の、背中に感じた衝撃は、一体……。

 無論向こうが信号無視したせいなのだが、考え事をしたまま歩いていた私も迂闊ではあった。

 大きく息を吐くと、私はアパートへと歩みを進めた。

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