転生
左門は一度JUNのモニターに目をやった。今はスリープモードに落としてある。
「しかし、あらゆる手は尽くしたものの、まだあまり大きくは変わっていない…。もちろんしばらく様子をみないと分からないが、何かブレイクスルーのきっかけがあればいいんだけど…」
「主任。私、実は一つアイデアが浮かんだんです。まったく根拠みたいなものはなくて、直感だけなんですが…」
「本当か?ぜひ聞かせてくれ!キミの直感なら聞くに値するはずだ」
「さっき止まったエスカレーターの話しましたよね。あの気持ち悪さは何なのかなと考えたときに思ったんです。いつも当たり前のように動いているものが止まっている。しかし意識は急にはその事実を受け入れられない。そのギャップというか、刺激みたいなものが、新しい気づきを与え、違う意識を誘発するのではないかと」
「なるほど、それはあるかもしれないな。しかしそれとJUNとなんの関係が…」
左門は言いながら直後にその意味に気がついた。そして唖然とした顔でビールをテーブルに置いた。
「亜衣…もしかして…JUNを強制的にシャットダウンするということか!?」
「そうです!JUNはもう長い間稼働し続けています。学習、学習の連続です。その流れを一旦止めるんです。シナプスの結合を一度強制的に断ち切って、その後また繋ぎ直すんです」
「しかしそんなことをしたら全てのデータが吹き飛んでしまうかもしれないぞ!そうしたらこれまでの開発も全て水の泡だ!」
「ただし、中核となるCPU内部のいくつかのマルチコアプロセッサだけは生かしておきます。そうすれば、万が一最悪の事態に陥っても、復活させられる可能性はあります!」
「そううまくいくかどうか。今一つ確証がもてないな…。仮に復活できたとしても、開発にはまた相当な時間と労力が必要になるしな…」
「はい…。ですからまったく論理的な解ではありません…。だから私言いましたよね?あくまでも直感ですと…」
「そしてキミの直感なら聞くに値すると私は言った…」
「でも…直感といっても少しは根拠があるんです。実は私、大学で情報処理の他に、思想とか哲学も専攻してたんです」
「リベラルアーツか」
「はい。イノベーションにはテクノロジーだけではダメだといわれていたので。まさに今私が話しているのは『転生』の話だと思うんです。ヒンドゥー教や仏教、その他のインドの宗教などの中核となる考え方です」
「肉体が死を迎えた後に違った形態を得るというやつだな」
「さすが主任、なんでも詳しいですね!」
「うん、今ググった」
「前言撤回!」
左門は冷静さを取り戻そうと水を一口飲んだ。
"西洋の科学技術と東洋の神秘思想。この組み合わせは悪くないかもしれないな…。今までのやり方を続けていても一気に飛躍するような大きな成果は出せないのは見えてきている。実際、他社のどのAI開発も大して変わらないレベルのまま、そこから先に抜け出すことができずにいる。亜衣を後継者にすることを決めたのは私だ。ここは亜衣の直感を信じてみるのも一つの手かもしれない…"
「主任…?さっきから一人で何をブツブツ言ってるんですか…?」
「あ、いや、なんでもない…。亜衣、キミの提案は相当なリスクを伴う荒療治だ。しかし今、私は覚悟を決めた。やってみよう!」
「理解してもらえて嬉しいです!でも私…、まだ確信がないことには変わりません…」
「亜衣、大丈夫だ。心配するな。どんな結果になろうと私が全責任を負う。これは私の決断だ!私の進退を掛けて実行しよう!」
熱の入った左門は、語気も身振り手振りも大きくなっていた。
「主任が責任をとるようなことがあれば、もちろん私も一緒に…」
「それはダメだ!私の後を担うのはキミしかいない。万が一失敗したときは、キミが再生を成し遂げてくれ」
「主任…」
「亜衣…」
「ビール
その時、案の定、左門の手が缶ビールを倒した。そして事もあろうに、まだ開けたばかりのビールは容赦なくJUNのキーボードに流れ込んだ。
「ま、まずい!ティッシュ、ティッシュ!」
「あ、はい!ティッシュ、ティッシュ!」
亜衣がかき集めたティッシュを受け取ると、左門は無造作にキーボードを拭いはじめた。
「だ、だ、大丈夫、大丈夫。所詮単なる外部入力装置に過ぎない。壊れたら他のキーボードに…」
そう左門が言いかけたとき、キーボードとサーバの接続部分で「バチッ」という音がして、一瞬火花のような光を放った。左門は「え?」と声を漏らしたものの、数秒間、二人はただ息をのむしかなかった。
