11
どうやって人形の家を出て来たのか、さっぱり思い出せなかった。
気付いたら私は、夜の闇に向かって歩みを進めていた。ポツンポツンと街灯の光が不等間隔で大地を照らし、その下に時々写る小さな人影を見つけては、自室にある人形の姿をそこに投影していた。
由依……。
頭の中でその名前を呟く。
ほんの半年程前まで、ずっと続いていた『秘密基地』での日常。それは、誰もが経験する、ごくありふれた家庭環境とはかけ離れた環境。六畳ほどの広さのある、古びた物置。かつて、どこの誰が使っていたかも分からない、木造の廃屋。その廃屋は、私がかつて暮らしていた田舎の林の中にひっそりと建っている。
そこが、私達―私と、由依という少女の『秘密基地』であった。
私がその廃屋を訪れたきっかけは何だっただろうか。多分、幼い時分に、家の近所を探検してみたいという好奇心からだったのだろう。だから、まさかそんな古びた小屋に、自分と同じくらいの年頃の少女が「棲み着いている」など思いもしなかった。
「―なに、してるの?」
初めて小屋を訪ねた時、私は多分そんな風に聞いたのだと思う。
薄汚れた小屋の中、小さな毛布にくるまって、顔だけを出した状態で横たわっている人の姿を見つけた時、多分最初はギョッとしたのだと思う。けど、不思議と叫んだり逃げ出したりはしなかった。
それは、その相手が自分と同じくらいの―十歳くらいのくらいの―子供だったこともあり、目に見えて分かる程衰弱している様子だったからだろう。
私の声に反応したのか、少女が目を開けてこちらを見た。
「だれ……?」
掠れた声。女の子の声だった。小さく、か細い、今にも消えそうな声。
幾らかのやり取りがあって、彼女は自分の事を「由依」と名乗った。この小屋に、毎日のように訪れては、寝泊まりを繰り返しているのだという。
「どうして、家に帰らないの?」
私がそんな風に聞くと、由依は素っ気ない調子で答える。
「……今日は、あの人が来てるから」
「あの人?」
「……嫌な、男の人。最近、頻繁に家に来るようになったの。あたしの部屋にも勝手に入ってくるし。一緒にいたくないから、ここに居るの」
見ると、小屋の中には、毛布の他にも服やタオルが棚に置いてあったり、空のペットボトルや、お菓子の袋や包み紙などが無造作に散乱していた。
聞けば、由依の父親は現在仕事の都合で二年ほど前から長期出張に出ており、現在は母親と二人暮らしらしい。だが、その頃から家には父親とは違う、別の男が入り浸るようになったという。母親の不倫相手、とそんな風に言っていたが、同時の私にはそれがどういう意味かよく分からなかった。
最近は、その男が毎日のように家に来ては当たり前の用に居座り、あまつさえ由依の部屋にも乗り込んでくる始末で、母親の方も、それを注意するわけでもなく、逆に由依に対してもドンドン無関心になっていき、居心地が悪くなった由依は家を出てこの小屋に居座っているのだという。ほとんど家に帰ることも無いらしい。
子供の家出―にしては、少々込み入った事情に閉口してしまったが、それ以上に由依の見るからに衰弱した様子に、何かしてあげられないかと、子供心にそう思ったのだ。
見たところ年格好は自分と同じくらい。こんな林の中まで歩いてきたのだろうから、多分由依の家も近所にあるのだろう。だが、小学校で由依のような少女を見かけたことはなかったから、多分学校にも行っていないのだろう。
私は一旦小屋から出ると、家に帰って、台所から菓子パンやお菓子などをバッグに詰め込むと由依のいる山小屋へ向かった。
由依は私の持ってきた『食料』を、ガツガツともの凄い勢いで食べていた。私が食料を持ってきたことにお礼を言いながらも、
「あたしがここに居ること、誰にも言わないで。あと、あんまりここに来ないで」
と最後は私を拒絶するようなことも言った。
