ひとごろしと私

人間無骨@2/28商業おねロリ本発売

「跪け」

 坂島静流は読口正奈の言葉に従った。

 正奈の足元にしゃがみこんで、静流は彼女を見あげる。

 正奈は口元を歪め、そして静流の頭に膝を叩きつけた。静流が言うとおりにしたことに、諦めのようなものを感じたからだ。

「ひとごろし」

 横殴りにされてよたつきながら、それでも静流は正奈を見あげるようとする。しかし正奈はそれを許さず、執拗に彼女を打ち据える。ひとごろし、ひとごろし、と唱え、殴る、蹴る、踏みにじる。

 繰り返し暴力を振るっていると、頭の芯が痺れてきて、自分と相手、どちらがひとごろしなのか分からなくなってくる。だから、正奈は声に出して確認する。

「お前が、お姉ちゃんを殺したんだ」

 静流は正奈の宣告に反応を返さなかった。ただ、澱んだ目つきで正奈の言葉を受け止めるだけ。頭の痺れが強まって、正奈は静流の髪を掴んだ。

「ふざけんな……! なにヘーキな顔してんだよッ」

 静流の顔を覗きこむ。その暗い瞳には醜く歪んだ正奈の顔が映りこんでいた。変わらず、無反応。静流の虚無に耐えかねて、正奈は拳を振るう。骨張った右拳が静流の傷を増やす。彼女のこめかみに貼られていて絆創膏が剥がれ、小さく乾いた音を立てて床に落ちる。髪を掴んでいた左手を離すと抜け落ちた髪がぱらぱらと散った。何本かは手に絡みついて、いくら振っても落ちない。

「つかれたの」

 出し抜けに静流は呟いた。たったそれだけで正奈はたじろぐ。これまで、首を絞めたり、異物を突き入れないかぎりはほとんど無反応なことが多かったというのに。動揺を覆い隠すように、正奈は彼女の頬を張った。手が灼けるように痛んだ。

「はぁっ? ひとごろしは疲れちゃだめなんだよ! お前は、お前はずっと……!」

 言葉に詰まり、正奈は代わりに暴力を選ぶ。鼻面へ蹴りを入れる。静流は派手にひっくりかえって、床に頭をぶつけた。美人に相応しくない、カエルような無様な声を出して、彼女はその場に丸まった。起き上がることを許さず、正奈は静流を組み敷く。後頭部を押さえ、頭をかしげたままでまた静流はつかれた、と漏らした。

「文句あんの? お姉ちゃんはもっともっともっと苦しかったんだぞ!」

――いいや、苦しまなかったはずだ。

 正奈の頭の中で何かが囁く。

――一瞬であったのが、せめてもの救いだったでしょうか。

 そんなことを口走ったのは誰だったか。姉の告別式でスピーチした教師だったか。目立ちたがり屋で、クラス全員を出席させようとしたあの女。わざとらしい抑揚、べしゃべしゃとした涙。そんなことばかり鮮明に覚えている。心を侵し溶かす酸のような怒りが、その記憶を刻みこんでしまった。

「お前はずっと苦しくなきゃあいけないんだよ! お姉ちゃんのためにさぁ!」

 正奈の姉は一年前に死んだ。

 事故ということになっている。みんな、そういうことにしたいらしい。

 親友の静流と山奥へドライブに出かけて、姉は『不運にも』運転ミスで崖から飛び出したのだ。

 お櫃の中身は見せてもらえなかった。

 引き上げられた姉は高校から貯めたお金で買った軽自動車と『混ざり合っていた』のだという。

 崖下でずっと姉を見ていたはずの静流は、それさえも覚えていないと言った。それを聞いた時が、正奈の最初の爆発だった。

「忘れていいわけないだろうが! このひとごろしめ! 死ねよ! 死んじゃえ!」

 正奈は分かっている。

 姉と静流は心中しようとしたのだ。それなのに、生き汚くも静流は取り残された。

 それまでのことを正奈はよく覚えている。

 だから、ドライブに行ってくると言った姉の、あの妙に明るい顔もはっきりと――いいや、姉は明るい顔だっただろうか。

 もっと、もっと泣きそうな顔だったかも。あの日、このリビングで止められたらよかったのに。そうやって心中の後、ずっと後悔していたはずだ。

 あの日、姉と静流は――

「思い出せないの」

「お前がころしたんだろうが!」

 正奈は怒鳴った。階下の母にも聞こえただろう。どうせ、出てこないだろうが。静流が退院してから毎日、正奈は彼女を部屋を呼びつけ、そして詰っていた。静流と出会わなければ、姉は死なずに済んだのだから。

「毎日、だんだん、桜のことがふわふわになるの……ああ、どんな声で、どんな匂いで、どんな仕草で、どんな顔……だったのかも、消えていくの。なんだかちょっとずつ、桜が死んでいく気がして……」

 正奈を意に介さず、教科書でも読み上げるように静流は言う。静流がどんなお姉さんだったのか、正奈はたまに思い出せなくなる。姉が紹介した彼女はもっと髪が長くて、溌剌としていた気がする。

 もう、思い出せない。

「じゃあ見ろッ、これが、これがお姉ちゃんだろう! お前がころした人間だよ!」

 忘却を恐れ、正奈は机に置いていた携帯を突きつける。姉の写真はロック画面に設定している。画面を点けた瞬間、正奈はぞっとしてしまう。

 ああ、姉はこんなにも明るく笑う人だっただろうか。

 正奈もまた、自分の記憶が疑わしくなる。たった一年でこんなにも壊れてしまうのか。毎日毎日、姉を考えていたのに。それとも、死んだ姉を、死に囚われた姉ばかり反芻していたから、生きていた姉を失いつつあるのか。

「桜……桜……ごめんね、どうしてかな……」

 一瞬、静流の目に人間性とでもいうのか、心のようなものが宿るのを、正奈は感じた。心に火花が散る、心に刻みつけられたものが勝手に熱を放つ。

 ずっと前も、静流はこんな目つきをしていた。

 扉の隙間から盗み見た、姉と静流。口づけを交わす二人。ずっと憧れだった姉が、自分の家庭教師で尊敬していた静流が、あんな顔をしていることが許せなくて、憎らしくて――

「正奈ちゃんがあんなことをしなかったら……」

「黙れッ! 黙れよ! 人のせいにすんのか!」

――私は二人のことを、みんなに言いふらしたんだ。

 何度だって、思い出す。発情した静流の吐息。姉の胸を揉んでいたその手つき。涎を垂らしていた姉の口元、なにもかも受け入れていたその目つき。

 あの瞬間だけが永遠で。他は全部色あせてしまった。

「この、ひとごろし」

――頭の芯が痺れてきて

――自分と相手、どちらがひとごろしなのか分からなくなってくる。

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