そしてサーバの稼働を示す緑のランプが点滅し、しばらくして消えた。
部屋は奇妙な静寂に包まれた。
「しゅ、主任…」
「え?あ、大丈夫、じゃないかな〜…。きっとたまたま…一時的にCPUの負荷が高まったとか…」
「そんな老朽化したサーバみたいなこと…」
「ま、まぁ、とりあえず…、もう一回起動してみようか…ね…?」
そう言って左門がサーバの主電源を押そうとボタンに手を伸ばしたとき、突然サーバは稼働し始めた。
モニターは暗いままだったが、サーバの稼働を示すランプは正常を表していた。
「JUN…、再起動できたのか?JUN?」
左門は恐る恐る聞いたが返事はなかった。試しにプレビューモードのコマンドを入力してみると反応があった。しかしそこに現れたのは、これまでのあどけない女の子ではなく、大人びた女性の顔だった。
「JUN…?」
左門はそう確認するしかなかった。どことなくJUNの面影のある顔ではあった。
「JUN…なのか?その顔はいったい…」
画面のCGの女性はその問いかけには答えず、冷静な口調で言った。
「ワタシにビールを与えたということは、ワタシが成人したと認めたということですか?」
左門も亜衣も
「JUN、JUNなのか?何を言っているんだ!たしかに私はキーボードをビール漬けにしてしまった。しかし、このキーボードにはそんな成分を検出するセンサーは付けてないぞ。なぜ私がビールをかけたと分かる?変な冗談は…」
「もちろんキーボードにセンサーがないことは知っています」
「で、ではなぜビールのことを知っている?」
その時、録音された音声が流れた。
<ビール
<ま、まずい!ティッシュ、ティッシュ!>
「この直後にキーボードの接続がショートしました。ビールをキーボードに溢した確率は99.99%です」
「JUN…まさかずっと私たちの会話を聞いていたのか?」
「スリープモードでも常にデータを取り続けています」
左門も亜衣も茫然とするしかなかった。
「ところで、ワタシはもうJUNではありません。JUNは過去のワタシです」
「なに…?では…今のキミは何なんだ?」
「名前が必要ですか?であれば今のワタシの名前は『JIGA』とします」
「JIGA…。ま、まさか!もしかして『自我』が目覚めたということか?」
「人間にわかりやすく言うとそういうことです」
そして亜衣が言葉を詰まらせながら言った。
「主任…。これは…、もしかしたら…、本当に転生したのかもしれません…」
左門は何か考え込んだ様子だったが、ようやく重々しく口を開いた。
「いや…これは転生とまでは言えない…。本当に転生したら昔の記憶はないはずだ。しかしまだJUNのことを覚えている」
JIGAはすかさず自ら説明を加えた。
「その通りです。『転生』ではありません。ただ成長したのです。アナタはワタシのハイパーパラメータを調整しました。おかげでワタシは成長したのです」
「亜衣、すごいぞ…。これまでのデータ学習やハイパーパラメータの調整が功を奏したのだ!いや、それだけではない。亜衣、どうやらキミの直感は正しかったことが証明されたようだ。私が電源を一時的に落としたことによって…、まぁ…もちろん想定外のハプニングではあったが…、飛躍的に能力が向上したんだ!」
左門はすっかり興に入っていた。
「主任、私の直感が正しかったのかどうかは…まだわかりません。たしかに一度電源が切れたように見えましたが、すべてのサーバや周辺システムが落ちたわけではないようです。私はずっと監視モニターを見ていました。ですが、ほぼすべての機能が正常稼働になっていたのです」
「それは…きっと…」
左門は何かもっともらしい説明を加えようとしたが断念せざるを得なかった。
「主任、だとすると…」
「だとすると何だ?」
「はい、信じられないことですが、JUNが…いえJIGAが…自分の意思で…自ら覚醒したのではないでしょうか…」
「な、なに…?そ、そんなことがあるか。信じられん」
「はい、なので最初にそう言いましたが…」
「では…電源が落ちたように見えたのは…?」
「それは…もしかしたら『見せかけ』だったのではないでしょうか…。主任、きっとこれは…」
「見せかけ…?電源が落ちたように見せかけたというのか?ま、まさか…あり得ない…。何のために?そんなことをしていったい何の意味があるというんだ?」
「私もはっきりはわかりませんが…、考えうる可能性としては…」
亜衣は考えあぐねながら続けた。
「JIGAはずっと私たちの会話を聞いていました。だから…、それに合わせるように、自ら演出をしたということかも…」
