清く正しく【なずみのホラー便 第56弾】

なずみ智子

清く正しく

 お金がない。

 お金が欲しい。

 お金さえあったなら……


 働いても働いてもお金が消えていく。

 ここ数年、キヨミの家は相当に苦しい経済状況が続いていた。


 苦しい経済状況――相対的貧困は、夫の発病がきっかけだ。

 数度に渡る長期の入院費と手術代が貯蓄だけでは払えなくなり、ついにはカードローンでそれらを補填するようになった。

 そのカードローンの返済においても、元金はなかなか減ることなく、利息分を遅れることなく払い続けるだけで精一杯であった。

 返す当てのないお金を借りてはいけなかった。

 いや、そもそも金を借りること自体がいけなかった。

 しかし、他にどうすれば良かったというのだ。


 今現在も、夫は幾度目かの入院中である。

 仮に夫が”やや回復”の兆しを見せて、自分と娘が暮らす家に――築五十年のアパートの一室に戻ってきたとしても、すぐに働けるはずなどない。

 病気による長期欠勤を理由に、以前の職場はとっくに解雇されていたため、まずは職探しからだ。

 それに、会社だって慈善事業ではないのだから、いつまた長期入院するか分からぬ者を採用する可能性は極めて低いだろう。



 キヨミの週五日のパートに全てがかかっていた。

 我が家の逼迫している経済事情――さすがに借金のことは他人に話してなどいないというより、恥ずかしくて話すことなどできないが、我が家の経済事情を知っている周りの者たち(親類縁者&知人たち)は、「娘さんも中学生だし、それほど手はかからないでしょ? あなたがボーナスありの正社員の職に就いた方がいいんじゃない?」といったニュアンスのことを言ってきてもいた。

 キヨミだって、それを望んでいた。

 しかし、そう簡単にいくわけがない。

 言い訳に聞こえるかもしれないが、若くもなければ、学歴もそう高いわけでもなく、これといった資格を持ってもいないのだ。

 

 正直なところ、夫と別れ、シングルマザーとなった方が経済的に好転はするだろう。 

 だが、病気で入院中の夫を見捨てるなんて出来ない。そんなことは人としてできない。


 自分は今まで、清く正しく生きてきた。

 そして、これからも清く正しく生きていく。

 そう、どれほど苦しい状況の中にあっても……



※※※



 パートを終え、自宅へと戻ったキヨミ。

 年季が入った音を立てる玄関の扉を開けると同時に、炊き立ての白米の匂いが鼻腔へと届けられる。

 先に帰宅していた一人娘・リコが、いつものようにご飯を炊いていてくれたのだ。

 育ち盛りなのに、肉や魚など滅多に並ぶことなどない夕飯の用意に、娘は何ら文句を言うことはなかった。



 中学二年生のリコは部活もしていなければ、学習塾などにも通っていない。

 たまに市立図書館で本を借りてくる以外は、平日は中学校からまっすぐ家へと帰ってきていた。

 ユニフォーム代や遠征費がかかる部活に入ったり、学習塾に通ったりする余裕がこの家にあるわけないことを、リコもちゃんと理解してくれている。


 友達から遊びに誘われても、キヨミはリコにお金を持たせることができずに諦めてもらうしかなかったという、可哀想なことだって幾度もあった。

 これ以上の疎外感は感じさせないよう、格安スマホだけはリコに買い与えてはいるも、リコだって本当は友達とアイドルのコンサートに行ったり、流行りの可愛い服やプチプラのメイク用品でお洒落もしてみたいだろう。


 何より、このままでは高校だって公立にしか通わせられない。

 リコが希望する進路先が私立高校であったとしても、その道はリコが挑戦する前からふさがれてしまっている。

 さらに大学進学なんて到底無理だ。


 リコにはもっとたくさんの未来の選択肢があったはずだし、お金さえあれば”もっといい環境”を与えることが出来た。

 親馬鹿かもしれないが娘はそれに値する子だと――教育費にお金をかけても無駄になることのない子だとキヨミは思っている。


 ごめんね、こんな家に生まれたばかりに。


 キヨミは、自分がリコと同じ年の頃、まさか将来の自分が子どもにこんな暮らしをさせている――こんな暮らししかさせられない親となっているなんて、夢にも思っていなかった。