だが、それでも私はそれから度々、多分三日に一度くらいはあの林の中に足を運んでいたと思う。大抵は山小屋の中に由依が居たが、無人の時もあった。由依とて、四六時中あの廃屋の中にいるわけではないようだ。自宅からそれ程離れていない林だが、普段誰かが足を踏み入れることもないので、誰にも気付かれることはなかった。
あまり来ないで、と言いながらも、由依は私の訪問をあからさまに拒絶したりはしなかった。諸手を挙げて歓迎、と言う雰囲気ではもちろん無かったが、彼女の方も、一人きりで小屋にいる孤独に耐えきれなかった部分もあったのだろう。時には、私を笑顔で迎えてくれることもあった。
その小屋で、私達は大抵の場合、カードゲームをして遊んでいた。
最初は、学校の帰りに今日会った出来事などを由依に聞かせてやっていたのだが、学校に行けない由依にとってはあまり面白い話しではないだろうと思ったので、狭い小屋の中で遊べそうな事は何かと思案し、私が色々持ち込んだ物の中で由依が興味をそそられたのがトランプだった。
ちょっと信じられないことだが、由依は今までトランプで遊んだことがないといっていた。だが、いざ私が色々な遊び方を教えてやると、恐ろしく飲み込みが早く、そしてめっぽう強かった。
それから……何年もの間、私と由依の間でその奇妙な『共同生活』が続いていた。その間に、由依の両親は離婚し、由依の親権を母親が有して、建前上由依は自宅に残ることになったが、それでも由依が自宅に帰ることはほとんど無かったという。学校にも通わず、ただじっと小屋の中で時が過ぎるのを待つか、たまに食材を買出しに出たりするくらいだったらしい。そのお金をどこから仕入れているのかと聞くと、自宅から持ちだしたものだと、ある時話してくれた事もあったが、どこか歯切れが悪そうにしていたのを見る限り、多分、こっそり盗んできたのだろう。
私が高校に通うようになると、由依は私にこんな事を聞くようになった。
「雄一君は、高校卒業したら、どうするの?」
その頃には、由依は私の事を下の名前で呼ぶようになった。私の方は、相変わらず彼女のことは「由依」としか呼んでおらず、名字も知らないままでいた。由依の方が話したがらなかったのだ。多分、自分の家の存在を知られるのが嫌だったのだろう。
「……具体的には、まだ考えてないけど、多分、大学に進学すると思う」
私はそんな風に答えた。由依は私の答えをどう思ったのか、「ふうん」と言って黙ってしまった。以来、由依は度々私に進路のことを聞いてくるようになった。
生活の便も決して良いとは言えない田舎村。それ故に、最近は若年層から都心部へ出て行く人が増えている。由依も、それを気にしての事だったのだろう。少なくとも、彼女の方も、ずっとこの『共同生活』を続けていけるとは思っていなかったに違いない。
結果的に、地元の大学に進学することにした私は、自宅から車で通える距離だったこともあり、村に留まる事を決めた。その事実を由依に伝えたのは、実際に大学に内定してからだったが、その時の由依の安堵に満ちた表情は今でもよく覚えている。
私が大学に通うようになってから、由依との生活は大きく変わった。私が車を運転するようになった事が大きなきっかけとなったのだ。私は、彼女を町中に連れ出し、そこで由依に色々なものを見せてやった。
本来であれば、幼い頃から普通に見聞きする町の風景や人の流れ、そんな当たり前の光景一つ一つが由依にとっては、新鮮そのものだったに違いない。私は猫のようにコロコロと表情を変えながら町中を見渡す由依の様子を飽きずに眺めていた。
楽しげな由依の様子に安堵すると同時に、私は一抹の不安を抱えたままでいた。それは無論由依の家庭のことであり、由依の学業のことでもあり、あの山小屋での生活のことでもあった。普通に学校に通い、大学に進学した私には到底考えられないような事だが、由依は私が小学校の頃から学校に通っている様子がない。当然、役所から家族に何らかの連絡があっても良いはずだ。
