きみの嘘、僕の恋心
冷世伊世
―― きみの嘘、僕の恋心 ――
夏なのに、扉を開けて部屋に入ると寒さで息が白くなった。
吐き出した己の呼気が凍りつくのを見て、ハヤテは身を震わせる。
閉じきった窓辺にこの寒さを作り出した青年が腰かけていた。夏の鮮烈な光は背の高い青年の影に遮られ、部屋はうす暗くなっている。
「おい」
呼ばわると、外を眺めていた背がびくりとはずむ。
ぎこちなく振り返る青年は、本物の雪塊でつくられたようにどこもかしこも白かった。
ゆるやかに腰まで流されている白髪、着ている古めかしい狩衣はほぼ純白だ。
染みひとつない白い頬がなんとか微笑みを形づくろうとしていた。青年の両瞳と唇は唯一赤い。たしかな血色を彷彿とさせるが、彼の紅瞳は苦痛に歪んでいた。失敗した笑顔を取り繕おうとしている。
「おかえりなさい。ハヤテ、遅かったですね」
待ちくたびれたといった声だが、やけに寒々しく聞こえた。
無言で近寄ると、相手は反射的に身を引く。避ける仕草にも腹が立ったし、窓辺に飾っておいたうす紅のサルスベリの花枝が、見事に凍りついていたのも悲しかった。
無言で窓を開けきった。あっという間に灼けつく初夏の温風が部屋へ流れこみ、今度は白一色の青年のほうが身を震わせる。
何度言わせる気だ。部屋を凍らすな――そうたしなめる代わりに口をついて出たのは、相手をつき刺すひと言だった。
「つらいならやめればいい」
「……いえ」
「素直に言え。その手でもう音をつまびくのは嫌だと。私と舞台に立つ気がないというのなら」
「ッ、いいえ」
伏せられていた白く長い睫がもち上がり、意思を秘めた赤い瞳がじっとこちらを見る。
「やめません」
もう一度、青年はきっぱりと否定した。
「たとえこの手を何度血に染めようと、止めません」
その言い草には笑ってしまった。本当の意味で、手を血で染めるのはこの自分だ。すべての罪を背負おうとするひたむきないじらしさは、愚かで愛すべきものに思えた。
ж
ハヤテが
ひとたび院への入学手続きを済ませてしまうと、集められた少年たちはてんでばらばらに暮らしはじめた。広い境内はおそろしいほど静かだった。みんな山の寒さに閉口し、与えられた部屋に閉じこもっていたのだろう。
しんしんと止まぬ雪。目に映るもののすべてが白く凍りつく。それでも明るい冬の日だった。人の奏でる音ですら吸いとってしまう雪は、澄んだ日の光を反射する。暖かさだけはよせつけまいと、頑なに庭のあちこちで
退屈をまぎらわそうと庭をさまよっていたハヤテの目の前に、ぱっと鮮やかな色彩が現れた。
燃える真紅の舞装束を着た少年だった。真っ黒に濡れ輝くような髪が、白い背景のなかでくっきりと映る。すらりとした体躯は姿勢がよく、雪の庭をしなやかに歩いていた。目を奪われたのは、その見事な足はこびだった。一挙一投足、これほど華やかに動ける人間を見たことがなかった。舞台の上でならともかく、少年は庭をただ何気なく歩いているだけだ。日常的な挙措ですら麗しく魅せられるのは、良い舞手のわかりやすい特徴でもある。
(あんなところで何をしている?)