※※※



 狭い台所の狭いテーブルで向かい合い、リコとともに夕飯をとり始めたキヨミ。

 だが、リコの様子がどこかおかしかった。

 明らかにいつもの夕飯時と様子が違う。


 口数が減ったというよりも、何も喋らない。

 目も一切、合わせない。

 うつむいたまま、黙々とご飯を口へと運んでいる。

 お茶碗を持っている左手も、お箸を持っている右手も微かに震えているような気がする。


 学校で何かあったに違いない。

 思えば、キヨミも中学生時代は自分はいっぱしの大人のつもりであった。

 しかし、今になって思えば当時の自分の嘘や強がりなど、両親含む周りの大人たちにはバレバレであっただろう。


 キヨミの心の中を真っ先に横切っていったのは”いじめ”だ。

 しかし、リコは人に嫌われるような性格の子でない。

 理不尽な理由で――ただ、なんとなくムカついたとか、そんな理由で標的となったのであろうか?

 それにいくら、我が家が周りの家庭と比べて相対的貧困の中にあったとしても、このアパートにはお風呂だってついているし、制服のブラウスにもアイロンはちゃんとあててあげている。不潔にさせているわけではないというのに。


「リコ、どうかしたの? 学校で何かあったの?」


「……何でもないよ」


「何でもないことないでしょう? いつもは学校であった色んな事、お母さんに話してくれてるじゃないの」


「…………何でもないって言ってるじゃない!」


「そんなことないでしょ。お母さんにちゃんと話して」


 無言のまま、リコはうつむいた。

 そして、肩を震わせしゃくりあげ始めた。


「……………………お母さん! ごめんなさいっ!!」


 ごめんなさいと言ったからには、リコが”何か悪いこと”をしたのだろう。

 全く事情が読み込めず、ポカーンとするしかないキヨミ。

 リコがガタンと席を立ち、隣の部屋へと――二間しかないアパートで、自分たち母娘の寝室として使っている部屋と走っていった。


 すぐ戻って来たリコの手には、相当に使い込まれた男物の黒い皮の長財布があった。

 夫の財布ではない。

 そもそも、長財布がこれほどに膨らむお金が我が家にあるはずなどない。


「あ、あんた、これ……!?」


「違う! 盗んだんじゃないの! 拾ったの! 本当に道で拾ったの!」


 壁の薄いアパートで――築年数が古く交通の便も悪いためか、隣はずっと空き室のアパートとはいえ、思わず大きな声を出してしまったことに気付いたリコは、ハッとして口元を押えた。

 そして、大粒の涙をためた目で「お願い、信じて、お母さん」とすがるようにキヨミを見た。


 リコの震える手から、キヨミもまた震える手でその長財布を受け取った。

 ズシリ、と重たい財布を。


 財布の中には、中年男性の運転免許証と複数枚のクレジットカードが――しかもゴールドカードまでもがあった。

 運面免許証の写真は、キヨミの知らない男性だ。

 名前だって聞いたことのない名前だ。リコの中学校の先生などでもないだろう。

 母娘ともに面識のない男性の財布。


 喉をゴクリと鳴らしたキヨミは、中の現金を確認した。

 一万円札が三十三枚、五千円札が十九枚、そして千円札も十九枚。

 小銭入れの部分は開けなかったが、硬く膨らんでいた。

 

 すごい。

 キヨミの手が震える。


 キヨミ自身のお財布は。片手で数えられるほどの千円札すらも入ってはいない日が大半であり、それこそ小銭ばかりだ。

 世の中には本当に、これほどの現金――キヨミのパートの給料数か月分をごく普通に財布に入れて持ち歩いている人というのは、実在するのだ。


「お母さん……ごめんなさい。私、帰り道でこのお財布を道で見つけた時、そのまま警察に届けるつもりだったの。でも、中を見て……このお金があれば……って……周りには誰もいなかったし、誰にも見られていなかったから……っ…………」


 リコは頬に流れ続ける涙をゴシゴシとぬぐう。

 