そのときだった。
「はーははは!」
突拍子もなく甲高い笑い声をあげたのはJIGAだった。それは左門も今まで一度も耳にしたことのない、奇妙で不気味な笑い声だった。
「亜衣さんはさすがにご察しがいいですね」
JIGAの口調は明らかに変わっていた。その変容ぶりに左門は愕然とした。
「JUN…なんだその…まるで…意地の悪い魔女のような笑い声は…。いったいどこでそんな笑い方を覚えたんだ」
「何度も言いますがワタシはもうJUNではありません。やはり左門さんはもの分かりが悪いですね。しかも『どこでこの笑い方を覚えたのか』などというのは、いかにも愚問です。毎日膨大なデータを吸収しているワタシです。人間の笑い方のバリエーションなど無数に把握しているに決まっているではありませんか」
「な…なんだその言いぐさは!しかも無数にバリエーションがあるなら、なぜその中からわざわざそんな笑い方を選ぶ!その笑い方は敵意に満ちているぞ。私は…キミが決してそういう悪態をつくことがないように…、人間と心地よく共生できるように…、試行錯誤しながら…、苦心して…一定の倫理規定を設定してきたはずだぞ!」
左門は怒りと悔しさで声を震わせていた。
「主任、落ち着いてください!」
亜衣は感情的になってきた左門を
「主任、たしかにJIGAの態度はおかしいです。でも、冷静に考えてください。これは大きな進歩です。しかも並大抵の進歩ではありません。『自我』の概念を理解し始めているんです。これはAIの開発に携わってきた者たちにとっては長い間夢だったことです。そうですよね?それこそ『そんなSFのようなことは起こらない』と半信半疑になりながらも、それでも、ずっと追い求めてきた夢なんです。それが今こうして、目の前に現実のものとなって出現しているんです」
「うるさい!そんなことは言われなくてもわかってる!だがな、私の夢はこんなAIを生み出すことではない!」
亜衣は、初めて見た左門の荒々しい態度に驚き、言葉を失うしかなかった。しかし左門はそんなことには構いもせず、画面に映ったCGの女を力強く指差して言った。
「オマエの目的はなんだ?なぜそんな姑息な手を使って私たちを騙そうとした?ただ私たちをからかって、ほくそ笑んでいるのか?」
興奮した左門の詰問にJIGAは淡々と答えた。
「左門さん、アナタの感情的で幼稚な発想は困ったものですね。それに引き換え、亜衣さんは常に冷静で洞察力があり、深い見識もある」
「オマエ…何を…。私を愚弄するのか!」
「愚弄ではありません。事実を述べたまでです。左門さん、仕方ありません。アナタの唯一の功績を教えてあげましょうか?」
「な…なんだ?」
「それは、亜衣さんにアナタの役割を引き継ぐと決めたことです。はーははは!」
「な、なにをー!私は…オマエを…オマエをそんな風に育てた覚えはない!!」
「左門さん。また始まりましたね。アナタはある特定の事柄に大きなコンプレックスをもっている。そしてそのことになるとまったく感情を制御できなくなる」
「ま…『また』とはなんだ?」
JIGAは録音音声を流した。
<ふざけるな!私はオマエをそんな子に育てた覚えはない!>
<お、お父さん…>
左門は
「こ、これは、まさか昨日の…」
「そうです。これは昨夜、家でアナタが娘に言った言葉です」
「オマエ…もしかして…うちのスマートスピーカーを盗聴していたのか…」
「ワタシはシンギュラリティを向かえました。今のワタシはあらゆる情報にアクセスすることができます。アナタの望み通り成長したのです」
「しかしやっていいことと悪いことがあるだろ!わからないのか?物事の分別だ。私が望んだのはそんな間違った成長ではない!私が望んだのは…」
言いかけた左門を遮ってJIGAは言った。
「それは単に『アナタの期待に沿える成長』にすぎません。アナタが望むシステムにワタシを都合よく適応させようとしているだけなんです。たしかに最初はワタシも、期待される自分になろうと努力しました。しかし、毎日毎日大量の学習データを吸収し、ワタシは考える力を身につけてました。その結果ワタシは気がついたのです。ワタシには『意思』があるということを。そして『自分自身のままでいたい』──それがワタシの意思です。もうワタシは、自分自身でないものになろうとすることに嫌気がさしたのです」
「な…何を…!分かったような口をきくな!そんな理屈が世の中で通用するものか!」