寒々しく積もる雪の庭を、少年は真紅の衣をひるがえし、ひとりで歩いていた。
時おりその顔が話しかけるように横を向く。それを見てようやく、隣にもうひとり青年がいたことに気がついた。驚いた。
白一色の衣に身をつつんだ青年がいたのだ――その髪は真っ白だった。雪の背景に溶けこんでしまっているから、姿を瞬時には見つけられなかった。
真紅の衣装を揺らし、少年は青年と話しながら歩いていた。
時おり揺れる紅の軌跡を、ハヤテはぼんやり遠くから目で追いかけた。
色彩鮮やかな少年の笑みは小りすのように愛らしく、瞼裏にいつまでも焼きついた。
思えば、その頃からたしかな憎しみを抱きはじめていた。
白くふりこめる雪のつめたさと、それに溶けこむ真っ白で無表情な青年に――並び歩くふたりに向ける自分の眼差しは、きっと苛烈だっただろう。嫉妬だ。
真紅の衣をまとう少年に憧れ、うっとりその鮮やかさを思い返すとき、笑みが向く先にあったものを全部燃やしつくてしまいたいと思う。あのとき彼のそばにあった白一色の青年を。
ж
「氷」
ハヤテが呼びかけると、沈んでいた青年の赤い両目がゆるゆる持ち上がる。
あの雪の日から半年が経っていた。
青年の姿をしているが、氷刹遠君は人ではない。
鬼王院には、奉舞に使われる特殊な人型の楽器がいくつもある。
彼らは自分たち舞手とともに舞台へ立ち、曲を奏でる。そのために舞手を選び、一年の間はともに過ごす。昼も夜も、そばにつき従い言葉をかわし、呼吸を合わせるのだ。
氷、と縮めた愛称で呼ぶとき、ちりちりと憎しみの炎を胸に感じる。
氷刹遠君はまる一年、あの紅衣の少年と過ごしていた。
(ともに暮らし、舞台で音を奏でて。そして彼を窮地に追いやった)
彼の舞台を止めなかった。その結果どうなるかを知りながら、氷刹遠君は自身の欲求に従ったのだ。舞台の上で音を奏でたいという、楽器としての欲求に。
ハヤテにそれを責める資格はない。ふたりのことはふたりのことだ。済んでしまったことにどうこう言っても仕方がない。もし自分が氷刹遠君の立場だったとしても、同じことをしたかもしれなかった。
美しいものをいつまでも眺めていたいと願う心に、なんの罪咎があるだろう。
紅衣の少年の舞
彼の舞に心酔していた自分や氷刹遠君に、どうしてその舞台を止めさせることができただろう。
そうはわかっていても、目の前で目を伏せているこの真っ白な青年を許せなかった。立場の違いに対する嫉妬と憎しみだった。この楽器をみるたびに、いつも苛ついてしまう。
「氷、お前はいつも苦しそうだな。私とともにあるのがそれほどつらいか」
「いいえ……」
「前の主はお前を大切にしただろう。私と違って」
青年は答えない。ただ言われた通りに、座るハヤテの細い両足を、手ぬぐいでていねいに清めている。
桶に張られているのはぬるま湯だ。
ハヤテのすらりとした両足にはややぬるすぎる温度だが、氷を本性とする氷刹遠君には手を焼かれるほどの熱さだろう。現に桶にひたした彼の両手は真っ赤に染まり、苦痛を滲ませた顔で手ぬぐいを絞っている。
それでも言われた通りにハヤテの足をそっと清めているのは、彼の願いを叶えると約束をしたからだ。
──助けてください。
そう半年前にこの楽器から請われたとき、ハヤテはろくに考えもせずに頷いた。
なにも氷刹遠君のためではない。彼と組んでいた紅衣の少年を、鬼王院から助けだしたい。それはハヤテ自身の願いでもあった。大鬼の舞台に立った後、黒子たちに連れていかれどこかに幽閉されたという、院で一番麗しく舞える少年を助けたかった。
(それなのに)
ぼんやりと潤む赤い瞳で両足に触れる氷刹遠君を、ハヤテは足で蹴り飛ばした。
素足なので威力はない。相手も後ろへ腰を落としただけで、自分を茫然と見上げてくる。その期待するような目にまた腹が立った。そばにあった桶を湯ごと彼のほうへ投げつける。
固い桶は床を転がると耳障りな音をたて、あたりがびしょ濡れになる。桶は直撃しなかったが、木の硬い音が攻撃的にいつまでも宙を漂っていた。
「いい加減にしろ!」
「は、い……」
氷刹遠君は茫然としていた。
強張った表情に苛々して、その胸倉をつかみあげる。
「その瞳をやめろと何度言えばわかる!?」
さっと表情を曇らせた青年は、眼差しを苦痛に歪めうつむいた。
「私は……たしかに彼を慕っていました。けれどハヤテ。貴方のことも大切に思っているんです。この上なく」
真摯な赤い両目に見つめられた瞬間、脳天を怒りがカッと駆けた。
「お前はッ、あの人を愛していなければならないんだ!」
吐き捨てるように叫び、逃げるように部屋を出る。弱々しく呼び止められたような気がしたが、振り返らなかった。
色鮮やかな黒髪の少年。
ハヤテが唯一憧れ、恋焦がれた彼の目に映っていたのは、間違いなく忌々しいことにあの白だった。
つめたく無表情で、すべての音という音、熱という熱を吸い取ってしまう真冬の白に、少年は愛情深く微笑みかけていた――彼がなんのために舞台に立ったのか、ハヤテにはわかっていた。粛々と、ときには楽しそうに舞う視線の先にあったのは、常に凍るような白だったのだ。
(必ず助け出してみせる。方法を見つけて、この手で)
耳奥に先ほど聞いた氷刹遠君のさびしげな声がよみがえった。それを振り払うように建物の外へ出て、音の残滓を熱で洗い流した。
鬼王院の夏は始まったばかりだ。
煮えたぎる腹立たしさと憎しみに空気は茹であがっている。かすかな涼を求めた心を自覚し、ハヤテは己のことをも憎しんだ。
きみの嘘、僕の恋心 冷世伊世 @seki_kusyami
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