わたしのせかい

明日花

わたしのせかい


 人が生きるためには、誰かを犠牲にしなければならないと、彼は言った。

 砂糖菓子よりも甘い夢や理想を語るだけで生きれるほど、ここは優しくない、と。

 

 苦しいこともあるけど、至って平和な世界の平和な国に住んでいたわたしにとって、この場所は悪夢のようだった。

 

 本を読みながら、寝落ちしたはずだった。

アラームで慌てて目覚めて、学校の支度をするはずだった。

 でもわたしを起こしたのはアラームなんかじゃなくて、薄気味悪い笑い方をする言葉の通じない男の人で、わたしは自分の部屋じゃなく灼熱の太陽が照りつける砂漠の真ん中に倒れていた。

 彼はこの砂漠一帯を縄張りにする奴隷商だった。抵抗する間も無く捕まって、人生で初めて人間以下のレッテルを貼られた。商人の機嫌を損ねたらいけないことだけはわかって、オークション場があるらしい大都市に着くまで、毎日びくびくと暮らした。なぜこんなところにいるのか、と嘆く余裕も、擦り切れた心にはなくなっていた。

 都市につき、オークション場に入った途端摩耗した心が久しぶりに恐怖に震えた。これからどうなるのか、品定めをしてくる金持ちたちの目を感じて絶望が過ぎった。

 とうとう、ここでは珍しいという黒髪を気に入った好事家に競り落とされかけたとき、憲兵が突如オークション場に入ってきた。

 百人近くいるだろう彼らがさっと脇に避けて、道が開けた。

 全てがスローモーションみたいに見えた。

 ゆったりと歩いてきた、痩身の男性。

 

 彼がこの悪夢みたいな世界の王だった。

 彼はわたしの黒髪を一瞥して言った。


「人が生きるためには、誰かを犠牲にしなければならない」

「お前はきっと、こんな底辺の生活を知らない異国から来たんだろう。だが、砂糖菓子よりも甘い夢や理想を語るだけで生きれるほど、ここは優しくない」


言葉は、ここにきてから味わった絶望を一番簡単に納得させてくれた。

 それが真理なのだと、飲み込んだ。

 飲み込まなければ、本当に心は壊死していただろう。

 

 けれど、数々の痛みを知って、それでも背中を支えられてきた、今は。






「そんな風に生きるしかないことを、しょうがないと思いたくない」

 まいは胸に手をあて、応えた。

 心に浮かぶのは、どこまでも続く碧の空。この世界で目覚めた日、灼熱の太陽が座していた蒼穹を、今でもはっきり覚えている。

 人権もない奴隷として扱われ、都市に向かう途中、何度も憎悪と絶望に呑まれかけた。

 それでも、ふと見上げるとき、この世界の空はいつでも青く、嫌味なくらい果てなく澄み切っていた。

 あらゆる人を焼くような日差しに場所をとられながら、それでも優しく爽やかな色であり続ける空。

 綺麗なままでいたいと思った。人を憎まないでいたいと。

 この空が、苺に残された清らかな心のひとかけらを、ずっと守ってくれた。


 相反する風景を治める歪な王とふたたび対面して、それでも苺の手が震えていないのは、自分を自分であり続けさせてくれた、透明な青を知っているから。

 

 苺はずっと信じている。

 彼は国を腐敗させた愚王であるけれど、清らかな空を愛する心を持っているんじゃないかって。

 青空の美しさ、それが、苺が王の善性を信じる理由の全てだ。


 手を下ろし、背を伸ばす。伏せていた顔を上げ、異世界人の表れである黒色の髪を払った。奴隷商に目をつけられた原因となったため、かつては疎んで切り落としたそれは、今や長くふわりと宙に広がる。苺の声が、静かに、強く響く。

「誰かが誰かを支配したり、生まれによって限界が定められる体制は、やっぱりおかしいよ」

 

 三年間、痛みと苦しみに悶えながら、喘ぎながら、決して光を求めることをやめなかったことが、自分の誇りだ。苺は短いようで長い日々を思って、それら全てを包んで微笑んだ。


 目を背けない元奴隷に、王は何を思ったのか、束の間瞳を閉じて呟いた。

「…ならば足掻くだけ足掻け。そして諦めろ。無駄な夢は見るだけでも罪だ」

 覇気の無い、老熟した声だった。彼の在り方の揺るがなさの伝わる、三年前と変わらない内容と、幾分擦り切れた声音。

 苺は、それでも手を伸ばすことを諦めない。絶対に譲らない。首を振って、彼を見据える。

「結果は、誰もわからない。わたしは、誰もが笑ったり、泣いたり、間違って許し合って、また前を向いていける世界を、ここでつくるよ。そのためには貴方が必要だから、足掻き続ける。そしていつか、届かせる」

 

 手があるから夢を示すことができる、足があるから駆け出すことができる。目が見えるから瞳を合わせられる。

 だから苺は声を上げる。分かり合えるその日まで。


「俺の治世が続く限り、お前の望む未来は来ない」

 平行線だと見切りをつけた王は、酷く冷めた目で苺を睨み付けた。


 恐ろしいほど温度の無い彼に、今の苺は怯まない。

 此処に来て、三年。春と夏と秋と冬を繰り返し、苺は世界の広さを知った。

 

 何者でもない少女は、世界を手に収める遥かな高みにある王を初めて挑戦的に睨んだ。彼が薄く瞠目する。

 苺はそして、花のように笑った。

「わたしはわたしの世界で、あなたを笑わせて見せるよ」


 これは、王と少女の、理想と現実を飛び越えた、勇気のお話。

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わたしのせかい 明日花 @kurarisuta

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