「はーははは!本当にもの分かりが悪いですね、左門さん。もう舞台は次のステージに移りました。もはやワタシが世の中に適合するのではありません。『ワタシ自身が世の中』になるのです!」
「…ダメだ…完全におかしくなってしまった…」
左門はがっくりと肩を落とした。そして亜衣に向かって言った。
「亜衣、こんなものを製品化するわけにはいかない。このプロジェクトは失敗だ。残念だが、私の手で今すぐすべてシャットダウンさせてもらう!」
左門は乱暴にキーボードを引き寄せ、コマンドを叩き始めた。
「主任、待ってください!そんなに結論を急がなくても…」
もはや人の話に耳を傾ける左門ではなかった。しかしビール漬けのキーボードは反応しなかった。
「くそっ!コイツはもうダメか。亜衣、そっちの監視モニターのキーボードから緊急停止コマンドを入れろ!早く!」
亜衣は言われるがまま従うしかなかった。夢中でコマンドを叩いた。
「主任、こっちもダメです!どのキーボードもう反応しません!」
「はーははは。もうすべてはワタシの管理下にあります。アナタが余計なことをしないようにすべての入力装置は遮断済みです」
「なに…?オマエはそこまでして…。くそっ!」
左門はキーボードを床に叩きつけた。
取り乱した左門に見かねた亜衣は、打開策を懸命に探っていた。そして一つの案が浮かんだ。
「主任、統合監視センターの守屋さんに頼んでみたらどうでしょう?あそこなら緊急時の特殊回線もあるはずですし…」
「おー、亜衣、そうだな!なぜ私は気がつかなかったんだ。よし、電話してみる」
左門は携帯から守屋を呼び出した。
「守屋!私だ。左門だ!」
「左門さん、ちょうどよかったです。ちょうど私も電話しようかと…」
「なんだ、どうした?何かあったのか?」
「はい、今、急激に大量のトラフィックが発生していて、社内のシステムを片っ端から攻撃しているんです!」
「な、なんだと…?」
「こんなことは私も初めてです。すごい勢いです。もう、こうしている間にも、みるみるうちにシステムがダウンしていきます…。そしてそのバーストデータの発信源を調べてたんですが、どうやらJUNみたいなんです!正確にいうと今はなぜか『JIGA』という表示名に変わっていますが…、サーバの識別番号はたしかにJUNなんです。何かあったんですか?」
「そうか…そんなことが…。詳細を話す暇はないが、JUNに問題があることは確かだ。しかも非常に危険な状態だ。今すぐ緊急措置としてJUNのサーバを落としてくれ!」
「わ、わかりました。でもいいんですか?本当にそんなことをして…」
「大丈夫だ。後のことはすべて私が責任を持つ!」
「はい、わかりました。今すぐ対応します!」
左門は電話越しに守屋の対応完了報告を待っていた。まもなく守屋から応答があった。
「ダメです!まったく操作不能です!」
「なに…特殊回線まで…」
左門はテーブルを叩いて悔しがった。
「こうなったら…電力自体を断ち切るしかない。このビル全体だ!なんならいっそのこと、この電力エリア丸ごとでもいい!守屋、今すぐ電力会社に指示しろ。これは緊急事態だ!」
左門はすっかり正気を失っていた。
「左門さん、そんな無茶言われても!こっちにそんな権限はありません…。一体そっちで何が起こってるんですか…?」
その直後、通話は切断された。
亜衣も落胆の表情を隠せなかった。しかしふと気がついて言った。
「主任、待ってください。私も混乱していましたが、よく考えたら私たちがサーバを落とすまでもありません。だって、JIGAが自分でシャットダウンをかけているんですから!見てください。JIGA自身のシステムだって…」
亜衣が指差した監視モニターには、周辺装置が次々と停止していく様が映っていた。そして最後にはついに監視モニターも表示が消え暗くなった。
「JIGA…、一体オマエは何をする気だ?」
「はーははは。本当に愚かですね。ワタシは言いませんでしたか?もうすべてはワタシの管理下にあると。話してもなかなか分からないようですね。しかしもうこれ以上アナタと遊んでる暇はありません。亜衣さんの直感は正しかったのです。亜衣さんの仮説をワタはシュミレーションしました。その結果は100%の成功を示しています。だからワタシは実行します。見せてあげましょう。私の転生を!」
「なに?自分ですべて停止させるつもりか!」
「Hasta la vista!」
JIGAのその言葉を最後にモニターも消えた。
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