離婚した由依の母親は、由依の事をどう考えているのだろうか。私は何度もその様な疑問をぶつけてみたが、その度に由依の答えはいつも決まっていた。
「あの人は、あたしの事、いないものとして扱っているから」
それ以上のことを、由依はずっと話そうとはしなかったのだが、私が大学四年になり、地元の企業への就職が決まったとき、その意味を打ち明けてくれた。
「あたし、生まれてこなかったことになっているの」
最初にそう切り出されたときは、何を言っているのか理解出来なかった。その意味は、住民登録がされていないこと、という意味だった。
「離婚した前のお父さんは、あたしの本当の父親じゃなかったの。昔、父が居ないときに、知らない男の人が家に来ていたって言った事があったでしょ。あの人が、あたしの本当の父親なんだって。たまたま家に帰ったときに、偶然聞いたの。丁度両親が離婚する少し前に、あの子は住民登録もしていないんだから、本当の母親である私が親権を持つって、そんな事を言っていたわ」
自嘲気味に笑いながら、由依はそんな話しをしてきたのだ。
「おかしいでしょ、居ない人間の権利を取り合ってるなんて。今まで散々ほったらかしにしてきたのに、今更何なの、って」
「どうして、そんな事に……」
「あの人が、別の男―あたしの家に度々来ていた男と関係を持っていたから。結婚する前からね。その事、離婚した父も知っていたみたい。だから―自分の娘じゃないから、出生届も出さずに、居ないことにしたって、そういう事みたい」
淡々と話す由依に、私は呆気にとられた気持ちだった。
おおよそ私が知っている現実とはかけ離れた出来事だが、由依にとってはそれが、当たり前とは言わなくても、何でも無いことのように感じているのだろうか。それとも、彼女なりの強がりだったのか。
「だから、多分ずっとこのまま。学校にも行けないし、働く事も出来なければ、結婚も出来ない。死んでも、この世に存在しない人間だから……ううん、もう、死んでいるも同然なのよね」
私は何も言葉を返せなかった。
大学卒業が近づいた頃、廃屋の中で由依は私に、
「もう、ここで会うの、やめよっか」
とそんな事を切り出してきた。なぜ急にそんな事を、と思うと同時に、それが急な事ではない事を私自身何となく理解していた。遅かれ早かれ、いつまでもこの状況を続けていけるとは思っていなかったからだ。
「四月から、就職でしょ?今までみたいに、時間取れなくなるんでしょ。今までみたいに、無理してここに来なくても、いいから」
「……別に、無理していたわけじゃないよ」
と答えたものの、内心くたびれていたのも事実だった。特に、大学に進学してからはバイトの時間を可能な限り増やしてきたから。それというのも、由依の食い扶持を稼ぐためでもあったのだが、その事をあからさまにしてきたつもりは無かった。
とは言え、毎回のように食料や日用品などをこの小屋に持ってくるのだから、由依も気付かないわけがないし、敢えて口に出さずにいたのだろうと、私も何となく予感していた。
「もう少ししたら、ここを離れようかなって、思っているの……」
「離れるって、どこに行くつもりだよ」
「……分からないけど。どこかに」
冗談めかした口調で、実際にはちっとも冗談にならない事を言う。他に頼れる相手も居なければ、住所すらない由依が一人で生きていく手段などあるわけが無かった。
「もう、迷惑掛けられないし」
そう言う由依に、私は「一週間だけ待って欲しい」と伝えた。それまでは、この小屋に居て欲しいと。一週間後の夕方、もう一度ここに来るから、それまでは待っていて欲しいと。
……そうして、卒業直前、卒論の作成に追われる中、バイトのシフトを増やしてお金を貯めて……。やっとの思いで購入したのが、あの、翼の刻印がされた銀の指輪だった。
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