「私、魔が差して……っ……そのお財布を家まで持って帰ってきちゃったけど…………でも、お母さん、私、お財布の中のお金は一円だって使っていないよ。本当だよ、信じて、お母さん」


 キヨミは頷いた。

 リコは嘘をつくような子じゃない。


 どれだけ苦しい状況の中にあっても、自分は清く正しく生きてきた。

 母である自分のその姿を見ていた娘のリコだって、清く正しく生きようとしていたに違いない。

 ”だからこそ”、リコの良心ならびに罪悪感は耐え切れなかったのだ。


 そもそも、罪悪感など持つこともない性根の狡い子なら、道で財布を見つけた時点で中身だけ抜き取り、財布はその場にポイ捨てだろう。

 そして、親にバレることのないよう、いつもと何ら変わらぬ様子で過ごし、こっそりと自分の欲しかった物を買ったり、友達と遊ぶ金に使おうとするはずだ。


 

 キヨミの目に涙が滲み出した。

 リコは……この家の経済状況を理解しているこの子は、今まで何も言わなかった。私にも夫にも文句ひとつ言わなかった。でも、やっぱり相当に我慢させていたんだ。もし、この子がこんな家じゃなくて、人並みの生活ができる家で育っていたなら、この子は財布を拾って家まで持って帰ることなんてしなかったはずだわ……

 


 リコが財布を拾って、まだ数時間。

 ”中学生の女の子が道で財布を拾ったけど、一人で警察署には行けなくて、数時間後に帰宅したお母さんと一緒に届けに来ました”。

 この筋書きは、何らおかしくない。

 リコがいかにもな不良娘なら、その見た目だけで猫糞の疑いをかける者もいるかもしれないが、リコは至って普通の中学生――誰が見ても素朴で真面目そうな外見をした中学生だ。

 そもそも、財布のお金は”現時点では”一円たりとて減っていない。




 テーブルの上に財布を置いたキヨミは立ち上がった。

 そして――


「お、お母さん?!」


 ”ハサミを手に戻って来たキヨミ”に、リコが驚きの声をあげた。

 

 キヨミは何も答えることなく、運転免許証にハサミを入れた。

 真っ二つになった”それ”をなおも細かな破片とするためにハサミを入れ続けた。


 清く正しく生きてきた。

 どれほど苦しい状況の中にあっても、自分だけは絶対に”こんなこと”をするはずがないと、キヨミは今まで思っていた。


 仮に持ち主から何割かの謝礼を貰えたとしても、眼前にあるこのお金を見てしまったら、もう無理だ。

 だが、これらは、今の自分たちにとって相当な大金であるも、半永久的に生活を潤してくれる……というよりも、人並みに近づけてくれるわけでもない。

 カードローンの借金を完済できるわけでもない。

 リコの将来の選択肢を増やしてくれるわけでもない。

 おそらく数か月のうちに、生活費として消費され跡形もなくなってしまうお金だ。


 それどころか、これらを自分たちの物とすることで、もっと”大切な何か”を失ってしまう。

 いや、たった今、完全に失ってしまった。


 運転免許証を切り刻み終えたキヨミは、クレジットカードへと手を伸ばした。

 もはや何も考えまい、と一心不乱にそれを切り刻み続けるキヨミ。

 その母の姿を見たリコは、嗚咽しながら隣の部屋に走っていった。


 しかし、リコは戻って来た。

 リコの手には、工作用の”ハサミが握られていた”。


 ”大切な何か”を失ってしまっただけじゃない。

 娘・リコにも、”別の何か”を背負わせてしまったのだ。

 というより、そもそもこれはれっきとした犯罪(※注)だ。


 お金さえあったなら……!

 お金さえあったなら、こんなことには……!


 流れ続ける涙で頬をひりつかせた母娘は、互いに無言のままだった。

 彼女たちの鼻を啜る音に、二本のハサミが立てる音がただ重なり合い続けた。



――完――


(※注)……本作のキヨミとリコの行為は、「遺失物横領罪」(刑法第254条)にあたります。

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清く正しく【なずみのホラー便 第56弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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